2019/06/01

垓下の戦い ~ 項羽と劉邦(5)

出典http://timeway.vivian.jp/index.html 

  秦滅亡後の国家構想です。項羽には咸陽で皇帝に即位して秦の跡を継ぐように進言した者がいました。しかし、項羽はこれを断る。「故郷に錦を飾りたい」というんだ。これだけの財宝を手に入れた、田舎に帰って地元のみんなに自慢したい、ということです。

 項羽は楚の国に帰って、西楚の覇王と称しました。さらに秦を倒すのに功績のあった反乱集団のリーダーたちを王として、各地に封じたんです。要するに、項羽は戦国時代のような体制への復帰を目指したといえるでしょう。始皇帝が作り上げた中央集権的なあり方と春秋戦国的な分権的なあり方があって、項羽は後者を代表していた。保守的です。

 劉邦ですが、項羽によって王にされました。漢王といいます。咸陽の土地ではなく、四川省の山奥に引っ込んだ場所の王とされた。項羽に警戒されたからですが、劉邦は不満でしょうがない。やがて項羽の決めた国割りを無視して、実力で領土拡大を始めます。全国制覇を目指すわけ。だから、劉邦が始皇帝の構想を受け継ぐものだったといえる。

 このあと5年間に渡って、項羽と劉邦の戦いが起こります。楚漢の興亡と呼ぶ。項羽の国が楚、劉邦の国が漢だからね。

 どちらの軍勢が強いかというと、圧倒的に項羽が強い。劉邦軍は、負けてばかりです。ただ面白いことに、負ければ負けるほど劉邦の勢力は強大になり、勝てば勝つほど項羽軍は弱体化していくのです。

 項羽という人は、自分の功績を誇りすぎ。部下の将軍たちにとっては、仕えにくいところがあった。例えば項羽は合戦に勝利しても、自分が強いからと考えるから部下への恩賞が少ない。

そこへいくと、劉邦は部下を大事にするという評判があるんだね。劉邦という人は、何ができるという人ではない。特技はないし歳もとっているし、戦争もからきし弱い。ただ、人を使うのが上手かった。それぞれに活躍の場を与えてやり、恩賞もはずむ。咸陽を占領した時の態度で、その寛容さは証明済みでしょ。だから、やがて項羽の武将たちが、どんどん手勢を率いて劉邦軍に寝返っていくんです。

劉邦と項羽の最後の決戦が、垓下の戦い(前202)です。垓下の城に追いつめられた項羽の軍勢は10万。取り囲む劉邦の軍隊は30万。夜になると、包囲軍の兵士が歌う歌が、項羽の陣地に聞こえてきた。これが楚の歌なのです。楚は項羽の出身地でしょ。楚の歌を歌うのは、楚の兵士なんですよ。つまり項羽の兵士たちが、今はみんな劉邦軍にいってしまったということだ。「四面楚歌」ですね。

 項羽は、ついに観念した。もう勝利の見込みはない。最後まで付き従っていた武将たちと、別れの宴を開く。その時に項羽がうたった詩が、伝えられています。これだ。

 「力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う、
時に利あらず、騅(すい)逝(ゆ)かず、
 騅の逝かざるは、奈何(いかん)かすべき、
 虞や、虞や、なんじを奈何せん。」

自分の力は山を大地から引き抜き、気概は世を覆うほどなのに
時が味方をしてくれず、もはや愛馬の騅も走ろうとしない
騅が走ってくれないのは、どうすればよいのか
虞や、虞や、おまえをどうしてくれよう

 みんな死を覚悟して涙、涙の宴会になってしまった。虞というのは項羽の愛人、虞美人のことです。ずっと項羽に付き従ってきたのですが、彼の歌を聞いて自分が足手まといであると知って、自ら命を絶ったという。彼女の血を吸った地面から生えた花が、虞美人草だということです。

 この後、項羽たちは劉邦軍の囲みを破って、南方、楚の国に向けて脱出します。なんとか劉邦軍の追撃を振り切って、烏江(うこう)というところまで逃げます。この時は、僅か数騎に減っています。長江を渡らなければいけないので、船頭を捜した。そうしたら見つけてきた船頭さんが、項羽を見て言うんだ。

「大王よ、楚の国は広いし人口も多い。今は負けても、また再び王となってください。」

落ち目の自分に優しい言葉をかけられて、初めて項羽は自分のやってきたことを反省する。何千人という楚の若者を兵士として引きつれて戦ってきたけれど、みんな死んでしまった。なぜ自分だけ、おめおめと帰って彼らの父兄に会えるだろうか、とね。

 項羽は死に場所を求めて、引き返した。追ってきた劉邦軍と最後の戦いです。乱戦の中で、項羽は敵兵にかつての自分の部下を見つけるんだ。

 「おまえは、昔馴染みじゃないか。俺の首をやろう。大名くらいにはなれるだろう。」そういって、自分で首を刎ねたそうです。

 こうして、一代の英雄、項羽は死にました。ライバルを倒して、劉邦が天下を統一します。これが漢帝国。劉邦は、後に漢の高祖と呼ばれることになります。


秦の滅亡理由
最後に秦が短期間で滅亡した理由を整理しておきましょう。

.大規模な外征や土木工事。これが民衆に対する過度の負担をあたえた。陳勝や劉邦も、労役への徴発が反乱の原因になっていましたね。

.急激な中央集権化。特に郡県制。各地の伝統や実状を無視した、画一的な支配に対する旧六国支配者層の反発は強かった。項羽はこれだね。項羽とともに反乱に加わった人々には、旧六国の支配者層は多かったんです。

.厳しい法律、刑罰に対する民衆の反感、恐怖。始皇帝が死んで抑えられていた不満が、一気に爆発した。法家思想の効果と限界とでもいうところでしょうか。

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