2019/07/22

プラトン(6) ~ ソクラテスとの出会い




  「ソクラテスとの出会いからその死まで」の八年間(20歳から28歳)から見ていきましょう。この時期は、ギリシャを二分した内乱ペロポネソス戦争において「祖国アテナイの敗戦」、プラトンの「身内がリーダーの一人であった三十人会の暴政」「ソクラテスの裁判と死」という、プラトンにとって身も心もずたずたにするようなショッキングな出来事が相次ぐ時期でした。

 その敗戦に至る以前、伝えられるところが真実なら、プラトンはすでにペロポネソス戦争が始まっているのに「悲劇」をもって社会に登壇しようとノコノコ出かけていって、そこで始めてソクラテスに出会って話しを聞いて感動して、その悲劇の台本を火にくべたなどという伝承があるようにノホホンとしたところがありました。この時は、プラトン20歳と推定されます。

 そして、ソクラテスのもとにあって3年目、23歳の時にギリシャの内乱ペロポネソス戦争において「祖国アテナイの敗戦」という事態に直面します。政治的リーダー志望であったプラトンが、これに何らのショックも受けなかったとは考え難いです。

 シケリア遠征とかアイゴスポタモイの海戦といった、結果としてアテナイを敗北に導いた大敗においては、アテナイはパニック状態に陥っており、悲嘆の声はアテナイを充満していたと伝えられます。そして全体として見れば、この戦争はアテナイばかりかギリシャ全体を疲弊させ滅亡に導いていたのであり、ツキュディデスが伝えるように「悲惨で実りのない、愚かしく悲しみだけの戦争」だったのです。

 そしてまた、プラトンが祖国の敗戦に無念の念を持たなかったわけはないでしょう。しかし、その無念さに伴う憎悪は、相手国のスパルタに向けられたのではなく「定見も持たず右往左往して、その時その時の感情だけで動いていたアテナイの民主制」そのものに向けられたようでした。これは確かに酷いもので、たとえば全く法律を無視した「アルギヌウサイ沖の海戦における将軍一括裁判」などが為されてしまうような社会状況があり、それ以前から、つまりアテナイの指導者ペリクレスの晩年頃からのアテナイの民主制というのは「ただの烏合の衆の集まり」で民衆扇動家の扇動に右往左往し、感情のままに朝に晩にとコロコロ変わっていたのでした。

 民主制というのは、民衆一人一人に社会を担う責任感と義務感があって始めてうまく作用するのであって、その責任感が無くなった時には国を滅ぼす危険な「ただの烏合の衆」と化すのであり、プラトンはそれを目の当たりにしていたと言えます。

 さらにプラトンが体験したのが、敗戦後の社会のリーダー組織「三十人会の恐怖政治」でした。プラトン自身の書簡によると、当初プラトンはこれに期待したようですが、それはもちろん「これまでのアテナイ民主制の愚かさ・不正の横行」を見ていたことと、さらには「自分の身内のカルミデスやクリティアス」などがリーダーだったのですからです。しかし、その実態が明かになって、酷い幻滅に襲われたことが述べられています。

ただ、プラトン自身の書簡によると、自分も参加を呼びかけられて、気持ちも動いたと言っています。クリティアスかまたは叔父のカルミデスか、あるいは知人もいたといわれているのでその知人からか、いずれにせよこの三十人会はプラトンにとって非常に近いものだったのでした。プラトンの期待は、これまでの不正がまかり通る社会が是正されて正しいやり方に導いていくだろう、というものであったことが述べられていますが、プラトンにとってこれまでのアテナイの民主制というのは「不正のまかり通る社会」であったのでした。

 しかし、その三十人会は「恐怖政治」の政権となってしまいます。そのために多くの人たちが亡命したのですが、そこから当然「反三十人会の革命組織」ができて、たった一年で壊滅してしまいました。親族であったクリティアスもカルミデスも、その革命の戦闘で戦死していますので、もしプラトンが呼びかけに応じて早々と参加などしていたら、彼等とともにプラトンも死んでいたことでしょう。プラトンは「ちょっと様子を見ようと注意深く見守った」と言っていますが、その慎重さが幸いしたのでした。

 一方、私たちとしては、プラトンはソクラテスの弟子となって以降も「23~4歳の時には、まだ実際的政治活動に直接携わることに大きな魅力を感じていた」ということを確認しておくべきでしょう。

 そして再び民主制が回復したわけですが、これに対してプラトンはまたもや希望を寄せたことが述べられています。プラトンは、この当時にはまだ政治体制にかかわらず、何であれ実際的に社会が良くなることを祈願し続けていたことが分かります。ですから、この当時から彼が本質的に民主制に懐疑的であったわけではないことが分かります。

ソクラテスの民衆裁判とその刑死
 ところが、それからわずか数年、プラトン28歳になった時、この民主制はとんでもない実態を見せてくるのでした。いうまでもなく「ソクラテスの告発と、その死刑判決」でした。これにはもちろん様々な要因がありますが、少なくともソクラテスに死刑に値する社会的犯罪など何処探してもなく「告発内容は殆ど言いがかり」に近いということは、当時のアテナイ民衆にも分かっていたようでした。それは有罪無罪の票が予想外に接近していたこと、死刑判決後に民衆はどうも後悔していたらしいこと、そして死刑が執行されてしまってからは逆にソクラテスの告発者を弾劾し、またソクラテスの銅像など建てて反省の意を示したことなどの伝承によっても了解できます。

 こうして、かつての民主制もアルギヌウサイ沖の将軍一括裁判などでその問題性を見せつけ、恐怖政治を倒して復活した民主制も、またその制度の根本的問題性を露呈してきた、とプラトンは思ったことでしょう。

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