2006/05/06

東慶寺(2006のGW)(4)

寒雲亭(茶室)

書院と本堂の向かいに茶室・寒雲亭がある。寒雲亭は千宗旦の遺構で、最初のものは1648年に造られ、裏千家で最も古いお茶室とされる。ただし1788年(天明8年)正月に京都で大火があり、伝来の道具や扁額、襖は持ち出すことができたが、茶室は隣合わせだった表千家・裏千家共にすべて焼失している。従って現在残るものは、1788年から翌年にかけて同じ間取りで再建されたものである。東慶寺の寒雲亭は明治時代に京都の裏千家から東京の久松家(元伊予松山藩久松松平家)に移築され、その後、鎌倉材木座の堀越家を経て、1960年(昭和35年)に東慶寺に寄進・移築されたものである。

 

千宗旦の「寒雲 元伯七十七歳」の扁額がある。垣根の外から見える外壁に「寒雲」の扁額が見えるが、それとは別のものである。1994年(平成6年)に改修工事を行った。京都の裏千家今日庵にも、寒雲亭が再建されている。

 

普通にお茶室というと「にじり口」から入る広くて4畳半、狭いと2畳に床の間という「小間」のイメージだが、こちらは「広間」という八畳の茶室で、露地に面して貴人口(きにんぐち)があり、 書院造りである。ただし床の間と付書院を分けて格式を和らげている。下座床で、寒い時期に切る炉は向切である。天井は真行草の三段構えで貴人席の上が竿縁天井、その向いが平天井、縁側の下座が船底天井と3種類に分かれている。現在では観音縁日(毎月18)の月釜、の他、様々な茶会や体験教室などに使われている。

 

白蓮舎(立礼茶室)

本堂の門前の先に青銅の金仏があり、道はそこから若干右方向に曲がるが、その金仏の左正面が茶室・寒雲亭の中門である。その門の手前を右へ行くと、菖蒲畑の左側に見えるのが立礼の茶室白蓮舎である。普通にお茶室というと和室に正座で作法が大変というイメージだが、こちらのお茶室は立礼席(りゅうれいせき)と言って敷き瓦を敷いた土間に椅子にテーブルでかなりの広さがある。立礼席は明治5年に裏千家11代玄々斎が外人を意識して考案したもので、その後多くの流派に広がった。立礼席は各流派の門人の為のお茶会でない限り、一般には作法をさほど気にしないでも済む略式ととらえられている。

 

松ヶ岡宝蔵

かつては、この場所に方丈があったという。1978年(昭和53年)に鉄筋コンクリートの土蔵様式で新築された。木造聖観音立像(重文)は受付の先、階段下のスペースの壁面に安置されている。その上には、かつて蔭涼軒主徹宗尼が伯母である21世住持永山尼の十三回忌に建立し、聖観音立像を安置した泰平殿の扁額が架かっている。その対面の壁上部には釈宗演の跡を継いだ佐藤禅忠が釈宗演の大患全癒紀念にと、1916年(大正5年)に書いた鐘楼天井の龍の絵の下図が架かっている。その脇の階段を上がると展示室であるが、現在は閉鎖中である。

 

文化財

国指定

重要文化財

木造聖観音立像 - 彫刻 - 指定年月日:1900年(明治33年)47日指定。

聖観音立像 元は鎌倉尼五山第一位太平寺の本尊とされる。土紋装飾が施されている。

もともとは鎌倉市西御門にあった太平寺(鎌倉尼五山の第一位、廃寺)の本尊であったとされる。宝髪を結い上げた菩薩ながら、裙(くん)・偏衫(へんざん)・大衣(だいえ)を着用した如来形である。如来衣を着用する観音菩薩は非常に少なく、いずれも宋風の彫像である。太平寺で、この像を安置していたと思われる仏殿は円覚寺に移築され舎利殿(国宝)となっている。

 

後世補われた光背と台座以外は剥落、褪色のため造像当初の色彩は失われている。宋風の仏像装飾は肉身には金泥塗、衣文は金泥地に金箔の截金文であり、この聖観音立像も土紋装飾、盛り上げ装飾に上に金泥、更に金箔の截金(切金とも)も併せ用いた豪華絢爛な贅を尽くした像である。土紋装飾とは彫刻面の上に布貼し錆漆を塗り、その上に粘土に漆を加えて固めに練ったものを雌型に詰めて作った落雁の様なものを、まだ柔らかいうちに漆で貼り付けるもので、南宋風の装飾技法である。鎌倉時代後期から南北朝、室町時代初期までの鎌倉周辺にしか見られない。

 

土紋装飾は大衣の部分にあるが、大衣一面にある訳ではない。袈裟は元々は糞掃衣(ふんぞうえ、ぼろ布・端切れを寄せ集め、継ぎ合わせて作った衣)に由来し、その名残で布の継合せを表す田んぼとあぜ道のような部分(田相部、条葉部)がある。土紋は、その条葉部の蓮華唐草文として施されている。およそ2.5cmぐらいで、型抜きをし、花文や葉文などのスジはヘラで陰刻して仕上げ、その上を白色層が下地として覆い、その上を金泥などの金色層が覆う。

 

田相部には、かなり剥げ落ちてはいるが、截金(きりかね・切金)といって金泥の上に金箔を細く切って貼り付けることで文様をつける。

 

花文や葉文を結びつける蔓は盛り上げ装飾で、朱と白色顔料を混ぜた顔料を盛り上げている。土紋装飾の代表的な仏像に胎内銘文により1299年造と判明している浄光明寺の阿弥陀如来坐像があるが、土紋、截金ともにその像と同じ形式である。ただし若干簡略である。

 

制作年代は、鎌倉時代後期から南北朝時代の頃(14世紀)とされる。最も古く見ているのは「神奈川県文化財図録・彫刻編」で、1299年(正安2年)頃の浄光明寺の阿弥陀三尊脇侍菩薩像より後。鎌倉時代でも、14世紀の13001333年とする。それに対し山田康弘は、鎌倉期の素朴で重厚な表現とは異なり、人間味豊かな表現や彫技に神経を使っている点などから、14世紀でも南北朝時代。渋江二郎も室町時代の彫刻の趣きが若干現れ初めているとしている。

 

三山進は、川崎市能満寺にある1390年(明徳元年)の虚空蔵菩薩像よりも前。ただし14世紀でも鎌倉時代まで遡らせるのは危険。太平寺の本尊であったことを考慮に入れると、太平寺が鎌倉公方家の寺となったのは、足利基氏の妻・清渓尼からであるので、基氏が死んだ1367年(貞治6年)から「空華日工集」に太平寺長老(清渓尼)が出てくる1371年(応安4年)の間に像立という説を出している。常設で宝蔵に安置されている。

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