2019/06/16

霍光と宣帝 ~ 前漢(3)

巫蠱の乱の後の皇帝の後継者は長期間空白が続いていたが、武帝は崩御の直前にわずか8歳の幼齢である劉弗陵(昭帝)を立太子し、幼帝の補佐として、自らの側近であった霍光・桑弘羊・上官桀・金日磾に後見役を命じた。

87年に武帝が崩御すると昭帝が即位したが、翌年に後見人の一人である金日磾が死去すると、霍光・上官桀と桑弘羊との主導権争いが発生した。内朝を代表する霍光・上官桀と、外朝を代表する桑弘羊との対立は深刻なものとなり、霍光は桑弘羊を排除すべく全国から集めた賢良・文学と自称する儒学の徒を養い、桑弘羊主導で行われた専売制・均輸・平準を廃止する建議を出した。これが『塩鉄論』である。しかし、優秀な経済官僚であった桑弘羊は、儒教徒の建議を論破、霍光の計画は頓挫した。

その後、桑弘羊も霍光に対抗するために上官桀と接近した。そして昭帝の兄である燕王劉旦と共謀し霍光を謀殺し、昭帝を廃するクーデターを画策したが失敗、上官桀と桑弘羊の一族は誅殺された。これにより霍光が政権を掌握、一族を次々と要職に就け霍氏を中心とした政権運営が行われた。霍光は武帝時代の積極政策を転換し、儒教的な恤民政策に立脚した施策を打ち出した。具体的には租税の減免、匈奴に対する和平策などである。

74年、昭帝が21歳で早世すると、霍光は劉賀を皇帝に擁立、しかし素行不良を理由に即位後まもなく廃位させ、新たに戻太子の孫で戻太子の死後市井で暮らしていた劉病已(宣帝)を擁立した。宣帝は自らの立場を理解し、霍光による専横が引き続き行われた。しかし前68年に霍光が病死すると宣帝は霍一族の権力縮小を図り、前66年に霍一族を族滅させ親政を始めた。

宣帝の政治は、基本的に霍光時代の政策を継承した恤民政策であった。全国の地方官に対して、これまでの酷吏のように締め付けるのではなく、教え諭し生活を改善するように指導させる循吏を多く登用している。その一方、豪族に対しては酷吏を用いて厳しい姿勢で臨んだ。

対外面では匈奴国において短命な単于が相次いだ事による内紛や、天候不順による状況の悪化に乗じて前71年、校尉の常恵と烏孫の連合軍による攻撃で、39千余人の捕虜と70万余の家畜を得て、匈奴に壊滅的な打撃を与えた。さらに西域に進出し、前60年には匈奴国家が西域オアシス諸国家の支配・徴税のために派遣していた日逐王先賢撣を投降させることに成功している。これを機に西域都護を設置し、帰服した日逐王を帰徳候に封じた。

匈奴国は西域の失陥と年賦金の途絶により、衰退と内紛を激化させ五単于並立の抗争に至った。呼韓邪単于は匈奴国家の再統一を進めたが、兄の左賢王呼屠吾斯が新たに即位して郅支単于を名乗ると、これに敗れた。呼韓邪単于は南下して漢に援助を求め、51年、自ら入朝して宣帝に拝謁し客臣の待遇を得た。これを期に匈奴国は漢に臣従する東匈奴と、漢と対等な関係を志向しつつ対立する西匈奴に分裂した。

これらの功績により、宣帝は漢の中興の祖と讃えられる。

儒教国家への道
49年に宣帝が崩御し、劉奭(元帝)が即位した。儒教に傾倒していた元帝は、受け入れられなかったものの太子時代に宣帝に対し、儒教重視の政策を提言した経験を有す人物である。即位後は貢禹などの儒家官僚を登用し、儒教的政策を推進していくこととなる。

貢禹の建議により、宮廷費用の削減・民間への減税、専売制の廃止(その後、すぐに復されている)などの政策が実施された。また貨幣の廃止による現物経済への回帰という極端な政策も立案されたが、これは実現しなかった。貢禹の後を受けた韋玄成らにより、郊祀制の改革・郡国廟の廃止が決定され、七廟の制が話し合われることになった。

元帝の時代は儒者が政策の主導権を握り、儒教的教義が政治を決定を左右する等、政治が混乱した。また、宦官および外戚の台頭が進んだ。

宣帝の信任を受けた宦官の弘恭、石顕は、病弱な元帝に代わって朝政を取り仕切り権力を拡大、遂には中書令に就き政権を掌握した。前将軍の蕭望之らは、宦官の壟断を弾劾する文書を奏上するが、逆に罪に落とされ自殺へ追い込まれた。ただ専横を振るった石顕も、成帝の即位と共に失脚している。

漢への臣従を拒む西匈奴の郅支単于に対しては、臣従した東匈奴や西方で西匈奴に対立する烏孫と攻守同盟を結び、次第に追い詰めていった。郅支単于は、烏孫と対立する康居と同盟して部衆を率いて北に移動したが、折からの寒気により多くの家畜が凍死した。前36年、西域都護の甘延寿と西域副校尉の陳湯が独断で郅支単于を攻め、郅支単于を討ち取り西匈奴を滅ぼした。

33年、元帝の崩御により劉驁(成帝)が即位する。政治の実権は外戚の王氏に握られており、成帝は側近を伴い市井で放蕩に耽るなど、政治に関わらなかった。実際の政治を行ったのは、皇太后である王政君の兄弟の王鳳らである。王太后は近親を次々と列侯に封じた、その中には王莽も含まれる。

王鳳死後も王太后の一族が輔政者となったが、その専横と生活態度は翟方進ら儒教官僚の反発を招いた。その中、王莽は王氏の中で独り謙虚な態度を装い名声を高めた。

7年、成帝の崩御により皇太子である甥の劉欣(哀帝)が即位。哀帝の外戚が台頭した事で、王氏は排斥され王莽も執政者の地位から退けられるが、王莽は朝廷内に隠然たる影響力を保持していた。

哀帝は王氏派の大臣を処断、董賢を大司馬に昇進させるなど親政への意欲を見せ、吏民の私有できる田地や奴婢の制限を課し、官制改革に着手するなど積極的な政策を推進したが、前1年に哀帝は後継者を残さないまま突然崩御した。王太后と王莽は皇帝の印綬を管理していた董賢から印綬を強奪、元帝の末子の子である劉衎(平帝)を擁立した。

政権を掌握した王莽は、王氏の実力を背景に簒奪の準備に着手する。『周礼』に則り聖人が執政する場所とされる明堂を建築、遠国からの進貢や竜が出たやら、鳳凰が飛んできたやら瑞祥とされる事柄を演出した。また自らの娘を平帝に娶わせ皇舅となり、安漢公に封ずると共に宰衡という称号を名乗り、九錫を授け、臣下として最高の地位に登った。

紀元後5年、平帝が崩御(王莽が毒殺したとも言われる)すると、王莽はわずか二歳の劉嬰を後継者に選ぶ。劉嬰は、まだ幼年であることから正式には帝位に就けず、自ら翌年6年に王莽は仮皇帝・摂皇帝として劉嬰の後見となり、更に8年王莽は皇帝に即位、新朝を建国し漢は滅亡した。

王莽は儒教色の極めて強い政治を行い、土地・奴婢の売買禁止・貨幣の盛んな改鋳などを行ったが、あまりに現実離れした様々な政策は尽く失敗に終わり、呂母の乱を切っ掛けに全国で農民の蜂起が発生した。戦乱の中から劉秀が登場し再び中国を統一、漢が復興された(後漢)
出典 Wikipedia

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