2021/07/08

グプタ朝(1)

グプタ朝Gupta Empire)は、古代インドにおいて、西暦320年から550年頃まで、パータリプトラを都として栄えた王朝である。4世紀に最盛期を迎え、インド北部を統一した。

 

歴史

前史

グプタ朝の始祖であるグプタ(シュリーグプタ)は、紀元前240年ごろに現在のビハール州南部に当たるマガダ地方を領するようになり、そのあとを息子のガトートカチャが継いだ。この二人は、後の碑文において大王(マハーラージャ)と呼ばれるのみであり、実際にはマガダ地方の小領主に過ぎなかったと考えられている。

 

チャンドラグプタ1

グプタ朝が実質的に建国されるのは、チャンドラグプタ1世(位320 - 335年頃)の時代である。チャンドラグプタ1世は、ビハール州北部に強い勢力を持っていたリッチャヴィ族の王女クマーラデーヴィーと結婚することでリッチャヴィと強固な婚姻同盟を結び、さらにその力でガンジス川中流域へと進出。パータリプトラを都とし、この地域の覇権を握って「マハーラージャーディラージャ(大王の中の王)」を称するようになった。後にグプタ朝では、319年または320年を紀元とするグプタ暦が使用されるが、紀元とされたこの年はチャンドラグプタ1世の即位年であると考えられている。

 

サムドラグプタ

2代のサムドラグプタ(位335年頃 - 376年頃)は各地に軍事遠征を行い、ガンジス川上流域や中央インドの一部、ラージャスターンまで勢力を拡大し、領域内の支配体制を固めるとともに、南インドにまで政治的影響を及ぼすこととなった。この時期に彫られたイラーハーバード石柱碑文には、サムドラグプタの軍事的、政治的な功績が刻まれている。

 

この時代にグプタ朝を中心とする政治秩序が確立され、グプタ朝は主に中心部を直接支配地とする一方、辺境においてはその地域の首長を支配者として認めた。また、サムドラグプタはアシュヴァメーダ(馬祀祭)などのヴェーダの儀式を挙行し、バラモンを統治体制の重要な一部となした。一方で、仏教などほかの宗教に対しても寛容な姿勢で臨んだ。サムドラブプタ没後、発掘された貨幣や碑文、伝承や同時代の劇作などから、短期間ラーマグプタ王が継いだと推定されているが、明確なことは不明である。

 

チャンドラグプタ2

チャンドラグプタ2世(位376年頃 - 415年頃)の時、北西インドのマールワとグジャラートに在った西クシャトラパを征服して、ついに北インドを統一し、全盛期を迎えた。また、デカンのヴァーカータカ朝の王ルドラセーナ2世(Rudrasena II)に娘のプラバーヴァティーグプターを嫁がせて姻戚関係を結び、南インドにおける勢力を増大させた。この時期、東晋の僧、法顕が訪れている。なお、この頃、ヒンドゥー教が台頭し、仏教文化は衰退を始めた。

 

衰退

4代クマーラグプタ1世(位415年頃 - 455年)の治世は、玄奘や義浄も学ぶことになるナーランダ僧院が設立されたことで知られるが、その治世の末期には遊牧民エフタル(インド・エフタル)の侵入によって北西部の支配が動揺をはじめる。その子、スカンダグプタ(位455 - 467年)は、皇太子プルグプタに打ち勝って王位を獲得、インド北西部領域の支配につとめ、かつての栄光を一時的に回復した。

 

しかし、その後は小地域の支配者層が力を強め、グプタ朝の宗主権はいまだ広い範囲で認められていたものの、支配は徐々に名目的なものとなっていった。さらに6世紀初頭にはエフタルが再進攻を行い、最終的に撃退には成功したものの国力は決定的に衰えて従属王朝が相次いで独立し、北インドは分裂状態となった。6世紀のグプタ朝の版図は、北ベンガルとビハールに限られるようになり、550年頃のヴィシュヌグプタの治世にエフタルの侵攻によって滅亡した。

 

影響

その後、北インドは混乱期を迎え、606年にハルシャ・ヴァルダナが台頭し、ヴァルダナ朝を興した。しかし、647年にハルシャ・ヴァルダナが没すると、「ラージプート時代」と呼ばれる混乱期が続いた。

 

政治

グプタ朝は郡(ブクティ)、県(ヴィシャヤ)、邑(グラーマ)とつながる地方行政機構を整備し、郡県には中央から官吏を派遣して官僚制度を整えた。この制度が整えられたのはガンジス川流域などの中央部の直轄地域に限られ、地方の有力勢力や辺境の勢力は有力者を統治者に任命してその地方の統治を任せ、貢納を受け取るといった統治スタイルがとられた。

この方法でグプタ朝は速やかに勢力を拡大したものの、5世紀後半以降グプタ朝の勢力が衰えを見せると、それまでの統治で力を蓄えていた地方長官や従来の地方有力者が従属王権となり、さらには宗主権も認めなくなって独立していくこととなった。一方で、これらの従属王権は、自らが力を蓄える基盤となったグプタ朝の行政システムをそのまま踏襲し、以後の各王朝に大きな影響を与えた。

出典 Wikipedia

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