2019/06/26

武帝の時代 ~ 前漢(5)


  第七代目が武帝(前141~前87)です。16歳で即位して、50年以上在位しました。中国史上の名君のひとりです。

 建国後約60年、大きな戦争もなく国庫は豊かになっているし、中央集権化も完成している。彼の時代が、前漢の最盛期になりました。

 漢は劉邦以来、匈奴に対して和親策をとっているのですが、匈奴はしばしば長城を越えて中国内地に侵入して、略奪を働いている。そこで、武帝は対匈奴戦争を積極的に行いました。ところが匈奴は遊牧民族ですから、漢の軍隊が彼らの勢力範囲に出撃しても、なかなか捕まらない。また、決定的な打撃を与えることができないのです。漢軍は基本的に歩兵ですからね、機動力ではかなわない。

 何かいい手はないかと思案していると、匈奴の捕虜から大月氏の情報が入った。中国の王朝の領域よりも西の地方を漠然と「西域」というんですが、そこに月氏という国があった。ところがこの国が匈奴に攻撃されて、さらに西の方面に移動したという。移動後を大月氏国というんですが、この国は匈奴に対して恨みを持っているという。

 そこで、武帝は大月氏国と同盟を結んで、東西から匈奴を挟み撃ちで攻めようと考えた。スケールの大きな作戦ですね。ただ、同盟を結ぶためには使者を派遣しなければならない。ところが、宮廷の誰も使者になりたがらないんです。『西遊記』知ってるでしょ。孫悟空が活躍して妖怪をやっつける話。妖怪たちが三蔵法師を食べようと、次々に襲ってくる。唐の時代の玄奘というお坊さんのインド旅行をもとにした話ですが、妖怪たちが登場する舞台が西域です。中国人にとって、西域はそういう魑魅魍魎の跋扈する恐ろしい世界だったんです。そんなところへいって、生きて帰れるとは誰も思っていない。

 その、誰もいきたがらない西域への旅に志願した男がいた。それが張騫(ちょうけん)です。武帝、張騫がなかなかの人物と見込んで、彼に百人以上の部下をつけて送り出しました。これが前139年のことです。

 張騫は漢の領土から西域地方に踏み込んだとたんに、匈奴のパトロール隊に見つかってしまった。殺されることはなかったんですが、そのまま捕虜になって匈奴人とともに生活することになった。匈奴人の奥さんまで貰って子供もできた。匈奴からしたら、漢の情報源として貴重だったのかもしれません。脱走しないように監視も厳しかったらしい。10年間匈奴で暮らしたんだから、すっかり匈奴人だね。そのまま10年あまり経ったとき、隙を見て妻子と従者を連れて脱走した。凄いのが漢に帰らないで大月氏国へいったところで、あくまでも武帝の使命を果たそうとしたのです。

 大月氏へ到達した張騫は漢との同盟を申し入れますが、大月氏の王様からすれば張騫の申し出は危険だね。なにしろ張騫が漢の武帝から送り出されてから、10年以上経っている。武帝という皇帝が現時点で生きているかどうかもわからない、生きていても今も匈奴討伐を考えているかどうか、なんの確証もないわけでしょ。使者ひとりが漢から大月氏に来るまでに10年かかっているわけで、常識的に考えて同盟を結んでも共同作戦が組めるはずがない。そして、なによりもこの時の大月氏国は豊かな土地に住みついていて、今さら匈奴に復讐して元の領土を取り戻す気持ちなんて、さらさらありませんでした。

 張騫は大月氏国に一年ほど留まるのですが、結局同盟は諦めて帰国の旅に出ます。この帰り道でまた、匈奴の部隊に捕まって捕虜になってしまうんです。そして、この時は匈奴内部の混乱があって、その隙をついてまた脱走します。

 前126年、出発から13年後、張騫はようやく長安に帰り着いた。百人以上いた従者は、一人になっていました。それと匈奴人の妻子を連れていた。とっくに死んだと思っていた張騫が帰ってきたのですから、武帝は大喜びだ。張騫は、すっかり英雄扱いです。大月氏との同盟はできませんでしたが、張騫は10年以上も西域生活をしているでしょ。匈奴や西域諸国の情報通なわけ。武帝は、その情報をもとに匈奴に対して攻撃をかけました。

対匈奴作戦で大活躍した将軍が二名。衛青(えいせい)と霍去病(かくきょへい)です。叔父さんと甥の関係です。衛青は姉さんが武帝に愛されて、その関連で出世のきっかけをつかんだんですが、将軍としての才能があったんだね。若い時から大活躍してどんどん出世していった。

 彼らの活躍で、匈奴は勢力が衰えていきました。地図を見ると匈奴は非常に広い地域を勢力下においていますが、その支配下には色々な遊牧部族やオアシスの都市国家がはいっています。領土に住んでいるのが、すべて匈奴人というわけではない。地図は匈奴の勢力範囲を描いてあるだけです。だから、漢の積極的な軍事行動で、匈奴から漢に乗り換える部族や都市も段々増えてきたし、やがては匈奴の内部でも内輪揉めが起きて、漢に服属するグループも生まれてきました。

 張騫も再び西域にいって、東西交易路上のオアシス諸都市を漢の支配下に置いた。だから武帝の時代に、漢の領域は西にぐっと張り出すようになっているね。西域方面に敦煌郡など、四郡を新たにおいています。

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