2016/08/02

北と南の食生活(農林水産庁Web)

確かに西洋料理の移入が、近代日本の食生活に大きなインパクトを与えたことは事実であるが、やはり日本料理そのものは底流として重要な位置を占めていた。

 

明治維新や文明開化によって、それまでの食生活が一変したわけではなく、西洋料理に眼を奪われたとしても、それは表面的なもので一般には日本料理が日常の基本をなしていた。とくに婚礼などハレの料理は本膳的な構成を持つもので、明治以降においても地方の旧家の婚礼献立などは、ほぼ例外なく日本料理であった。もちろん日本社会の近代化に伴い、肉食や西洋野菜の普及という現象もみられた。

 

西洋野菜についてみれば、トウモロコシ・インゲン・ホウレンソウ・キャベツ・ジャガイモ・タマネギ、さらにはレタス・アスパラ・パセリなどが明治期になって外国から移入され販売されるようになった。いずれにしても、それは日清・日露戦争の勝利後のことで、軽工業のみならず重工業の発展がみられ、中国・朝鮮への資本進出を踏まえて、日本経済がかなり裕福な状況を迎えた明治後期のことであった。

 

こうして実質的な食生活の西洋化が進んだが、一方で中国料理は江戸時代には一部で食されていたにも関わらず、日本に中国料理屋が増えるのは、やはり日清・日露戦争以降のことであった。また朝鮮料理については、在日朝鮮人の間で料理屋が営まれており、一部には高級朝鮮料理屋もあったが、これが一般化するのは極めて新しく、第二次世界大戦後のことに過ぎない。従って近代における日本食の展開は、西洋料理の大きな影響のもとに進展したことになる。

 

とくに大正期になると、財閥が生まれて関連会社や銀行などの企業が急成長し、そこに勤めるサラリーマンが社会的に登場をみた。そして、彼らを中心とした市民階級などの間に西洋料理が普及し、カレーやコロッケ・トンカツなどの三大洋食が流行するようになった。これらの料理は、かつての和洋折衷料理を洗練させたものであった。いずれも海外ではお目にかかることのない料理で、米を重視したライスカレーのほか、肉の代わりにジャガイモと挽肉で整形したり、テンプラの手法にパン粉と豚肉を応用するなど、まさに西洋料理の換骨奪胎であった。さらには和風出汁を用いたカレーうどんやカレーそば、あるいはカツ丼など、明治末期から大正期にかけて、様々な試みがなされて新しい日本食の創造が行われた。こうした意味においては、日本食をベースとした食生活の西洋化が、1920年代に著しく進展したと見なすことができよう。

 

しかし遅ればせながら、日本が世界の強国の仲間入りを果たし、いくつかの植民地を抱えて裕福になると、料理自体が社会的な観点から本格的に論じられるようになった。とくに大正末期から昭和初期にかけて、木下謙次郎『美味求真』、子母沢寛『味覚極楽』、大谷光瑞『食』などが著されて、味覚の追求に拍車がかかった。そして、これに呼応するような対応が料理界でも起こった。書画・陶芸などさまざまな芸術に一家言のある北大路魯山人は、旧来の遊興的要素の強い料亭のイメージを一新させ、料理を盛る器や食事空間のしつらえにもこだわった高級料亭・星岡茶寮を会員制で発足させ、美食の提供に最善を尽くした。また湯木貞一も料理屋・吉兆を開き、日本料理に牛肉やイクラ・スモークサーモンなどを用いるとともに、器を取り入れた松花堂弁当を考案するなど、その向上発展に大きな役割を果たした。しかし、こうした試みも、太平洋戦争へと続く十五年戦争の過程で、やがて贅沢は敵だとする風潮に呑み込まれ、新たな日本料理の展開は衰退を余儀なくされたのである。こうして昭和初年には新たな日本食の展開が試みられ、一つのピークに達していたことが指摘できる。

 

ここでは少し視点を変えて日本における北と南、すなわち北海道と沖縄の食生活をみておきたい。実は北海道も沖縄も、近代になって初めて正式に日本に組み入れられた地域で、近代においても日本=内地、北海道・沖縄=外地という認識が一般的でもあった。しかし前近代においても日本と北海道・沖縄の関係は深く、日本食を論ずるにあたっても非常に重要な地域であることに疑いはない。そこで、まず北海道の場合から見ていこう。

 

北海道はかつて蝦夷地とも呼ばれ、明治2年の開拓使設置まではアイヌの人々が暮らす大地であった。ただ和人たちが、この地に渡って彼らと接触を始めたのは遅くとも鎌倉時代のことで、以後、道南の一部に住み着いて鮭やコンブなどの交易を行っていた。出汁のところでも述べたように、とくにコンブは日本料理に欠かせないもので、室町時代には大量のコンブが京都を初めとする日本各地にもたらされた。その後、近世に入ると道南に松前藩が置かれ、海岸線上の場所と呼ばれる地点を押さえて、海産物交易の拠点としていた。

 

この時期には一部に和人地が設けられたが、基本的にはアイヌの人々の土地であった。彼らは熊や鹿、あるいは鮭や海豹・鯨などの狩猟・漁撈によった食生活を営んでいた。ただ最近では、一部でアワ・ヒエなどの農耕を行っていたことが指摘されているが、基本的には肉食の禁忌とは無縁の地で獣肉や海産物が主要な食料とされていた。とくに栄養価が高い鮭・鱒は、そのまま食されたほか、保存食であるトバやルイベとして今日でも広く食されるようになった。

 

また近代になって正式に日本に組み入れられてからは、多くの開拓農民が移り住み寒冷な気候に適した小麦などの農業を行っているほか、広大な大地を利用しての牧畜・酪農は食肉や乳製品の重要な供給地としての役割を果たしている。こうして北海道は従来のコンブのほか、多様な海産物・魚介類などの重要な宝庫となっている。

 

いっぽう南の沖縄は、かつて琉球と呼ばれて琉球王朝が成立していたが、近世に入って薩摩藩が侵攻し、その支配下に組み入れられた。日本と琉球との交流は古く、すでに鎌倉時代以前からも行われていたが、沖縄における稲作の展開も、この時期のことで、その後に琉球王国が成立をみる。やがて琉球王国は中国の冊封体制下に入ったため、中国料理の影響を強く受けブタやヤギの飼育が行われた。その後、中国との冊封関係を続けたまま薩摩藩の支配を受けたが、この頃から琉球王国の日本化が進行する。このため稲作が政治的に奨励されたが、元々水田適地が少なく米よりも肉食の文化が根付いた地域であった。

 

また多くの島々からなると同時に、珊瑚礁の発達により漁業も盛んな地域で、海産物にも恵まれたという利点がある。むしろ農業面では、気候にあったサトウキビやサツマイモを中心としたが、サトウキビによる砂糖生産は初め琉球王国のちには薩摩藩の財源とされ、庶民はサツマイモを主食とせざるを得なかった。また政治の日本化によって、日本料理の導入に拍車がかかりコンブなどの利用が盛んとなった。食文化にも同様の傾向が顕著となり、本膳形式の料理が受け容れられていったが、豊かな肉食文化の存在が大きな特色となっている。

 

明治121879)年の琉球処分によって、完全に日本の一部となった。その後、太平洋戦争の敗戦によって、アメリカ軍の占領が、昭和461971)年の沖縄返還まで続いた。このため、戦後にはビーフステーキやランチョンミートなど、アメリカ風の食生活パターンが定着をみた。こうした観点からすれば、幾つかの政治体制と食文化の密接な関わりを体現した、珍しい地域ともいえよう。

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