2024/08/27

白村江の戦い(2)

黄山の戦い

百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、将軍階伯の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた[要出典]。新羅側は、太子金法敏(後の文武王)・金欽純(きん きんじゅん)将軍・金品日(きん ひんじつ)将軍らが兵5万を3つにわけて[要出典]黄山を突破しようとしたが、百済軍に阻まれた。79日の激戦黄山の戦いで、階伯ら百済軍は新羅軍を阻み四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した。

 

この黄山の戦いで新羅軍も多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった710日に遅れた。唐の蘇定方は、これを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち、斬られそうになったが蘇定方の部下が取り成し罪を許された。

 

唐軍は白江を越え、ぬかるみがひどく手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸し、熊津口の防衛線を破り王都に迫った。義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した。

 

712日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否。713日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏した。718日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した。

 

660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置いた。唐は劉仁願将軍に王都泗沘城を守備させ、王文度(おう ぶんたく)を熊津都督として派遣した(熊津都督府)。唐はまた戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘(だいとうへいくだらこくひめい)」を建て、そこでも戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られた。大唐平百済国碑銘は、現在も扶餘郡の定林寺の五重石塔に残っている。

 

百済復興運動

唐の目的は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去するためのものだった。唐軍の主力が高句麗に向かうと、百済遺民鬼室福信・黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。82日には百済残党が小規模な反撃を開始し、826日には新羅軍から任存(にんぞん、現在の忠南礼山郡大興面)を防衛した。93日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に45個の柵を作って駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して、20余城が百済復興運動に応じた。熊津都督王文度も着任後に急死している。

 

唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できず、新羅軍が百済残党の掃討を行った。109日にニレ城を攻撃し18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した。1030日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した。

 

しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信・黒歯常之・僧道琛らの任存城や、達率余自信の周留城などが抵抗拠点であった。

 

倭国による百済救援

百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵を挙げ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋を擁立しようと、倭国に救援を要請した。

 

中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに唐・新羅との対立を深めた。

 

661年、斉明天皇は自ら九州へ出兵するも、那の津にて急死した(暗殺説あり[要追加記述])。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、造船の責任者の朴市秦造田来津を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。

 

だがこの時点で、百済陣営は全く統率が取れていなかった。豊璋は戦乱への自覚が足らず、黒歯常之ら将は当初から豊璋を侮る状態であった。道琛は鬼室福信によって殺害され、鬼室福信は豊璋によって殺害された。

 

軍事力

唐・新羅連合軍

総兵力は不明であるが、森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している。また、唐軍は百済の役の際よりも増強したともされる。当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。この時参加した唐の水軍も、その中には靺鞨の兵士が多くいたという。

 

水軍

水軍7,000[要出典]170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済太子の扶余隆。

 

陸軍

不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁願、新羅王の金法敏(文武王)。

 

倭国軍

第一派:1万余人。船舶170余隻[要出典]。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。

第二派:27千人[要出典]。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。

第三派:1万余人[要出典]。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした。

 

戦いの経過

6615月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人[要出典]だった。

 

6623月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。

 

663年(天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。

 

百済の再起に対して、唐は増援の劉仁軌率いる水軍7,000[要出典]を派遣した。唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁願及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。

 

一方の大和朝廷側は、強力な権限を持った統一指揮官が不在であり、作戦も杜撰であった。唐と比較して対外戦争経験も乏しく、加えて全体兵力も劣っていた。前述されたように、百済側の人員も意思統一が全くされておらず、この時点で内紛を起こしているような状態であった。

 

海上戦

倭国・百済連合軍は、福信殺害事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663828日、唐・新羅水軍に大敗した。

 

この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて杜撰なものであった(『日本書紀』)。

 

陸上戦

同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。

 

白村江に集結した1,000隻余り[要出典]の倭船のうち、400隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻や土師富杼、氷老、大伴部博麻が唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許された、との記録がある。

 

白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。

 

援軍が近付くと、豊璋は城兵らを見捨てて拠点であった周留城から脱出し、813日に大和朝廷軍に合流した。しかし敗色が濃くなるとここも脱出し、数人の従者と共に高句麗に亡命した。

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