2006/05/07

東慶寺(2006のGW)(5)

初音蒔絵火取母 - 工芸品 - 指定年月日:1960年〈昭和35年〉69日指定)

室町時代作の香炉。「火取母(ひとりも)」は香炉の一種。平安時代の香炉は金属製の薫炉とそれを納める火取母、そして火取母の上に被せる金属製の薫籠(くんこ)からなる。江戸時代には火取母の中に金属製の落としを入れただけの簡略香炉が多くなるが、これは薫炉、薫籠が備わっており、平安時代以来の香炉の形をきちんと伝えている。

 

この香炉は衣類に香をたき染めるために使用したもので、この香炉の周りに伏籠(ふせご)という木の枠を置き、そこに衣類を被せて香を炊き込めていた。「初音」とは源氏物語の巻名である。「初音の巻」の「年月を松に曳かれてふる人に今日鴬の初音聞かせよ」を歌絵とり入れ、火取母の蒔絵の図柄の中に「はつね」「きか」「せよ」の文字を松梅の間に配している。

 

本作品をはじめ、東慶寺に伝わる蒔絵遺品は高台寺蒔絵に対して、東慶寺伝来蒔絵を略し東慶寺蒔絵ともいわれる。豊臣秀頼娘天秀尼の所持とも伝えるが、それぞれの由来は不明である。

 

葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱 - 工芸品 - 指定年月日:1976年〈昭和51年〉65日。

「南蛮漆芸」の遺品。「聖餅箱(せいへいばこ)」はキリスト教のミサで用いる道具で、キリスト教関連の器物も禁教令の出る1613年(慶長18年)以前には、ポルトガルの商人を通じたヨーロッパからの注文で大量に作られていた。ただし、これがなぜ仏教寺院である東慶寺に伝わったかは定かでない。

 

キリスト教のミサの道具と認識されたのは、1936年(昭和11年)に漆工研究家の吉野富雄がこれを見つけたときからである。今日本にある「南蛮漆芸」は、一度海外に輸出した漆芸品が近年戻ってきたものがほとんどであるが、この聖餅箱は日本からは出ずにずっと東慶寺に残っていたという非常に珍しいケースとされる。

 

東慶寺文書 附 文箱1合、鏧子1口 (東慶寺文書777通、20冊)- 古文書 - 指定年月日:2001年〈平成13年〉622日指定。

 

院代蔭涼軒の寺法集と寺役人所持の写

本文書は、永徳3年(1383年)1220日付の足利氏満寄進状から、明治3年(1879年)1229日付の「たよ内済離縁引取状」までを収める。本文書は、寺史・寺法関係と縁切関係とに大別される。古いものでは、足利成氏書状、足利政氏印判状などがある。同寺は1515年(永正12年)に火災があり、それ以前の文書はほとんど無いが、17世旭山尼の頃からの文書は良く残っている。中には、旭山尼の姉青岳尼が住持であった尼五山第一位太平寺の廃寺を伝える後北条氏の北条氏綱の手紙や、聖観音立像を取り返してきた蔭凉軒要山尼への感謝とねぎらいの手紙などもある。江戸時代については、千姫侍女書状十通の他、縁切関係では1866年(慶応2年)の2冊の日記帳に駆入りの月日、親元、夫方、媒人等の呼出、到着、役所での取調べ、落着引取までの始末が記録されており、研究上の重要な史料である。

 

1905年(明治38年)の東京帝国大学史料編纂掛(現東大史料編纂所)の調査では、1690年(元禄3年)以来の日記数十冊、1733年(享保18年)を始め十数冊の駆入書留他大量の古文書の存在が確認されていたが、関東大震災やあるいは敗戦の混乱時に失われ、現在かろうじて東慶寺に残るものが重要文化財となった。ただし虫食いその他で相当傷んでいるものもあり、東慶寺では2013年時点でその修復を計画し、基金を募っている。

 

神奈川県指定有形文化財

彫刻

木造彩色水月観音坐像 - 指定年月日 - 1953年〈昭和28年〉1222日」。

水月堂に安置する。日本での一般的な仏像とは異なり、岩にもたれてくつろいだ姿勢をとる。南宋風の、水墨画から抜け出てきたような自由な姿態の像である。こうしたくつろいだ観音像は、中国では宋から元の時代に大流行した。観音菩薩は補陀洛山(ふだらくせん)に住むと云われるが、中国で山というと仙人の住むところであり、観音菩薩と仙人のイメージが重なって、仙人特有のポーズで観音菩薩が表現されるようになったと考えられている。聖観音立像の土紋装飾と同様に、こうした姿態の像は京都には残らず、鎌倉時代後半の鎌倉周辺にしか見られない。

