2021/07/17

グプタ朝(2)

経済

商業、金融業、手工業が盛んであった。ローマ帝国は既に衰退していたが、インド洋における季節風貿易は引き続き活況を呈しており、西のビザンツ帝国やサーサーン朝、アクスム王国などとの交易が盛んに行われた。ベンガル湾を渡って東の東南アジアなどとの交易も盛んであり、東南アジアから中国へと向かう交易ルートの存在は法顕の「仏国記」でも確認できる。これらの交易を通じ、沿岸の港市が繁栄した。また、法顕が往路は陸路を取ったことからも伺えるように、シルクロードに結びついた内陸の交易ルートも繁栄していた。

 

グプタ朝では金貨が盛んに鋳造されたほか、銀貨・銅貨も発行された。当初はクシャーナ朝の金貨にならったが、スカンダグプタの治世からはスヴァルナと称される独自の金貨が作られた。金貨や銀貨は高い価値を持ち活発な交易を支えたが、日常生活においては銅貨や子安貝といった少額貨幣が多く用いられた。

 

農村では、荒蕪地を中心にバラモンや宗教施設の管轄下に土地がおかれていき、低湿地や森林などの開拓が進められた。王朝の後期になると、フーナ(エフタル)の侵入などによって都市網が衰退し、農業経済へと移行していった。

 

宗教

グプタ朝は、ヒンドゥー教を国家の柱として位置づけ、アシュヴァメーダ(馬祀祭)などのヴェーダの儀式を挙行し、バラモンを統治体制の一部に組み込んだ。村落へのバラモンの移住が始まるのも、この時代である。バラモンは農村にて租税免除などの特権を与えられ、先進技術や学問を農村に伝えるとともに農村の秩序維持の役目を果たした。また、王家はヴィシュヌ神を特に信仰し、「至高のヴィシュヌ信者」との称号を持ち、バラモンの言葉であるサンスクリット語を公用語とした。

 

一方で、ナーランダ僧院がこの時代に設立されるなど、仏教などほかの宗教が迫害されることはなく、これらも庇護を受けた。しかし、インドにおける仏教は教学研究は盛んになったものの、この時代から衰退に転じるようになった。

 

社会

都市の商人・職人は、互助組織として「ニガマ」、「シュレーニー」といった組合を設けており、彼らが用いた印章が多く出土している。こうした組織は、都市行政にも関わっていたことが推測されている。一部の富裕化した人々は豪奢な生活を送り、文化の発展を支えることになった。農村社会ではクトゥンビンと呼ばれる小農が基盤となっていた。

 

一方、この時代からは上記の開発政策の結果としてバラモンが農村社会へと進出し、指導的立場となった。辺境の未開地にまでバラモンの居住地が拡大したことは、地方における農業の発展や政治システムの伝播につながったとされる。

 

文化

美術

グプタ朝時代に栄えた美術は、これまでギリシア文化の影響が色濃かったガンダーラ美術に代わり、純インド的な仏教美術として知られ、グプタ美術、または「グプタ様式」と呼ばれる。代表的なものとして、アジャンター石窟寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの仏像、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだサールナート派の仏像が知られる。これらの美術の中心は帝国の首都のあるマガダ地方ではなく、マールワーやサールナートといった地方であった。

 

文学

グプタ朝ではそれまで典礼言語として用いられていたサンスクリットを公用語化したため、サンスクリット文学は最盛期を迎え、二大叙事詩である『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』が今日の形をとるようになった。戯曲『シャクンタラー』や抒情詩『メーガ・ドゥータ』を著したカーリダーサのほか、戯曲『ムリッチャカティカー』の作者シュードラカも活躍した。

 

ヴァーツヤーヤナによる性愛書『カーマスートラ』は、当時の上流階級の生活をうかがうことができる。説話集『パンチャタントラ』は、インドのみならず東南アジアや西アジアの説話文学に影響を与えた。

 

言語でも、サンスクリット語の辞典『アマラコーシャ』をアマラシンハがまとめた。また、それまでプラークリットによるものも多かった碑文の言語が。この時期までには完全にサンスクリット化している。『マヌ法典』も完成した。

 

科学

グプタ朝時代には、特に天文学や数学や化学、医学において大きな進歩があった。アリヤバータは500年ごろ、グプタ朝の首都パータリプトラにおいて『アーリヤバティーヤ』(Aryabhatiya)を著し、西方からもたらされたギリシア天文学を完全にインド化するとともに、それ以後のインド天文学 (Indian astronomy) やインド数学の発展の基礎を作った。

 

その他

インド・デリーのクトゥブ・ミナール内にあるデリーの鉄柱は、碑文にチャンドラグプタ2世に比定される王名が刻まれていることから、グプタ朝初期に建造されたものと考えられている。この鉄柱はウダヤギリ石窟群の前に立てられていたが、13世紀にデリーへと移された。

出典 Wikipedia

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