2006/05/05

東慶寺(2006のGW)(3)

東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。

2014年現在の東慶寺境内を概説する。


鐘楼

山門を潜って左側に茅葺屋根の鐘楼がある。現在の鐘楼は大正5年のもの。関東大震災で唯一倒れなかった建物である。梁に大震災のとき梵鐘が揺れてめり込んだ跡が残る。


 東慶寺には鎌倉時代末期に造られた梵鐘があったが今はここになく、静岡県韮山の本立寺にある。現在の梵鐘は南北朝時代の1350年に鋳造されたもので神奈川県重要文化財に指定されている。「就相陽城之海浜有富多楽之寺院」「観応元年」と刻印されており、材木座の補陀落寺のものであったことが判る。それが何故ここにあるかだが「玉舟和尚鎌倉記」や、水戸光圀が編纂させた「新編鎌倉志」には、東慶寺の寺領であった二階堂永安寺跡より農民が掘り出したという。同様の記述は「新編相模国風土記稿」にもある。

 

永安寺(ようあんじ:廃寺)は、瑞泉寺門前右側の谷戸にあった足利氏満の菩提寺であり、足利持氏が永享の乱のときこの寺に幽閉され、更に攻められて自害し寺は焼けたと伝える。それらの事から足利氏満が没した1398年(応永5年)12月以降、菩提寺として建てられた永安寺に補陀落寺から移されたと推測されるが定かではない。

 

書院

山門を潜り、鐘楼を通り過ぎた右側に書院の中門があり、その中の大きな建物が書院である。以前は1634年(寛永11年)の徳川忠長屋敷から移築された建物であったが、関東大震災で倒壊する。倒壊直後の写真では屋根は茅葺であったが、他の国宝・重文建造物の例から移築当初は檜皮葺であった可能性がある。現在の書院は二階堂の山林を売った資金で、以前とほぼ同じ間取りで大正末に再建されたものである。広さは60余坪。

 

以下中世の建築用語を用いるが、玄関を上がった「中門廊」は2つの出入り口を持ち、その先北側に「公卿の間」がある。その西側、「広庇」(縁)沿いに「次ぎの間」「上座の間」が繋がる。上座の間の天井は今は十六菊花紋の格子天井であり、以前は菊・桐の紋であったという。その「上座の間」に向かって左側にお殿様(徳川忠長)が太刀持ちの小姓を従えて座っていてもおかしくない「上段の間」がある。

 

「広庇」に相当する南側と西側の廊下は、倒壊前は雨戸だったというが、今は僅かに波打つ大正ガラスのガラス戸が入っている。書院から本堂、更に水月堂へと渡り廊下で繋がっている。東慶寺では様々な文化的イベントを行っているが、講演会はこの書院を用いることが多い。

 

本堂

書院の門の先の同じ右側の中門の奥が本堂である。明治時代の東慶寺には1634年(寛永11年)に千姫が寄進した仏殿が現在の菖蒲畑の奥の板碑のあたりに残っていたが、明治維新で寺領を失い修理も出来ずに荒れ果て、雨の日には「本堂の雨漏りがひどくて、傘をさしてお経を読んだ」という状態であった。その仏殿は1907年(明治40年)に三溪園に移築されたが、西和夫は「おそらく仏殿は維持が難しかったのであろう」と推察する。

 

その頃、中門(現在の山門)の石段の右に聖観音菩薩像を安置していた観音堂・泰平殿があり、後にこれを現在の白蓮舎の前、菖蒲畑のあたりに移築して本堂とする。しかし、これも1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊する。このとき本尊両立の文殊・普賢も消失している。

 

現在の本堂はその後、1935年(昭和10年)に建てられたものである。本尊は釈迦如来座像。寄木造の玉眼入りで、仏頭内側に墨書修理銘がある。それによって1515(永正12年)に火災があり、かろうじてこの本尊を取出したもののほとんど焼失したらしいことが判った。

 

水月堂

本堂にほぼ接した左側が水月堂である。元は加賀前田家の持仏堂であったが、1959年(昭和34年)にこちらに移築し、水月観音菩薩半跏像を安置する。水月堂とはその水月観音菩薩像からである。この水月堂が出来るまでは水月観音菩薩像は鶴岡八幡宮境内の鎌倉国宝館に寄託されていた。この持仏堂の仏壇は元々丸窓であったが、水月観音の大きさにちょうどピッタリであった。水月堂の前には作家の田村俊子や湯浅芳子の仲間であった山原鶴(号宗雲)の茶室松寿庵があり、本堂前から扁額が見える。

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