2006/05/21

ワーグナー オペラ『リエンツィ』序曲

 


『天才と狂人は紙一重』などと良く言われるように、天才的な芸術家には常人のモノサシで計る常軌を遥かに飛び越えるような生き様を演じて見せてくれる方々が、少なくない。Classic界も、ご多分に漏れず超の字の付くような個性派揃いだが、さしずめワーグナーなどは代表格といえるだろう。

 

無名時代の若い頃から「飲む・打つ・買う」の三拍子揃った遊び人だったワーグナーは、借金を重ねては債権者から逃れるために、夜逃げを繰り返した。夜逃げと言っても国外逃亡だから、普通のそれとは遥かにスケールが違う。荒れた生活は、既に大学生の頃から始まっていたようで、最初に創作した交響曲がまったく認められなかった事に大いに憤激し

 

「この曲の真価がわからないドイツ人は、レベルが低い田舎者揃いだ!」

 

とウィーンへ移り、その後は10年以上も各地を転々とし続けた末、パリへと流れていった。

 

そのパリでは、革命に巻き込まれ(参加して?)当局者から追われる身となり、次にはスイスへ亡命する。その間、繰り返し恋愛を重ねたながらヴェネツィアへ駆け落ちなどもし、再びスイスに戻って各地を流離っているうちに、当時「音楽の帝王」として楽壇に絶大な影響力を持っていたリストの力添えを得て、ようやく世間から認められる事になった。

 

『リエンツィ』(Rienzi)は、ワーグナーが1840年に作曲した全5幕のオペラ。『リエンチ』とも表記される。正式なタイトルは「リエンツィ 最後の護民官 Rienzi, der letzte der Tribunen

 

台本は、作曲者本人の手による。リエンツィは、14世紀のローマに実在した政治家コーラ・ディ・リエンツォ(またはリエンツィ)のことである。ワーグナーは台本を書くにあたって史実を改変し、リエンツィが民衆の支持を得て政権を手にしたものの、やがて当の民衆から反逆され彼らによって殺される物語にした。

 

作曲当時のワーグナーは、パリで金銭的に不遇な生活を送っていたが、この作品の初演が成功したことで本格的にオペラ作曲家としての道を歩みはじめる。初演は18421020日、ドレスデンのゼンパー・オーパーにおいてである。これによって、作曲者はドレスデンのオペラ総監督に就任した。

 

バイロイト音楽祭の演目に入っていないこともあり「さまよえるオランダ人」以降と比べて、知名度や演奏頻度において下回っている。

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