2019/07/10

張良(5)

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成信侯編

項羽が斉討伐を行っている時に、義帝(楚の懐王)を殺害した項羽を覇王とする楚の非をならし、不満を持っていた諸侯を率いて項羽の本拠地である彭城を落とした劉邦だったが、斉から引き返してきた項羽は強く、よく打ち破られた。

 

劉邦は再編の為に、東方を放棄し、そこを第三者に棄て与えようとして、張良に人選を尋ねた。張良は楚の黥布(英布)を裏切らせる事と、梁の彭越の名を挙げた。さらに漢では韓信のみが当たる事が出来るとし、この三人に彼の地を与えるべきと答えた。こうして彼らをもって、燕、代、斉、趙の地を経略させた。

 

張良は生来病弱な身で将軍となったことがなく、常に参謀として時折劉邦に従軍しただけであった。

 

だがやはり楚は強く、滎陽において劉邦は項羽に城を包囲され、焦った劉邦は酈食其の策を採り入れる。それは滅ばされた六国を再興させて、漢の威信を高める事であった。

 

その気になりかけた劉邦は印を造り、彼に授けた。所用から戻ってきた張良は、この話を聞くと劉邦に七つの問いかけをした。かいつまめば、六国を再興させて御しきれる実力と徳を備えているのでしょうか、と。劉邦は自信がないを七連発し、酈食其を呼び戻し、印を回収すると壊したのであった。

 

韓信は斉の経略に成功し、自身を仮王に封じて斉の安定を図るべきだと伝えた。使者に対し劉邦は怒ったが、楚打倒には韓信の力が不可欠であると考えた張良と陳平は劉邦の足を踏みつけて、これを認めさせた。張良は使者として韓信のもとへ赴き、斉王を授ける使いとなった。

 

楚漢戦争は、約五年間行われるものの決着は容易に着かず、両雄の疲弊を招き、やがて和平が結ばれた。東を楚、西を漢の領土にして、天下を中分するというものである。

これを容れた項羽は、楚軍を率いて帰還し始めるが、張良と陳平はその背後を騙し撃つ事を献策した。項楚の強さは、尋常ではない。和平を受け入れる程に弱っている今が天の機会だと。

 

しかし、追撃した漢軍は楚軍の逆撃を被る。当初、連合を約束した韓信と彭越の両軍が来なかったからである。

 

次善を問うた劉邦に、張良は東を韓信に、北を彭越に気前良く分封してしまう事を提言。これが当たり、韓信と彭越を始めとして各地でも反楚の出師が起り、遂に項羽は垓下に大敗し、楚は滅びてしまった。

 

留侯編

楚を滅ぼし、漢王から漢皇帝となった劉邦は、功臣の褒賞に取り掛かった。

 

張良には、野戦の功績はないが、帷幄の謀を巡らし、勝利を千里の外に決したとして、斉の三万戸を好きに選べと下賜した。しかし張良は、天命が劉邦に味方して張良を劉邦に授けたものであり、またたまたま劉邦が採用してくれた策略が当たったのは運が良かっただけだとして、劉邦と出会った留の地を貰えれば十分だと返答した。

 

こうして、同じく三傑と呼ばれる蕭何と同時に留侯に封じられた。それでも張良の所領は一万戸であり、トップの曹参より600戸少ないだけであった。

 

第一次の分封は済んだものの、大功臣級の二十人余が封じられたのに過ぎず、未だ恩賞に与れぬ者達の間に不穏が起ち込め始める。彼らは徒党を組んで、劉邦の膝元でも憚る事なく、密談に勤しんだ。これを察知した張良は、反乱が起きかねない事を忠告する。

 

驚く劉邦に、最も憎んでいる功臣を表彰して、彼らの不安を宥める事を献策した。功績もあるが、劉邦が憎んでいる事を群臣が知る雍歯が顕彰されて、人々は胸を撫で下ろした。

 

漢の帝都を決めるべく左右の臣の間で、洛陽か長安かで議論が起った。張良は長安を金城千里、天府の国として推した、劉邦は長安を都に定める。

 

多病であった張良は、道家の導引(健康養生法)に従い、穀物を食べないようにして、門を閉ざして外出しないようにした。

 

