2019/07/28

プラトン(7) ~ アカデメイアの創設まで

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

政治家への道から教育者への道へ
 先にプラトンは、ソクラテスにおいて政治的活動をするにせよ何をするにせよ立派に事をなすには、その根底として「人間が立派になっていなければならない」という主張があることを知って、それに惹かれてソクラテスのもとに通うようになったのであろう、と推察しておきましたが、ここにおいて、「三十人会のごとき少数者制」はもちろん、これまでのような「民主制にも、それは期待できない」と痛感したのかもしれません。

 こうして、プラトンは実際的政治活動から身を引き、やがて一人前となってからはアカデメイアという学園を開校し、教育者となっていったと考えられます。つまり政治活動にせよ何にせよ、それ以前に「人間をつくる教育の重要性」を認知したのであろうということで、これはまた時代の要請でもあったかもしれません。というのも、これは今日の高等教育機関のはしりなのですが、類似のものはやはり同時代のプラトンのライバルともいえる弁論家イソクラテスにもあるからです。ですからプラトンは、その『国家論』において「教育の重要性」を繰り返し述べてくることになったのだと考えられます。

 その「学園アカデメイア」創設はプラトンが40歳、第一回シラクサ旅行から帰ってのこととされていますが、ソクラテスの死の年、つまりプラトン28歳の時から40歳までの時代には彼は何をしていたのでしょうか。この間、まずはソクラテスの教えを念頭にした「初期対話篇」の数々を執筆していたらしいということと、様々なところへの旅行が伝えられています。

 初期対話篇の性格ですが、いろいろ難しい問題は有りますが、取りあえずは「ソクラテスを伝える」ことが目的であったことは間違いないです。もちろん、これは「プラトンが理解し、自分のものにしたソクラテス」であることは当然です。

 とりわけ大事な著作は『弁明』と『クリトン』『パイドン』で、これはプラトンが立ち会っていた「実際にあった法廷」、そして裁判役の人々はじめ、まだそれに立ち会った当時多くの人たちが存命の間に書かれている「見聞録的な性格」を持っているので、脚色があったとしても極端に外れてはいないだろうと推定できます。ここでの「ソクラテスのありかた・精神」が他の初期プラトン対話編にもそのままみえるので、初期対話編は全体として「ソクラテス哲学の記録」と理解されるわけでした。

 その合間を縫って、プラトンは旅行をしていたと伝えられます。伝えられるところでは南イタリアから北アフリカ、エジプトなども含まれており、そしてまた実際プラトンの著作からもそうした各地を訪れていたらしい痕跡を探すこともできます。こうしてプラトンはこの時期、師ソクラテスから死に別れて独り立ちした自分を形成していく作業を、様々にしていたということが伺われます。

アカデメイアの創設
 こうして帰国後、プラトンはアテナイ郊外の「アカデメイア」に自分の学園を開くことになったのでした。この背景にプラトンの「現実政治に対する絶望」があったろうということは先にも指摘しておきました。この政治に対する絶望については、彼の書簡の至るところに確認できます。そして第七書簡にはっきりと言われてくるように「国家のことも個人のことも、それらの正しいあり方はフィロソフィア=愛知・哲学(良く生きることについての知の愛し求め)から以外に見極めることはできない」という結論にいたったわけなのでした。再三指摘しておきましたが、これがプラトンの哲学に対する根本的態度であったということです。

 通常私たちは「政治と哲学は相容れない」と考えています。政治は正・不正よりも「損得に基づく現実処理」に尽き、哲学は現実よりも「真実・本質」を求め「正・不正を問題にする」からです。ソクラテス自身にそうした見解があり、その立場からソクラテスは現実的な政治活動への忌避を述べていました。しかしプラトンは違っていました。彼は若い頃、現実政治の世界に飛び込もうとしていて、ソクラテスの弟子になってもその思いは変わらず、そして政治に絶望しても、なおかつ理想の政治を追い続け、それ故に革命を志すディオンに思いを託したりしていたのでした。これが、おそらくソクラテスや他の弟子たちとプラトンを分ける「プラトンの最大の特徴」と言えるでしょう。

 ともあれ、こうしてプラトンはアカデメイアにあって教育と学究の生活に入ったのでしたが、これはプラトンにとっては、ソクラテス的な意味での「良く生きる」という人間のあり方の実現でもあったでしょう。こうなってからの、つまり40歳から60歳までの20年ほどのプラトンの姿はあまり定かではありません。おそらく静かな学究と教育に専念していたのでしょう。そして多分、あの膨大な『国家』を執筆していたのではないかと推察されるくらいです。

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