2019/05/06

犬のアンティステネス(2)


アンティステネスの学問
 そのアンティステネスは、当初は「弁論家ゴルギアスの弟子」であったと言われ、そのため彼の著作にはゴルギアス風の文体が持ち込まれていると言われています。その後、彼はソクラテスを知るに至って彼に惹かれ、「自分の弟子共々」ソクラテスのもとに加わったと言われています。そうだとすると、すでに「弟子をもっている一人前の盛年」になってからソクラテスの下に加わったことになります。プラトンが、その著作の中で「晩学の人」といささか冷ややかな態度で揶揄して言及している人とは、このアンティステネスのことを指しているのだろうと言われています。

 しかし、一人前になって弟子までいるのに、その自分のあり方を捨てて「弟子まで引き連れて別の人物の門下に加わる」など、通常の人間にはなかなかできることではありません。真実のためには見栄も外聞も捨てて良いとする、アンティステネスの人柄がしのばれます。そして彼は、アテナイの市内とは7キロ強ほど離れたペイライエウス(現在のピーレウス港近辺)に住んでいたけれど、毎日ソクラテスのもとに通ってきたといいます。

アンティステネスの人柄
 彼はいわゆる「キュニコス学派」の祖とされますが、それは彼の教えたところが「キュノサルゲス(文字通りには「白い犬」)」の体育場であったためと言われている、と古代の哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスは伝えています。また、その思想についても「刻苦に耐えること」と「情念に惑わされない心」とのみを挙げており、別に「犬のような生活ぶり」を本質として挙げてはおりません。

 しかしながら、他方でディオゲネス・ラエルティオスは、アンティステネスを評して「口ではなく、言葉によって人々の心に噛み付くよう生まれついた犬であった」と述べています。つまり、すでにアンティステネスにおいて、犬のようなという態度があったことが理解できます。また、これは文脈からして褒め言葉であって、決して侮辱的な言い方ではありません。

そこで一般には、この「キュニコス学派」は「犬(キュオン、形容詞がキュニコス)のような生活ぶり」から命名されたと理解しています。つまり、アンティステネスの反社会的特質が実生活に反映したとき、当時の社会のあり方からして結果的にアンティステネスは社会に噛み付くことになり、これがさらに徹底されて「反社会的生活」「社会の価値観の侮蔑」「野良犬のような生活」となっていったと言えます。これがはっきり現れるのは「アンティステネスの弟子のシノペのディオゲネス」の場面となります。

 ただ、アンティステネスは「社会に噛み付く」とは言われていても「彼の人柄はむしろ非常に素晴らしい」ものであったことが伝えられています。師であるソクラテスに対する尽きせぬ敬愛と情愛は、伝えられる文献のすべてがそれを保証し、また哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスはテオポンポスという人の評価を伝え、テオポンポスはソクラテス門下の中でこのアンティステネスだけを賞賛し、彼は非常な才能を持ち、機知に富んだ会話によってどんな人をも自分の思うままに導いたと言っていたと述べて、そのことは彼の書物でも確認できるとしています。

加えて、同じことは著作家クセノポンの『饗宴』からも読み取れるとして、クセノポンはアンティステネスについて、交際するにはこの上なく楽しい人であるが、他の事ではきわめて自制心に富んだ人であったと述べている、と伝えています。

 ちなみに、クセノポンという人はソクラテスの弟子の一人であり、数々の著作を現代にまで残しているほどの人物です。古代の哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスは「ソクラテスの三大弟子」として「アンティステネス」と「プラトン」及びこの「クセノポン」を挙げているのですが、その理由は当時にあって理想的と見られたクセノポンの「高潔な人生」にあったと考えられます。

 しかし、アンティステネスには、反面で厳しいところもあったようで、とりわけそれは弟子に対してそうであったようです。伝えられているところでは、何故弟子にそんなに厳しいのかと問われて「医者だって患者にはそうしている」と答えたとか、弟子が少ないことを問われた時にも「銀の杖で彼等を追い払うからだ」とか答えたと言われています。銀の杖とは何なのか説明されていませんが、価値があるものだが、それで殴られると痛いというような意味で、「教えは価値あるものだが厳しい」といった意味なのでしょう。とにかく「労苦こそが善」であることを、凄まじい困苦の冒険に生きたヘラクレスを例に出して説明していたらしいので、その労苦を強いられた弟子としたら堪ったものではなかったのでしょう。

 そして「快楽に耽るくらいなら、気が狂っている方がましだ」などとも言っていたようです。そして贅沢を善きものとしている人々に対して、君の敵の息子達がどうか贅沢な暮らしをしてくれるようにと皮肉に応じたと言われますが、これは当然「贅沢が柔弱な人間を造る」という認識からでしょう。そして彼自身の生活は当然ひどく質素なものとなり、下着などもつけず着古した上着を二重にはおって上着と下着にしてしまった最初の人であり、あごひげを伸ばしずた袋と杖を携えていたと言われています。実はこの格好は、その後の(キュニコス的な)哲学者の定番とされたような格好であったようです。

 しかし彼も師のソクラテスのように、なかなか自然体でそういう生活になっていたわけではないようで「頑張ってそうしていった」らしく、ここにどうしても自分に強いていった無理が見えたようでした。つまり、ある時自分の粗末な上着を翻して、そのほころびが見えるようにしたとき、師のソクラテスから「そのほころびから、お前の虚栄心が見えてしまうよ」と諭されたという逸話が伝えられているからです。これは「ソクラテス伝」のところにもでてきます。

 そうではあっても、アンティステネスは必死にそうした自分や社会と戦い、「世の評価・評判というものとは無縁」にありたい、むしろそうあるべきだと考えていたようで、孤高を保とうと努力していたようです。

 ですから「お世辞を言ってくるような人間の間で生きるより、むしろ鴉の群の中に居たい」とか「悪い人たちから褒められると、自分が何か悪いことをしたのではないかと心配になる」とか、年少の弟子であるプラトンがアンティステネスの悪口を言っていると聞かされて「立派なことをしていて悪い評判を立てられるのが王者らしいのだ」とか言ったと伝えられています。

 そうしたアンティステネスでしたので、今紹介したようにどうも「名門の生まれで気位の高かったらしいプラトン」とは肌合いが合わなかったようでした。プラトンが、アンティステネスのことをその対話篇の中で、それとは名指ししていないものの「冷ややかな言い方をして揶揄」していることは先に紹介しましたが、アンティステネスの方も「鼻息の荒い馬」にプラトンを譬えて揶揄していたという逸話も伝えられています。馬は、この当時「貴族」のものでした。プラトンを「鼻息の荒い鼻持ちならない貴族」になぞらえたわけです。

 もっとも同門の弟子で「高潔さで知られたクセノポン」とプラトンも仲が悪かったと伝えられており「天才肌のプラトン」が何かしら仲間うちでは気にさわるところがあったのかもしれません。実際おもしろいことに、プラトンの著作にクセノポンは名前すら全然触れられてこず、全く無視されているのでした。

クセノポンは、プラトンの名前くらいちゃんと言及しています。同じくソクラテスの門下とはいっても大分、気質の差があったようなのが興味深いです。この気質の差が、同じような問題意識を持ちながらも、その哲学のあり方を三者三様にしていったのでしょう。

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