天下は定まったとはいえ暫定的で、特に楚の韓信、梁の彭越、淮南の英布は王と将の力を備えている上に、劉邦との繋がりは利害で繋ぎ止められたものであり弱い。劉邦も次第に老い、二世皇帝の話題が朝廷に上る事も多くなってきた。候補者は、皇后・呂雉の生まれの皇太子劉盈と、側室・戚夫人の生まれの劉如意の二皇子である。戚夫人に対する劉邦の寵愛は深く、劉如意は恩恵を存分に与った。また、皇太子は嫡子ながらも、如意に比べて惰弱と映り、劉邦は本気で廃嫡を考え始めていた。

 

皇太子の母である呂皇后(呂雉、りょち)は危惧を抱いて、張良に入れ知恵を求めた。

最初は、臣が百人居てもどうにもならないと断ったが、性急に責められたので、やむを得ずひとつの策を献じた。かつて劉邦が招いたものの、逃げられてしまった四人の老賢人を皇太子の下に招くという内容である。招かれた老賢人達は皇太子の参謀となり、この時、反乱を起こしていた黥布を鎮圧する司令官を受けるべきでない等、有用な言を授けて皇太子の身辺を固めた。

 

少傅編

皇太子の代わりに黥布を撃つ事となった劉邦に、病身であった張良は無理に劉邦に会見して、皇太子の関中を監督させる事を説いた。劉邦は、彼を太子の少傅に任じた。

 

黥布を討った劉邦であったが戦傷を負い、次世代の事を確実にせんとして、太子の取換えを行おうとした。しかし、ある時、宴で太子の側に控える老賢人たちを見出し、彼らが太子の徳を讃えた為、廃嫡を断念した。皇太子は後の恵帝となる。

 

陳豨の反乱に対しても、張良は劉邦に従い代や馬邑を討ち、その時に奇策を立てた。

後も劉邦の側に控え、蕭何を相国に立てるなど、天下の大事について劉邦に甚だ多くの進言を行ったが、存亡に至る事ではなかったので記録されていないと史記に記されている。張良が行った進言や策略、計略は司馬遷の時代に残っているものだけでも、史記に記載されるものが全てでもない。

 

仙人編

張良は

 

「舌先だけで万戸の領有を封じられ列侯となり、庶民として俗世での栄達を極めた今では、俗事から離れて赤松子(仙人)に従って遊びたいと思うだけだ」

 

と自ら語り、穀物を食べず導引の術を行い続け、仙人の道に足を踏み入れかける。だが劉邦も崩御し、張良に恩義を感じていた呂皇后は強いて食事をとらせた。やむを得ず、張良は食事をとり、九年後に没する。諡は文成侯。

 

享年は不明だが、韓の滅亡時が父の死後20年で、その年紀元前230年に20才とすれば没年186年で64才となり、これが最年少のラインとなる。

 

弟がいたので、享年は64才以上と推測される

 

後日談

留侯は、子の張不疑が継いだ、後に不敬の罪を犯し、国は除かれた。末子に張辟彊があり、侍中に登っている。以後、蜀漢まで史書に名を残した子孫が数名、確認される。

韓の再興はならなかったが、司徒時代に韓の傍系の王族である韓王信(漢の韓信とは別人)を将軍に引き立てている。後に韓王信は漢の将として活躍するものの、匈奴に降って裏切り敗北の後に斬られる。

 

友人の項伯は功績もあって厚く遇され、射陽侯に封じられて劉姓を賜った。張良より六年前に逝去した。

 

番外怪異編

始皇帝暗殺未遂事件後の逃亡者生活の中、ある時、一人の老父に出会ったという。最初は老父の傍若無人な態度を腹に据えかねるも考え直し、腹を据えて付き合い老父の歓心を得る。老父は済北の黄石の化身と名乗り、張良に太公望の兵書を授け、十三年後にまた会おうと言った。

 

果たして十三年後、斉北の地で黄石を発見し持ち帰り、家宝として祀った。黄石は張良が死んだ際に併せて葬られ、六月と十二月の塚祭りの日に祀られた。

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