2019/05/27

雑草とエリート ~ 項羽と劉邦(4)



反乱集団のリーダーとして、もうひとり有名なのが劉邦(?~前195)です。この人も楚の地方の出身。農家に生まれるんですが、まじめに働くことができない人だったんだ。面倒見はいいから元気のいい若い衆には人気はあるけれど、怒らせたらちょっと怖い村の顔役みたいな感じかな。悪くいえばチンピラ、ゴロツキです。

 当時は、劉邦みたいに共同体の秩序からはみだして、エネルギーを持て余していた人のことを「侠(きょう)」といった。始皇帝を暗殺しようとした荊軻も「侠」です。陳勝も「侠」といえるかも知れない。

 戦国時代は終わって、まだ10年そこそこでしょ。「侠」の感覚を持った連中は国中にいた。家柄とか血筋ではなく自分の能力、才覚で一旗揚げてやろうという人々です。戦国時代の遺風といってもいいかも知れない。劉邦は、そういう人々を自分の周りに集めて、やがて大きな勢力をつくっていきます。エリートの項羽とは、このあたりが違うところです。

 劉邦は中年になって、地元で秦の下っ端役人の仕事に就いた。亭長といって交番の駐在さんのようなものだったらしいんですが、一応秦の役人ですから、その劉邦のところに政府から命令が来たんだ。これが、里の若者を阿房宮の工事のために都まで引率してこい、というものだった。

 というわけで、劉邦は若者たち何百人かを徴発して、都に向かって旅に出る。ところが、宮殿の工事といっても大変厳しい作業だということはみんな知っているわけ。奴隷のようにこき使われて、ばたばた倒れて死ぬものも多い。だから、旅の途中で若者たちは、どんどん脱走してしまう。夜が明ける度に人が減るわけだ。とうとう都に着つかないうちに、半分になってしまった。

 半分しか人夫を連れていけなければ、引率者である劉邦の責任になるわけですね。若者たちは宮殿工事で死ぬかも知れないし、自分も脱走の責任を問われて処刑されるかも知れない。切羽詰まった劉邦は、開き直った。ここまでついて来た者たちに、逃げろという。

 「もうやめじゃ!
 俺は秦の役人を、ここで辞める!
 俺も逃げるから、おまえらもみんなどこかへ逃げろ!」

 みんなを逃がして、劉邦も逃亡しました。元の里に帰ったら、秦の役人に捕まるので、里のそばの沼沢地帯で逃亡生活を続けていたんです。

 陳勝・呉広の乱が、秦政府の無理な徴発が原因で起きたでしょ。劉邦も同じような経験をしているんですね。ここから考えると、秦の過酷な使役に耐えかねて逃亡生活を送ったり、爆発寸前まで追いつめられていた民衆がたくさんいたに違いありません。陳勝・呉広が火をつけたら、アッという間に燃え広がったわけです。

 さて、劉邦が逃亡生活をしているうちに、やがて陳勝・呉広の反乱が起こった。全国が騒然としてくる。そこで、劉邦も自分の里に帰って「侠」の連中を集めて一旗揚げました。地方役人も大混乱の中で、自分たちを守るために劉邦をバックアップしました。

 劉邦の反乱グループは、陳勝・呉広の無きあと各地の反乱集団を束ね始めた項羽の傘下に入ることにしました。こんなふうに項羽集団は各地の反乱集団が結集して、どんどん大きくなっていったんです。

このあと項羽と劉邦はライバルとなって、秦滅亡後の指導権を争うんですが、このふたりは実に対称的。項羽は名門貴族のエリート武人。劉邦は田舎の農民出身。項羽は20歳そこそこ。劉邦は40くらいです。当時の感覚では、相当の年齢といっていい。項羽は、自分の才能に自信がありすぎて他人を軽んじるところがありますが、劉邦は自分の配下のものには面倒見がいい。「侠」の感覚でしょうか。親分的なんですね。

 始皇帝が全国を巡幸したときに、項羽も劉邦もその行列と始皇帝を見た。その時の項羽のセリフ。「いつか取って代わってやる。」取って代わるという表現は、項羽が初めて使ったんですよ。劉邦のセリフ。「男と生まれたからには、あんなふうになってみたいもんだぁ。」

 さて、反乱軍は秦の都、咸陽に向かうことになった。主力軍は項羽が率いて真っ直ぐ西に向かった。別働隊を劉邦が率いて、これは南回りで咸陽に進撃します。先に咸陽を占領した者が、その地域の王になるという約束があったので、競争ですね。軍隊としては項羽軍が強いのですが、秦の精鋭部隊がぶつかってくるので前進に手間取ってしまった。その間に劉邦軍はたいした抵抗も受けずに、咸陽の都に突入し占領に成功してしまった。

 秦では二世皇帝が趙高に殺され、その趙高もまた殺されて、三世皇帝が即位して一月ばかり経ったところです。秦の政府は混乱していて、もうどうしようもない。三世皇帝は自分の首に縄を掛けて、劉邦の元に出向いてきました。これは、全面降伏の意味です。こうして、秦は滅亡しました。

 劉邦は、占領した咸陽で何をしたか。劉邦は咸陽で秦の宮殿に封印して、宝物を略奪させなかった。三世皇帝など、秦の皇帝一族を殺さずに保護した。「法三章」を発布した。「殺すな、傷つけるな、盗むな」という非常に単純な法律です。劉邦は秦のややこしい法律を全部なくして、この三条だけにしたのです。法家思想による厳しい支配で苦しんでいた人々は大喜びです。

 こういうことを立て続けにやった劉邦の人気は、ぐんぐん鰻登り。やがて、遅れて項羽の本隊が咸陽にやってきました。総大将項羽は、咸陽に入ると三世皇帝など秦の皇族を殺して、阿房宮を略奪したあと火を放った。劉邦の処置をひっくり返したといっていい。劉邦の評判が良かっただけに、項羽は人気がなくなっていきます。

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