2021/07/12

法華経(2)

『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう、梵: Saddharma-puṇḍarīka-sūtra)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれている。聖徳太子の時代に、仏教とともに日本に伝来した。複数ある漢訳の中では鳩摩羅什によるものが特に普及しており、その訳名は妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)である。

 

名称

法華経の梵語(サンスクリット)の原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(: सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma-Puṇḍarīka-Sūtra)である。逐語訳は「正しい・法・白蓮・経」で、意味は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」(植木雅俊訳)である。

 

「サッ」(sad)は「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)は「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)は「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)は「たて糸:経」の意である。

この梵語書名を、竺法護は286 年に「正法華経」と漢訳した。

鳩摩羅什は、406 年に「妙法蓮華経」と漢訳した。

岩本裕は「正しい教えの白蓮」と訳した(岩波文庫『法華経』および中央公論社版『法華経』)

植木雅俊は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」と訳した。

漢訳では、梵語の「白」だけが省略されて『正法華経』や『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」「蓮」が省略された表記が『法華経』である。『法華経』が『妙法蓮華経』の略称として用いられる場合が多い。

 

岩本訳と植木訳は、語順が逆となっている。この点について植木雅俊は、「プンダリーカ」が複合語の後半にきて、前半の語を譬喩的に修飾する(持業釈)というサンスクリット文法に照らしても、欧米語の訳し方からしても、日本語訳は「白蓮のように最も優れた正しい教え」とすべきであること、鳩摩羅什は白蓮華が象徴する「最も勝れた」と「正しい」という意味を「妙」にこめて「妙法蓮華」と漢訳したことを、詳細に論じている。

 

漢訳

漢訳は、部分訳・異本を含めて16種が現在まで伝わっているが、完訳で残存するのは

 

『正法華経』1026品(竺法護訳、286年、大正蔵263

『妙法蓮華経』828品(鳩摩羅什訳、400年、大正蔵262[6]

『添品妙法蓮華経』727品(闍那崛多・達磨笈多共訳、601年、大正蔵264

3種で、漢訳三本と称されている。

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』方便品第二(十如是まで)

漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、「最も優れた翻訳」として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。

 

概説

法華経の原本は、紀元1世紀以降にインドで編纂されたという説が有力である(#成立年代)。当時は、特別な修行を経た出家者のみが救済されるという考えが部派仏教の主流を成していた。これに対し、法華経は小乗・大乗の対立を乗り越えつつ、全ての人間が一乗(菩薩乗)を通じて平等に救済されるという仏教思想を強調した内容と理解される。初期仏教経典(阿含経)記載の仏陀の教えやエピソードとの差異については、聞き手のレベルに合わせた方便であったとした上で、より本質的なレベルでは、法華経の内容こそが、本来の仏陀の教えに立ち返るものであると説くとともに、地涌の菩薩たる仏教信者にとって弘通(布教)を重要な役割と位置づけ、直面するであろう法難(反対勢力からの弾圧)への心構えも説くなど、一切の衆生を救うために法華経の教えを広めていく観点を重視している点にも特色がある。『維摩経』と配役が被っているところがあり、維摩経への批判という面があったとの指摘もある。

 

構成

迹門と本門

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は28品の章節で構成されている。現在、日本で広く用いられている智顗(天台大師)の教説によると、前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門(ほんもん)と分科する。迹門とは、出世した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとする部分であり、本門とは釈尊が菩提樹下ではなく五百塵点劫という久遠の昔に、すでに仏と成っていたという本地を明かした部分である。迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬えている。後世の天台宗や法華宗一致派は両門を対等に重んじ、法華宗勝劣派は法華経の本門を特別に重んじ、本門を勝、迹門を劣とするなど相違はあるが、この教説を依用する宗派は多い。

 

また、三分(さんぶん)の観点から法華経を分類すると、大きく分けて(一経三段)、序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する。また細かく分けると(二経六段)、前半の迹・本の二門にもそれぞれ序・正宗・流通の三分があるとする。

 

経本としても流通しているが、『妙法蓮華経』全体では分量が大きいこともあり、いくつかの品を抜粋した『妙法蓮華経要品』(ようほん)も刊行されている。

 

迹門

前半部を迹門(しゃくもん)と呼び、般若経で説かれる大乗を主題に、二乗作仏(二乗も成仏が可能であるということ)を説くが、二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。

 

さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、“一切の衆生が、いつかは必ず「仏」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。また、見宝塔品には仏滅後に法華経を弘める事が大難事(六難九易)であること、勧持品には滅後末法に法華経を弘める者が迫害をされる姿が克明に説かれる等、仏滅後の法華経修行者の難事が説かれる。

 

本門

後半部を本門(ほんもん)と呼び、久遠実成(くおんじつじょう。釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、という主張)の宣言が中心テーマとなる。これは、後に本仏論問題を惹起する。

 

本門では、すなわちここに至って仏とは、もはや歴史上の釈迦一個人のことではない。ひとたび法華経に縁を結んだひとつの命は流転苦難を経ながらも、やがて信の道に入り、自己の無限の可能性を開いてゆく。その生のありかたそのものを指して仏であると説く。したがってその寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。そして、この世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所である。それにより“一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。

 

説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡る。また、末法愚人を導く法として上行菩薩を初めとする地涌の菩薩たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等の働きによる法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。

 

現代のサンスクリット学者の見解

近現代のサンスクリット学者は、嘱累品第二十二までが古い時代に成立した原型であり、薬王菩薩本事品第二十三からあとは後世に付け加えられたものと推定している。

 

『法華経』は、嘱累品第二十二までは、男女平等を説くなど、原始仏教への原点回帰的な主張が多い。ところが薬王菩薩本事品第二十三から後は、原始仏教が禁じたオカルト的な呪法(陀羅尼)や、『法華経』そのものではなく観音菩薩の神通力にすがる観音信仰など、それまでの記述とは矛盾する異質の思想の混入が目立つ。これらの異質な部分は、大乗仏教が誕生した後も、太古さながらの呪術や迷信を信ずる一般大衆を信者にとりこむため、仏教側が妥協して後から付け加えたものと推定されている。

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