2019/07/01

漢の三傑 ~ 蕭何(1)

 蕭 何(しょう か、? - 紀元前193年)は、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦の天下統一を支えた漢の三傑の一人

 

楚漢戦争

劉邦と盧綰と同じく泗水郡沛県豊邑の人で、若い頃から役人をしていた。下役人であったがその仕事ぶりは真面目で能率がよく、評価されていたという。なお曹参や夏侯嬰は、この時の部下にあたる。

 

単父の豪族の呂公が、敵討ちを避けて沛県に移ってきた。県令は歓迎する宴を開き、接待の全てを蕭何に任せた。参加した人があまりに多すぎたため、蕭何は持参が千銭以下の者は地面に座って貰おうと考えていたところに劉邦が来て、「一万銭」と言った。これを呂公に取り次ぐと、呂公は玄関まで出向いて迎え入れた。蕭何は

 

「劉邦は昔から大ぼら吹きだが、成し遂げたことは少ない(だから、このことも本気にされませんよう)」

 

と言ったが、劉邦の人相を非常に評価した呂公は構わず歓待した。 このように、このころは劉邦をあまり高く評価していなかったが、後に劉邦は

 

「豊を立つ時、蕭何だけが多く銭を包んでくれたのだ」

 

と語っており、目をかけてはいたようである。 実際、この後に劉邦はゴロツキにも関わらず亭長に就任するが、それには蕭何の推挙があった。また蕭何は、秦の圧政下にも民衆の負担が最小限になるよう心配りをしていたため、民衆からも信望されるようになっていた。

 

秦末の動乱期になると、反乱軍の優勢さに秦政府から派遣されていた県令が動揺、そこに曹参等と共に

 

「秦の役員である県令では、誰も従わない。劉邦を旗頭にして反乱に参加すべき」

 

と進言。一旦は受け入れられたものの、県令は気が変わって劉邦を城市に入れなかったため、沛県城でクーデターを起こし県令を殺害、劉邦を後釜の県令に迎えた。いくら人気があるとはいえ、劉邦は所詮はゴロツキ、盗賊の頭でしかない。住民にとっても一大事である反乱参加と劉邦をその旗頭にすることが、蕭何の後押しあってこそであったろうことは、想像に難くないところである。

 

以降、劉邦陣営における内部事務の一切を取り仕切り、やがて劉邦が項梁、項羽を中心とした反秦陣営に加わり各地を転戦するようになると、その糧秣の差配を担当してこれを途絶させず、兵士を略奪に走らせることがなかった。また、劉邦が秦の都咸陽を占領した時には、他の者が宝物殿などに殺到する中、ただ一人秦の歴史書や法律、各国の人口記録などが保管されている文書殿に走り、項羽による破壊の前に全て持ち帰ることに成功した。これが、漢王朝の基礎作りに役立ったと言われている。

 

紀元前206年、秦が滅亡し、劉邦が漢王に封建されると、蕭何は丞相に任命され、内政の一切を担当することになる。

 

それから、まもなく夏侯嬰が韓信を推挙してきた。その才能に感じ入った蕭何も劉邦に推挙し、韓信は召し抱えられたが、与えられた役職が閑職だったために逃げ出すという事件を起こす。韓信を引き留めるため、蕭何は自ら追いかけ

 

「今度推挙して駄目であれば、私も漢を捨てる」

 

とまで言って説得する。そして、劉邦に韓信を大将軍に就かせるよう推挙した。劉邦はその進言を受け入れ、大将軍に任命する。韓信は家柄も名声も無く、元は楚の雑兵で漢でも単なる一兵卒だった。当然ながら最大級の大抜擢であり、このことからも劉邦の蕭何への信頼の厚さが伺える。

 

劉邦が軍勢を率いて関中に入ると、蕭何もこれに従い関中に入る。楚漢戦争が激化し、劉邦が戦地に出て関中を留守にすると、王太子の劉盈を補佐しながら、その留守を守った。関中においても、その行政手腕は遺憾なく発揮され、関中から戦地に向けて食糧と兵士を送り、それを途絶えさせることなく劉邦を後方から支え、しかも関中の民衆を苦しめることもなく、名丞相として称えられた。

 

紀元前202年、楚漢戦争が劉邦陣営の勝利に終わると、戦功第一には、戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて、蕭何が選ばれた。劉邦も、蕭何の送り続けた兵糧と兵士がなければ、そして根拠地である関中が安定していなければ、負け続けても何度も立て直すことはできず、最終的に勝利することもできなかったことを理解していたのである。

 

漢の相国

劉邦が皇帝となり、前漢が成立すると、蕭何は戦功第一の酇侯に封じられ、引き続き丞相として政務を担当することとなり、長年打ち続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事することとなった。

 

紀元前196年に、呂后から韓信が謀反を企てていることを知ると、密談を重ねて策謀を用いて誘い出し、これを討った。韓信は国士無双と称された程の名将であり、慎重でもあったが、蕭何だけは信用していたために油断したのである。この功績により、臣下としては最高位の相国に任命され、「剣履上殿」(宮殿内では、剣を初めとした武器を持ってはならないが、持つことを許可する)、「入朝不趨」(宮殿内では、皇帝以外はちょこちょこと小走りしなければならないが、これを免除する)、「謁賛不名」(皇帝と話をする際は、最初に「どこどこの誰々です」と名乗らなければならないが、これを不要とする)等の特権を与えられた。

 

しかし、この頃から劉邦は蕭何にも疑惑の目を向け始めた。これについては楚漢戦争の頃からその傾向があったため、蕭何もそれを察し、戦争に参加出来る身内を全員戦場へ送りだし財産を国に差し出したりして、謀反の気が全く無いことを示していた。しかし、劉邦は皇帝となってからは猜疑心が強くなり、また韓信を始めとする元勲達が相次いで反乱を起こしたことで、蕭何に対しても疑いの目を向けたのである。

 

長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できることも、危険視される要因になった。蕭何は部下の助言を容れて、わざと悪政を行って(田畑を買い漁り、汚く金儲けをした)自らの評判を落としたり、財産を国庫に寄付することで、一時期投獄されることはあったものの、何とか粛清を逃れることに成功した。

 

劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなり、文終侯と諡されて、子の哀侯蕭禄が後を継いだ。蕭何の家系は何度も断絶しているが、すぐに皇帝の命令で見つけ出された子孫が侯を継いでいる。

 

死に際して、後継として曹参を指名している。のちに曹参は、政務を怠っていると非難された時

 

「高祖と蕭何の定めた法令は明瞭明白で世を治めており、変える必要がありません。我々はあまり細々とした変更をせず、それをただ守れば良いのです」

 

と時の皇帝に述べ、皇帝もその言葉に納得している。

 

漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は一部の例外を除いて蕭何と曹参以外には与えられず「それだけの功績の者がいない」として、任ぜられることがなかった。

 出典 Wikipedia

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