本願寺再興
文明7年(1475年)8月21日、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波、摂津を経て河内出口(後の光善寺)に居を定めた。
文明10年(1478年)1月29日、山科に坊舎の造営を開始。8月17日、第三夫人如勝尼が死去。
文明13年(1481年)、真宗佛光寺派佛光寺の法主であった経豪が、佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流。蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、興正寺(真宗興正派)を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。
文明14年(1482年)には、真宗出雲路派毫摂寺第8世で真宗山元派證誠寺の住持でもあった善鎮が、門徒を引き連れて合流してきた。
文明15年(1483年)8月22日、山科本願寺が落成する。同年、長男順如が死去。
本願寺の発展
文明18年(1486年)、紀伊に下向。後の鷺森別院の基礎(了賢寺)ができる。同年、第四夫人宗如尼が死去。
長享2年(1488年)5月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起。同年6月9日、加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城において包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息を送って一揆を諌めた。
延徳元年(1489年)、75歳。寺務を5男の実如に譲り、実如が本願寺第9世となる。
明応2年(1493年)、真宗木辺派錦織寺の第7代慈賢の孫勝恵が伊勢国・伊賀国・大和国の40か所の門徒を引き連れて本願寺に合流した。蓮如は山科南殿に隠居して「信證院」と号する。
明応5年(1496年)9月、大坂石山の地に大坂御坊を建立し、居所とした(後の大坂本願寺(石山本願寺))。
明応8年(1499年)2月20日、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。3月20日、下間蓮崇を許す。3月25日(1499年5月14日[3])、山科本願寺において85歳で没した。
妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。
布教
蓮如の布教は、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた『御文』(『御文章』)を中心に行われた。後に蓮如の孫、円如がこれを収集して五帖80通(『五帖御文』)にまとめた。これに含まれない消息は『帖外御文』と言われ、倍くらいの数の消息が数えられている。
また、これまで本願寺は毎日の勤行に善導著作の『往生礼讃』を用い、1日を6つに分けてそれぞれの時間帯に読経を行う六時礼讃を行っていた。しかし、蓮如は吉崎滞在中に越前で三門徒が親鸞著作の『三帖和讃』を頻繁に唱えていた事から、これを取り入れると同時に勤行のやり方を全面的に改正し、朝・夕に親鸞著作の『正信念仏偈』(『正信偈』)と『三帖和讃』を唱える方式に制定、一般の門徒に広く受け入れられるようにした。こうして文明5年(1473年)3月、吉崎にて『正信念仏偈』・『三帖和讃』の開版、印刷が行われ、さらなる布教に邁進していった。
また、門徒個人が所有する「道場」、村落ごとに形成された「惣道場」の本尊に「十字名号」(文明期以降は、「六字名号」や「阿弥陀如来絵像」)を与えた。
その他の著作に『正信偈大意』『正信偈証註釈』、信仰生活の規範を示した「改悔文」(「領解文」)などがある。
また蓮如の死後、弟子達が蓮如の言行録を写し継いだ書物として『蓮如上人御一代記聞書』(『蓮如上人御一代聞書』)全316箇条が残されている。
成仏させた大蛇の骨
大阪府八尾市の顕証寺に「蓮如上人ご救済の大蛇骨」と呼ばれる頭骨が伝わっている。伝承では、蓮如の夢に女性が現れ「龍女に変えられて苦しんでいる」と訴えた。蓮如はこれを供養したところ、海にその死体が上がったとされ、その龍(大蛇)の骨を大切に祀った。
2018年(平成30年)、大阪大学総合学術博物館の伊藤謙特任講師らが、この顕証寺に伝わる骨を調査したところ、完新世期(約1万年前から現在)シャチの頭骨で、頭骨の全長は1.6メートル、推定される全長は7メートルである。しかも普通のシャチの頭骨ではなく、化石化した可能性が高いものであることが判明した。この骨は石山本願寺創設後の(1496年)頃、真宗大谷派難波別院(現・大阪府大阪市中央区久太郎町)付近で発掘されたものとも伝わり、同地では地下鉄工事の際にクジラ類の化石が大量に発見されている。
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