2019/06/06

文景の治 ~ 前漢(1)

前漢(紀元前206 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。

7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され、一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対し、こちらを後漢と呼ぶ。

中国においては、東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。

という固有名詞は、元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした「漢中」という一地方を指す言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)

高祖劉邦
戦国時代を統一した秦の始皇帝は、皇帝理念・郡県制など、その後の漢帝国及び中国歴代王朝の基礎となる様々な政策を打ち出した。しかし、その死後、二世皇帝が即位すると宦官の趙高の専横を許し、また阿房宮などの造営費用と労働力を民衆に求めたために民衆の負担が増大、その不満は全国に蔓延していった。

紀元前209年、河南の陳勝による反乱が発生したことが契機となり、陳勝・呉広の乱と称される全国的な騒乱状態が発生した。陳勝自身は秦の討伐軍に敗北し、敗走中に部下に殺害されたが、反秦勢力は旧楚の名族である項梁に継承され、楚を復国し義帝を擁立、項梁の死後はその甥の項羽が反秦軍を率いて反秦活動を行った。漢の創始者である劉邦は、その部下として秦の首都であった咸陽を陥落、秦を滅亡させた。その後は西楚の覇王を名乗る項羽と、その項羽から漢中に封建されて漢王となった劉邦との間で、内戦が発生した。(楚漢戦争

当初、軍事力が優勢であった項羽により劉邦は度々敗北したが、投降した兵士を虐殺するなどの悪行が目立った項羽に対し、劉邦は陣中においては張良の意見を重視し、自らの根拠地である関中には、旗揚げ当時からの部下である蕭何を置いて民衆の慰撫に努めさせ、関中からの物資・兵力の補充により敗北後の勢力回復を行い、更に将軍・韓信を派遣し、華北の広い地帯を征服することに成功する。これらにより、徐々に勢力を積み上げていった劉邦は、紀元前202年の垓下の戦いにて項羽を打ち破り、中国全土を統一した。

劉邦は諸将に推戴され、皇帝に即位する(高祖)。高祖は蕭何・韓信らの功臣たちを諸侯王・列侯に封じ、新たに長安城を造営、秦制を基にした官制の整備などを行い、国家支配の基を築いていった。しかし高祖は、自らの築いた王朝が無事に皇統に継承されるかを考慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、それに代わって自らの親族を諸侯王に付けることで「劉氏にあらざる者は、王足るべからず」という体制を構築した。秦の郡県制に対して、郡県と諸侯国が並立する漢の体制を郡国制と呼ぶ。

呂氏の専横
紀元前195年、高祖は崩御。その跡を劉盈(恵帝)が継ぐ。恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の皇后であった呂后であった。呂后は、高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意を毒殺、さらにその母の戚夫人を残忍な方法で殺した。恵帝は母の残忍さに衝撃を受け、失望のあまり酒色に溺れ若くして崩御してしまう。呂后は前少帝、後少帝(劉弘)を相次いで帝位に付けるが、劉弘は実際には劉氏ではなかったとされる。

呂后は諸侯王となっていた高祖の子たちを粛清、そして自らの親族である呂産、呂禄らを要職に付け、更にこれらを王位に上らせ外戚政治を行う。「劉氏にあらざる者は……」という皇族重視の国家体制の変質である。呂后は、呂氏体制を確立するために奔走したが紀元前180年に死去した。呂后の死去に伴い反呂氏勢力が有力となり、朱虚侯の劉章・丞相の陳平・太尉の周勃らが中心となり、呂産を始め呂氏一族は粛清され、呂氏の影響力は宮中から一掃された。

文景の治
呂氏の粛清後に、皇帝として即位したのが代王であった劉恒(文帝)である。
秦滅亡から漢建国までの8年に及ぶ長い内戦状態は国力を激しく疲弊させ、一般民の多くが生業を失った。これに対して文帝は民力の回復に努め、農業を奨励し田租をそれまでの半分の30分の1税に改め、貧窮した者には国庫を開いて援助し、肉刑を禁じ、その代わりに労働刑を課した。また自ら倹約に取り組み、自らの身の回りを質素にし官員の数を減らした。

紀元前157年、文帝は崩御。この時に文帝は新しく陵を築かず、金銀を陪葬せず、その喪も3日で明けるように遺言した。その跡を劉啓(景帝)が継ぐ。景帝もまた基本的に文帝と同じ政治姿勢で臨み、民力の回復に努めた。その結果、倉庫は食べきれない食糧が溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたと言う。実際の数字からも国力の回復は明らかで、例えば曹参が領地として与えられた平陽は当初は16千戸であったのが、この時代には4万戸に達していた。この2人の治世を讃えて文景の治と呼ぶ。

国力の回復と共に、諸侯王の勢力の増大が新たな問題として浮上した。また、塩や鉄製品を売り捌く商人や、国家の物資輸送に携る商業活動も活発化し、商人の経済力が増大した。物を生産せず巨利を得る商人に対して、商業を抑え込んで農業を涵養することを提言したのが文帝期の賈誼であり、景帝期の鼂錯であった。文帝の観農政策は賈誼の提言に従ったものである。

生産の回復は中央の勢力を増大させたが、同時に諸侯王の勢力も増大させた。諸侯国は中央朝廷と同じように官吏を置き、政治も財政も軍事もある程度の自治権が認められていた。これを抑圧することを提言したのが鼂錯である。鼂錯は、諸侯王の過誤を見つけてはこれを口実に領地を没収していき、諸侯王の勢力を削りにかかった。これに対して諸侯王側も反発し、呉王劉濞が中心となって紀元前154年に呉楚七国の乱を起こす。この乱は漢を東西に分ける大規模な反乱だったが、周亜夫らの活躍により半年で鎮圧される。

これ以後、諸侯王は財政権・官吏任命権などを取り上げられ、諸侯王は領地に応じた収入を受け取るだけの存在になり、封国を支配する存在ではなくなった。これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立された。
出典 Wikipedia

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