2019/06/10

アリスティッポス(4) ~ ソクラテスとアリスティッポス


 結局彼の立場というのは、始めにも引用しておきましたが

一番肝心なことは、快楽に打ち克ってこれに負けないことであり、快楽を控えることではないのだ

という言葉に集約されていると言えるでしょう。そしてアリスティッポスは、それが完成されている人間としてソクラテスをみていたのではないか、と思われます。

翻ってプラトンやクセノポンに伝えられるソクラテスを見てみると、彼は大層なごちそうのパーティーに出席して誰よりもたくさん酒を飲み、しかも崩れず夜っぴて飲み続けているのが分かります。これが稀ではなかったことは、二人の筆致から分かります。ですから山海の珍味もたらふく喰っていたことでしょう。

つまりソクラテスは、決して快楽を拒絶するような人ではなかったのでした。むしろ、その場を大切にして誰よりも料理や酒を楽しみ、だからみんなに愛されてパーティーに呼ばれ、陽気にしかも崩れずにいたソクラテスが見られるのです。

快楽を楽しみ、しかも快楽に打ち克っている」ソクラテスです。だとしたならアリスティッポスが、このソクラテスを理想にして少しも不思議ではありません。アリスティッポスもまた、ソクラテスの一面を確実に受け継いでいる真っ当な弟子だったのでした。

 これはしかし一方、実に重要なことを意味していると思います。まず快楽を享受するということですが、これを同門の兄弟子アンティステネスは拒絶し、敢えて苦を求めました。これは「キュニコス学派」といわれる、彼の学園の人たちも同様でした。他方、そのキュニコス学派の中から出てきたゼノンを開祖とするストア学派は、敢えて苦を求めるということこそしませんでしたが快を享受しないという態度は貫き、快に対して否定的評価をしていました。しかし何故なのでしょうか。

 これは私たちの周りにもたくさん観察されるように、快楽は悪の根源だと見なされるからでしょう。実際、いま私たちの社会は快楽を求めて争い、騙し、金を求め、権力や地位を求めています。快楽に溺れて悪事に走り、快楽に溺れて勇気も節制も公平も正義も友情も、あらゆる徳性を忘れています。

「人としてのありかた」など、快楽の前には吹き飛んでいます。それが私たちの現状ですが、これはどの社会でも何時の時代にもあったことでしょう。当時のアテナイでも、そうであったのでしょう。ですから、アンティステネスたちキュニコス学派は人としてのあり方、徳性の獲得を旗印に、敢えてそうした社会に果敢として戦いを挑み、ストア学派もその精神を受け継ぎ質素な生活を信条にしていたのでした。

なぜなら、人間には「神を思う気持ちがあり、善を求め、悪を憎み、人間の徳性を完成させたい」という本性を持っているからで、これは理性が言ってくることとして、理性を持った人間なら誰しもが頷くことだと信じられているからです。にもかかわらず人は、この本性に反して快楽を求め、そして徳性を捨てていきます。

 これは翻って考えれば、人間は快楽を求めて生きる本性をも持っているということにほかなりません。人間は誰であれ、例外なく快楽を求める本性を持っているのです。そういう本性があるがゆえに、人は行きすぎて何もかも投げ捨ててまで快楽を求めていくのでしょう。そして、この「何もかも投げ捨ててしまう」というところに「快楽のもたらす悪性、犯罪、徳性の喪失」といった事態が見られているわけです。

これは、もう一つの人間の本性である「善を求め、徳性を求める本性」を破壊する行為です。ですから、これを警戒するのは確かに正しいことだといえ、これを警戒して徳性だけに目を向けようとしているアンティステネスたちキュニコス学派や、ストアの哲人に私たちは感動すら覚えるわけです。立派なことだが「なかなかできることじゃない」と思うからです。

 この二つの本性の類別は実はソクラテスに始まっていたのであり、ソクラテスは快楽の本性を肉体的欲望の本性とし、先の理性のいってくる善や徳性を求める本性を魂の本性に帰し、後者の前者に対する優位性を主張していたのでした。

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