2021/07/13

法華経(3)

方便品第二と如来寿量品第十六

『法華経』といえども異質の矛盾した思想があちこちに混入しているため、伝統仏教の一部流派では、迹門の方便品第二と本門の如来寿量品第十六(特に最後の自我偈の部分)を、『法華経』の真髄として重視した。例えば日蓮は、信者に対し、『法華経』の根幹は方便品と寿量品であり他の品はいわば枝葉なので、方便品と寿量品さえ読誦すれば他の品の教えは自然と身につく、と説いた。

 

法華経要品

『法華経要品訓読』の目次

『法華経』全体の文量は膨大であるため、主要部を抜粋した『法華経要品(ようほん)』も作られ、読誦や学習に利用されている。法華経のどの章の中から、どのくらいの長さの文章を選ぶかの取捨選択は、テキストによって若干の異同がある。

 

以下は、明治時代の『法華経要品訓読』の目次である。収録されている章について、その章の全文を載せているとは限らない。例えば「方便品第二」は冒頭の「爾時世尊・・・」から十如是までで、その後は割愛されている。

 

序品第一、方便品第二、欲令衆(※)、提婆達多品第十二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一、属累品第二十二、観世音菩薩普門品第二十五、陀羅尼品第二十六、妙荘厳王本事品第二十七、普賢菩薩勧発品第二十八、宝塔偈(見宝塔品第十一の偈文)

※「欲令衆」は、方便品第二・譬喩品第三・法師品第十・見宝塔品第十一からの抜粋を再構成したもの。

 

勤行での読誦

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』如来寿量品第十六・自我偈。よみがなや字句は、宗派により若干異なる。第83句「如意善方便」以下は、法華七喩の1つ「良医病子」を指す。

日本仏教の勤行での読経では、通常、上述の『法華経要品』に選ばれた章節の一部だけを重点的に読誦する。

 

日蓮正宗系の勤行では「方便品第二」(冒頭の十如是まで)と「如来寿量品第十六」(特に自我偈)を読誦するが、天台宗系の勤行では「安楽行品第十四」を読誦することが多いなど、宗派ごとに違いがある。

 

法華七喩(ほっけしちゆ)

法華経では、7つのたとえ話として物語が説かれている。これは釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化した様子に則しており、法華経の各品でも、この様式を用いてわかりやすく教えを説いたものである。これを法華七喩、あるいは七譬(しちひ)ともいう。

 

三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)

長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)

三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)

化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)

衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品)

髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)

良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

 

成立年代

中世においては、天台智顗の五時八教説により釈迦が晩年に説いたとされていたが、近代文献学に基づく仏教学によって紀元後に成立した創作経典であることが明らかにされている。その具体的な時期については、以下に述べる如く諸説ある。

 

代表的な説として、布施浩岳が『法華経成立史』(1934年)で述べた説がある。これは段階的成立説で、法華経全体としては3類、4記で段階的に成立した、とするものである。第一類(序品〜授学無学人記品および随喜功徳品の計10品)に含まれる韻文は紀元前1世紀ころに思想が形成され、紀元前後に文章化され、長行(じょうごう)と呼ばれる散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品〜如来神力品の計10品)は紀元100年ごろ、第三類(7品)は150年前後に成立した、とした。その後の多くの研究者たちは、この説に大きな影響を受けつつ、修正を加えて改良してきた。

 

20世紀後半になって、苅谷定彦によって「序品〜如来神力品が同時成立した」とする説が、また勝呂信静によって27品同時成立説が唱えられている。菅野博史は、成立年代特定の問題は『振り出しに戻った』というのが現今の研究の状況だ」と1998年刊行の事典において解説している。

 

奇説として、福音書由来説もある。

 

西北インドで西暦40年~220年ごろに成立したとする説

現行の『法華経』二十八品のうち、嘱累品第二十二までと、薬王菩薩本事品第二十三から以下の部分は、思想や内容から見て少々異質である。そのため嘱累品までが本来の『法華経』で、あとは後世の付加部分と考える研究者もいる。

 

中村元は「嘱累品第二十二までの部分は、西暦40年から220年の間に成立した」と推定した。

 

上限の40年については、信解品の《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家は出てこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した。

 

この点については、渡辺照宏も、「50年間流浪した後に、20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない」と述べている。

 

下限について、220年であると中村元が推定する理由は、『法華経』に頻出するストゥーパ建造の盛衰である。考古学的な遺物から見て、ストゥーパ建造の最盛期はクシャーナ朝のヴァースデーヴァ1世(英語版)の時代で、これ以降は急激に衰退している。

 

『法華経』の成立地域について、中村元や植木雅俊は西北インド説を主張している。『法華経』の守護神である鬼子母神の像はガンダーラ周辺で多数出土していること、方便品に登場するヤクや法師品の井戸掘りの描写など自然環境も西北インド的であること、授記がなされる理想の仏国土はきまって平地であること(これはインド西北部の山岳地帯の生活の苦労の裏返しであると考えられる)、妙荘厳王品にアフガニスタンで出土する立像と類似した描写があること、など、数々の状況証拠から、『法華経』はインド東部のガンジス河流域の低地ではなく、インド西北部の高地で成立したと考えるのが自然であるとする説である。

 

ユーラシア大陸での法華経の流布

この経は日本に伝わる前、ユーラシア大陸東部で広く流布した。先ず、インドに於いて広範に流布していたためか、サンスクリット本の編修が多い。羅什の訳では真言・印を省略する。添品法華経ではこれらを追加している。

 

またチベット語訳、ウイグル語訳、西夏語訳、モンゴル語訳、満洲語訳、朝鮮語(諺文)訳などがある。これらの翻訳の存在によって、この経典が広い地域にわたって読誦されていたことが理解できる。チベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパは主著『菩提道次第大論』で、滅罪する方便として法華経を読誦することを勧めている。

 

ネパールでは、九法宝典(Navagrantha)の一つとされている。

 

中国天台宗では、『法華経』を最重要経典として採用した。中国浙江省に有る天台山国清寺の智顗(天台大師)は、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』を所依の経典とした。

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