2019/05/21

犬のアンティステネス(4)「キュニコス学派」

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html 

哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスは、ディオクレスという人が記録しているアンティステネスの言葉を紹介してきますが、その中に「身内の者よりむしろ正しい人を重んずる」「人間としての優れは、男子のそれも女子のそれも同じである」というものがあります。共にソクラテスに源を帰すことはできますが、当時の社会通念とは全く距離のある見解で、しかも彼は「学園の学者」ではなく「市井の人」として生きていたようですから、その反社会性はより目立ったことでしょう。

 一方、この「人間としての優れ」の獲得について、アンティステネスはソクラテスの徒として「思慮」や「理性」を重んじことも伝えられており「思慮はもっとも堅固な防壁である、それは崩れ落ちることもなければ裏切りよって敵の手にわたることもない」と言っていたようでした。さらに「人は自分自身のゆらぐことのない理性の働きの中に、防壁をきずかねばならない」とも言っていたようです。

 こうしてアンティステネスは、ストア学派のもっとも厳格なタイプの派の開祖となったのであるとディオゲネス・ラエルティオスは評価をし、シノペのディオゲネスの「不動心(アパテイア)」、その弟子のクラテスの「自制心(エンクラテイア)」、そしてストア学派の祖となったその弟子のゼノンの「堅忍不抜の心(カルテリア)」といった概念に道を開いたと言ってくるのでした。

 なお彼の著作として、たくさんの書名が伝えられていますが残念ながら、それらすべて散逸してしまいました。ただ、アリストテレスには「定義」とか「命題」といった論理的課題に対して、アンティステネスは独自の見解を示していたという言及があります。しかし、これについてはテーマからはずれるので、ここでは深入りしないことにします。

 以上のようにみてくると、アンティステネスはソクラテスが身をもって示した生き方を「意識化し自覚的にした人」つまり「ソクラテス的生き方」を一つのタイプとして確定した人であった、と位置づけることができそうです。そうした意識的な生き方において人にそのあり方を説くことができ、そうであることによってそうしたタイプの弟子を持つに至り、後のストア学派を用意することになったと言えるでしょう。

キュニコス学派の突きつけている問題
 キュニコス学派は、現代にまで通用するいくつかの重要な問題を指摘しているのですが、それが哲学史的にあまり問題にされていないのが不当な評価と言えます。では、そのキュニコス学派が突きつけていた問題とは、何だったのでしょうか。

 その重要な問題の一つは、「人間の徳性という問題に、理論がなじむのか」という問題を提起している点です。現代の私たちは、たくさんの理論を持ち「倫理学」という学問も持っています。私たちは、これに何の疑いも持っていないのですが、しかしはたして「倫理学という学問は、何に立脚して成立しうるのか」という根本的な問題を、このキュニコス学派は突きつけているのです。つまり、「具体的行為、具体的社会」に立脚しない、あるいはそれに「反映されない」倫理学とはどんな意味があるのか、という問題です。

 また私たちは「何で快楽を退けなくてはならない」のでしょうか。キュニコス学派はこれを「敵視」しましたが、その意味はどこにあるのでしょうか。ソクラテスだってパーティーを楽しんでいました。もちろん「過度に溺れて」は体も心も駄目になってしまいますが、この「快楽というのは、人間の生活のベース」なのではないか、これが無ければ人は働かず、文化を創ることもなくなるのではないか、労働とは何なのか、文化とは何なのか。実はキュニコス学派は「社会ばかりか文化も否定」しているようです。

「快楽」を否定すれば、そうならざるを得ません。いや否定というよりも、キュニコス学派は「社会というもの文化」というものを根本的に考え直そうとしているのです。「快楽とは、それを追い求める社会とは、そしてそこに成立する文化とは」という問題です。実際、こう問われて現代の私達は何と答えて良いのでしょうか。

 シノペのディオゲネスの言う「コスモポリテース(世界市民)」という提題も、非常に重要な問題提起だと考えられます。しかし、ここでも私たちは人間にとって「特定社会」は当然あるべきもの、国家の文化は良いものと信じて疑っていません。ですからキュニコス学派の問題が分からないのですが、今日私たちの社会ないし国と言ってもよいですが、それは「互いに侵略しあい紛争だらけ」です。「自分だけの国、自分だけの社会」にこだわることが、こうした事態を生んでいるわけです。

 また現代の文化の代表としての科学は、地球そのものを崩壊させようとしています。私たちは「社会というもの、文化というものを根本的に考えなおさなければならない」時にさしかかっているのです。もちろん、私たちは社会をなくすことなどできず、原始時代に戻ることもできません。しかしその意味を根本的に問い直すということは常に行われていて良かったことなのであり、キュニコス学派の意味というものも、もう少し真剣に考えてきても良かったのではないかと思うのです。

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