2024/08/18

白村江の戦い(1)

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、天智28月(66310月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦争のことである。

 

名称

日本では白村江は、慣行的に「はくすきのえ」と読まれる。白村を「はくすき」と読ませるのは、卜部兼方の『釈日本紀』(鎌倉時代)によるもの。20巻の「秘訓五」にて「白村」を「ハクスキ」とフリガナをし、注釈で「私記曰。白字音読。村読須支。」(『日本書紀私記』曰く。「白」の字は音読みし、「村」の字は「須支(すき)」と読む。)とある。少なくとも奈良・平安時代から「はくすきのえ」と読まれていた。

 

錦江(当時は白江と呼んだ)が黄海に流れ込む海辺を「白村江」と呼んだ。つまり、白村江という地名は、川の名前ではなかった。「江(え)」は「入り江」の「え」と同じ倭語で海辺のこと、また「はくすき」の「き」は倭語「城(き)」で城や柵を指す。白江の河口には白村という名の「城・柵(き)」があった。ただし、大槻文彦の『大言海』では「村主:スクリ(帰化人の郷長)」の「村」を百済語として「スキ」としている。

 

漢語では、白江之口と書く(『旧唐書』)。

 

背景

朝鮮半島と中国大陸の情勢

6世紀から7世紀の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。

 

『日本書紀』には、倭国は半島南部の任那を通じて影響力を持っていたとの記述がある。その任那は、562年以前に新羅に滅ぼされた。

 

475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗沘へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々、倭国から援軍を送られている。

 

一方、581年に建国された隋は、中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(隋の高句麗遠征)を行ったものの、いずれも失敗した。その後、隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。そして新たに建国された唐は、628年に国内を統一した。唐は二代太宗・高宗の時に、高句麗へ3度(644年・661年・667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)、征服することになる。

 

唐による新羅冊封

新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。また、善徳女王(632年〜647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(〜661年)として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた。649年、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。

 

百済の情勢

百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、6552月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた。6563月には、義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でも、このような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している。

 

6574月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる。このような百済の情勢について、唐は既に6439月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊府元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた。

 

6594月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。

 

倭国の情勢

この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく、伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出て来たことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と、百済との間で二者択一を迫られることになる。この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。

 

新羅征討進言

白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。

 

遣唐使

白雉4年(653年)・白雉5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。

 

蝦夷・粛慎討伐

斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、越国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、6593月に蝦夷を、6603月には粛慎の討伐を行った。

 

百済の役

660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という。

 

百済滅亡

6603月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した。唐1万・新羅5万の合計6万の大軍[要出典]が百済に攻め入っていた。

 

百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった。また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した。百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭峴と白江を超えて侵入していた。

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