 

日本仏教への南宋の影響としては建長寺、円覚寺に始まる禅宗到来のイメージが一般に強い。しかし滞在12年の入宋僧俊芿(しゅんじょう)に始まる京都泉涌寺系律宗も忘れてはならず、東寺や東大寺の大勧進として工匠を率いる律宗指導者がスポンサーを求めて鎌倉幕府に接近したことから、南宋彫刻の様式と技法は鎌倉に伝わる。

 

実際に南宋風の仏像は泉涌寺以外では鎌倉と、鎌倉文化圏のみに残っている。それは宋仏画の影響を強くうけた白衣観音的なもので、肉身は白土塗りの上に金泥仕上げをし、衣文は文様の輪郭を練り物で盛り上げ、その上に金彩を施しているのが一般的である。水月観音像も、まさに建長寺にある南宋伝来の白衣観音にも共通する姿態であり、金泥のほとんどは剥離しているものの白土(白色顔料)塗りは窪みなどに多数残っている。今は灰色の坐像にしか見えないが、当初は聖観音立像と同様に金彩の豪華絢爛な像である。

 

装飾技法としては、現状ではあまり鮮明には見てとれないものの、宋風の影響を強く受けた盛上装飾が施されている。盛上装飾は、この水月観音像の他に京都泉涌寺の諸仏、横須賀市清雲寺の滝見観音像(重文)、いわき市禅長寺の滝見観音像などがあるが、ともに装飾技法だけでなく像そのものが宋風、あるいは宋伝来のものである。

 

この水月観音像は磐城禅長寺の滝見観音像とともに、きわめて忠実な宋風様式とされる。かつては南北朝時代のものとみられていたが、近年の調査で鎌倉時代も13世紀後半の作と修正されている。東京国立博物館の浅見龍介は、もしこの像が最初からこの寺にあったのであれば、開山覚山尼にかかわる遺品である可能性もあるとする。銅製の冠、胸飾などは後世補われたものである。

 

工芸

銅鐘(東慶寺) - 指定年月日:(昭和44122日。

鋳物師大工・大和権守光連の作で、銘に観応元年とある。比較的小鐘であるが、時代の特徴をよく示している。

 

鎌倉市指定有形文化財

彫刻

木造釈迦如来坐像 - 指定年月日:2003年〈平成15年〉1119日指定。

本堂に安置されている本尊で、寄木造玉眼入り。像高 91.0cm。頭部内面に墨書修理銘がふたつあり、古い方の冒頭に「松岡東慶寺永正12年火事出来、本尊計出候、菩薩座光□□ 2字判別不能)」とあり、これによって1515年(永正12年)に大火事に見舞われたことが判った。 現在残る古文書に、永正12年以前のものが極めて少ないのは、このとき焼失したためと思われている。

 

聖観音立像は、この時期まだ東慶寺には来ていないので「菩薩座光」は水月観音菩薩かもしれないが不明である。1518年(永正15年)6月に、この本尊に仏師弘円が面部を彩色し、左の玉眼を入れたことが記されている。もうひとつは江戸時代初期で、1671年(寛文11年)に仏師加賀が修補とある。関東大震災で大破したが本尊は昭和初年に修復した。かつては本尊の前立に文殊菩薩、普賢菩薩があったが関東大震災で大破し今はない。

 

木造観音菩薩半跏像

木造観音菩薩半跏像は鎌倉時代・14世紀の作で、鎌倉市指定文化財(彫刻・2003年〈平成15年〉1119日指定)である。写実的ながら水月観音像ほどくつろいだ印象はなく、同じ鎌倉時代でも制作年代に開きがあるとされる。髻頂上の飾り、両手首先、左目の上瞼、下に踏み下げる左脚と、その周囲の垂れる衣は後世補修されたものである。金沢区富岡の慶珊寺に、明治維新後の廃仏毀釈で鎌倉の鶴岡八幡宮十二坊より移された十一面観音があり、胎内の銘文により1332年(正慶元年)の仏師院誉作と判明しているが、これと極めて良く似ている。

 

工芸

銅造雲盤(寛永十九年銘) - 指定年月日:昭和401013日。寛永19年(1633年)の銘がある。

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