2019/06/21

漢初の政治 ~ 前漢(4)


秦にかわって劉邦が建てた王朝がです。都は長安。漢は前後半に分かれるので普通は前漢(前202~後8)と呼びます。

漢初の政治方針について。

・まず、秦の過酷な支配をゆるめる。

・次に統治形態として、郡県制をやめました。かわりに採用したのが郡国制です。これは郡県制と封建制を併用した形です。

劉邦は、たくさんの人材を得て統一ができたわけだけれど、単純に劉邦が「いい人」だったから多くの武将が集まったわけではない。この大将なら、たっぷり恩賞をはずんでくれると思っているから協力したわけです。突き詰めれば、みんな王様になりたいわけ。劉邦は、そういう連中を満足させてやらなければならなかった。また、秦は郡県制による急激な中央集権化で反発を招いた、ということもある。

そこで、建国の功臣たちや一族のものを諸侯として地方に封じました。漢帝国の中にたくさんの王国ができるわけです。王になった者たちは、自分の王国内で大臣を任命したりして好きに支配していいんですよ。そして、王国が造られなかった地域には郡県制を布いて、皇帝の直轄地とした。皇帝直轄地はどれくらいかというと、全国の三分の一だった。

 皇帝である劉邦としては、こうするより仕方なかったことなんですが、各地の王が反乱したら漢帝国は危ないですね。郡国制は中央集権化に逆行しています。だから、劉邦は後に色々な理由をつけて、有力な国を取りつぶして直轄地に編入しています。

・対外政策です。始め劉邦は北の脅威、匈奴に対して遠征をしました。しかし逆に包囲されて、命からがら逃げ帰ったことがあった。それからは、対匈奴和親策をとります。一族の娘を匈奴の王に送ったりして、平和を保とうとしました。

・当初の漢の宮廷では、道家が流行します。儒家は礼儀作法にうるさくて堅苦しいですから、劉邦たちにはあまり人気がなかった。劉邦は元々田舎の町の親分ですから、教養なんてまるでない。本当の庶民なのです。

 たとえば、かれの両親の名前。母親は劉媼(りゅうおう)と記録されている。「」というのは、おばあさんという意味なんです。だから劉媼とは「劉の婆さん」と里のみんなから呼ばれていた、そのままの呼び名で記録されているということです。親父さんも劉太公と書いてあって、これも「劉じいさん」という意味です。これはどういうことかというと、ハッキリいって、名前がないんだね。まあ、当時の社会では珍しいことではないかもしれないが、劉邦の生育環境を考えると面白いです。劉邦自身も「」というのは、当時は「兄貴」「にいちゃん」という意味だったという説もあって、「劉のあんちゃん」と呼ばれていたのが、そのまま名前になったのかも知れない。

 劉邦が旗揚げした時からつき従っていた部下たちにしても、犬の屠殺人や葬式のラッパ吹きなど、当時の社会で低い地位の人たちが多い。よくて地方役所の書記官レベルです。こういう教養、学問に欠ける人たちが一躍、大帝国の皇帝や重臣になってしまった。だから宮廷といっても、我々が想像するような煌びやかで立派なものではなくて、礼儀も何もない滅茶苦茶状態だった。彼らは宮廷で酒を飲んでは乱暴狼藉、暴言、喧嘩ばかりしていたようです。「無為自然」の道家は、そんな人たちにもウケがよかったんだね。

 ただ、国家を運営していくには、それなりの秩序を維持していかなければならないので、徐々に儒家の説く礼を儀式に取り入れたりしていきます。しかし、儒学が漢政府に本格的に採り入れられていくのは、まだ後のことです。

劉邦の奥さんも凄まじい。有名な話があるので、紹介しておきましょう。劉邦が若い頃、田舎でぶらぶらしているときに、妻にした女性がそのまま皇后になりました。呂后(りょごう)といいます。糟糠の妻、というやつだね。皇帝なった劉邦、若い女をどんどん後宮に入れる。呂后は悔しいけれど、一夫多妻が常識だから我慢してます。晩年の劉邦が、特に可愛がったのが戚夫人。

 やがて劉邦は死んで、呂后の生んだ恵帝が二代目の皇帝になりました。呂后は、それまで抑え込んでいた恨みを、ここで爆発させるの。戚夫人を連れてきて彼女に復讐する。ちょっと気持ち悪いかも知れないから、覚悟してね。

 まず、戚夫人の両手足を切断する。それから舌を抜いて喋れなくして、目玉も二つとも抉り出します。耳には溶かした銅を流し込んでしまう。次に、その戚夫人を豚小屋に放り込んだ。豚小屋というのは何か。当時、中国のトイレは二階建てになっていました。用を足すときには上に登ってする。放出したものは一階に落ちる仕組みになっていて、そこでは豚を飼っていました。要するに、豚の餌が人間の糞尿なのです。豚小屋に放り込むということは、そういうことです。

 呂后、それでもまだ気持ちがおさまらない。即位したての息子恵帝に

 「あなたにお見せしたいものがあります。」

 といって、手を引いて豚小屋の前まで連れてくる。

 「ほら、ご覧なさい。」

 恵帝、なんだろうと、暗闇でゴソゴソうごめく暗い影に目を凝らしてみていると、あの美しかった戚夫人が変わり果てた姿でころがっている。「ギャッ!」恵帝は気の優しい貴公子だから、ものすごいショックを受ける。呂后は平然として「これが、ヒトブタです。」と解説したらしい。「母上、ひどい!」といったかどうかは知らないけれど、恵帝はそれ以後、自分の部屋に閉じこもって酒浸りになり死んでしまった。

 呂后は相当な性格ですが、こういう女性を妻にしている劉邦、彼も現実に身近にいたら関わりたくないような恐ろしい奴だったような気がします。本に出てくると、さらっと読んでしまうけれど、命を懸けて天下を取ろうなんて考えること自体、常人を超えているよね。劉邦の死後は、呂后が政府の実権を握る時期があるんですが、彼女の死後はまた、劉邦の子孫たちが皇帝として政権を担当していきました。

六代目景帝の時に、呉楚七国の乱(前141)がおきます。漢政府の中央集権化政策に、国を没収されるんではないかと恐れた呉、楚などの七つの国が起こした反乱です。この反乱は数ヶ月で鎮圧され、大きな国はなくなって漢は実質上、郡県制になりました。

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