2026/06/01

契丹(5)

https://timeway.vivian.jp/index.html

契丹

 現在の中国東北部にはいろいろな少数民族がいるのですが、遼河という川の流域で半農半牧の生活を送っていた契丹族という部族がいた。かれらは、唐の支配がゆるむにしたがって、政治的に自立する。916年、契丹諸部族は統一し、遼(りょう)という国名で国を建てました。

 

 建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)という人。耶律が姓にあたる氏族名で阿保機が名です。へんてこな名前でしょ。でも耶律阿保機という名前を見るたびに、私は坂上田村麻呂とか、木下藤吉郞とかの日本の名前も中国から見たら同じようにへんてこなんだろうな、と思います。

 

 遼は中国東北部から突厥帝国崩壊後のモンゴル高原を平定し、中国北方に大帝国を作り上げました。そして、しばしば中国北辺に侵入します。

 

 五代十国時代には、中国の燕雲十六州という土地を獲得しています。

 

 燕雲十六州というのは、現在の北京を中心とする地域です。燕とか雲とかいうのは州の名前です。十六の州があったので、まとめて燕雲十六州というのです。ここを遼が獲得した事情を簡単に説明しておきます。

 

 五代の二番目に後唐という王朝がありました。これを倒したのが後晋ですが、後晋の建国者が石敬瑭(せきけいとう)。かれは後唐の節度使だったのですが、反乱をおこして後唐を滅ぼした。

 この時、石敬瑭は軍事力が足りなかったので、遼に援助を求めたんです。遼が軍事援助の見返りに求めたのが燕雲十六州です。

 

 結局、石敬瑭は遼の援助で後晋王朝を建て、燕雲十六州を遼に譲った。燕雲十六州は万里の長城の内側です。つまり、中国の伝統的な領土で、住んでいるのも漢民族の農耕民です。

 これ以後、宋の時代になっても燕雲十六州は遼の支配下あります。

 

 北方の民族が中国を支配することは五胡十六国時代以来あったのですが、それまでの北方民族はすべて、中国の文化に同化していきました。北魏が好い例で、孝文帝が漢化政策を実施したことは覚えていますね。

 

 五代の後唐の支配者も突厥系、つまりトルコ人が中国文化に同化した人たちですし、後晋の石敬瑭もやはりトルコ系ですが、かれら自身がそのことを意識して行動している節はありません。完全に中国化しているように見える。

 

 ところが、遼の契丹族はそうではなかった。中国文化に同化することを極力避けようとします。民族の独自性を保とうとする。

 

 そのためには、燕雲十六州の統治は慎重におこなう必要があった。下手をすると中国文化に感化されてしまって、いつの間にか同化してしまうということがありえますからね。そこで、遼は「二重統治体制」という方法を採用した。燕雲十六州の支配制度を北方の自分たちの本拠地とは完全に切り離して、両者が混じり合わないようにしたのです。

 

 遊牧民の世界には北面官という役所を置いて、各民族の部族制度を維持したまま統治します。

 漢民族などの農耕民族には南面官という役所を置いて、州県制によって支配しました。

 

 このように民族文化の独自性を守る姿勢は文字制定という形でもあらわれる。

 契丹族は漢字を使うのを避けて、わざわざ民族独自の文字を作った。これが、契丹文字です。字形を見てもらったらわかりますが、漢字の影響を強く受けている。

 日本でも同じ時期に「かな」が発明されます。

 

 唐は国際色豊かな帝国で、周辺の諸民族に大きな影響を与えましたが、唐の衰退後は周辺諸民族は民族意識に目覚めていったと言えそうです。

 

 話を元に戻しましょう。

 燕雲十六州は、中国から見れば本来は自分たちの土地です。宋は中国の統一をしたのち、燕雲十六州を取り返そうと、しばしは遼軍と対決しますが勝てない。

 1004年には遼は宋の都開封近くまで攻め込み、宋は遼と和平条約を結びました。

 

 この和平条約を「澶淵の盟」という。

 

 この条約で、宋は遼に毎年絹20万匹,銀10万両を贈ること、宋を兄、遼を弟とすること、両国国境は現状維持、と決められました。

 

 宋が兄で遼が弟なのだから、名目的には宋の方が偉いという形ですが、お兄さんの宋は弟の遼に毎年莫大なお小遣いをあげなければならないし、国境現状維持ということは燕雲十六州を宋はあきらめる、ということですから、実質的に遼の勝利です。

 

 これ以後、宋と遼は基本的には平和が保たれました。

0 件のコメント:

コメントを投稿