2019/07/15

韓信(4)

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韓信とは、古代中国の天才的な軍略の才能を有した元無職名将である。生年は不詳、紀元前196年没。麻雀の役となった「国士無双」の語源となった人物である。後世の中国においても、名将の代名詞ともなった。

 

ちなみに同時代の人物に、戦国時代の韓の王族だった韓信という人物がいる。史記では本項の韓信の「淮陰侯列伝」のすぐ後に「韓信盧綰列伝」で列伝が立てられているのでややこしいが、区別のため後者は韓王信とも姫信とも呼ばれている。

 

韓信の股くぐり

淮陰(江蘇省淮安市)の出身。淮陰は戦国時代後期に楚の領土であった場所であり、韓信は楚の風俗に慣れ親しんではいたが、楚人としての意識は薄かったと考えられる。

 

平民出身で貧乏かつ品行も悪かったため、人に食事を恵んでもらい生活していた。ある亭長の元に居候していたが、数か月して亭長の妻が韓信を嫌い、ろくに食事を出してくれなくなった。そのため出奔し放浪した後に、見かねた老婆に数十日食事を恵まれたが、韓信が「偉くなったら礼をしますよ」と言うと「あんたが可哀想だから恵んでやっただけで、礼なんて望んでいない」と返された。後に偉くなるなんて、到底見えなかったのだろう。

 

ある日、街の不良に

「お前は背が高く立派な剣を帯びているが臆病者に違いない。もしお前が度胸があるなら俺を刺してみろ。そうでなければ俺の股をくぐれ。」

と挑発された。韓信は熟視した後、その不良の股をくぐった。見ていた者は大いに笑った。

 

国士無双

秦の始皇帝の死後に大動乱の世になると、韓信は項梁に仕えるが名前が知られるほどの働きはなかった。項梁の戦死後、そのまま項羽の軍に仕え、郎中に任じられる。韓信はたびたび項羽に献策したが、その策は用いられることはなかった。

 

韓信は項羽を見限り、漢中に左遷され漢王に封じられていた劉邦に仕える。しかし劉邦の元でも接待役程度しか与えられず、ある時罪を犯して仲間と一緒に斬られる事になった。仲間が処刑されていき、ついに韓信の番となった時に

「漢王は天下に大業を成すことを望まぬのか、どうして壮士を斬ろうとするのか」

と叫んだ所を劉邦配下の夏侯嬰が興味を示し、彼を助命して劉邦に推薦した。

 

韓信は治粟都尉(兵站官)にはなったが、この役で飽きたらない韓信は劉邦の片腕だった蕭何と話す。蕭何は韓信の才を認め劉邦に推薦するが、劉邦はそれでも韓信を重用しない。

 

そのうちに劉邦のもとでは重用されることはないと感じた韓信は、劉邦の元を抜け出す。これを知った蕭何は、劉邦に無断で韓信を追いかけて連れ戻す。劉邦は蕭何までもが逃亡したと聞いて絶望したが、やがて韓信と一緒に戻ってきたと聞いて安堵した。横山光輝『項羽と劉邦』の「んもう…わしをこんなに心配させおって…」の迷…名シーンである。

 

劉邦が「他の将軍が逃げた時は追わなかったのに、なぜ韓信だけ」と問い詰めると、蕭何は「韓信は『国士無双』であり、漢王様が天下に覇を争うのに必要である」と力説し、ここへ来て劉邦は韓信を全軍の大将に任じた。早速、韓信は劉邦に天下を手に入れるための方策を述べ、劉邦と項羽の人物を対比し、項羽の人物に欠点があり、天下を争うものとして劉邦の方が優れており、項羽と逆のことを行うように説明した。また、元は秦の将軍であった章邯たちが治める三秦(関中の地)では、劉邦が慕われている反面、章邯たちが憎まれており、簡単に平定できることを説明する。機を伺っていた劉邦は、ついに項羽に対して挙兵した。

 

楚漢戦争勃発

劉邦は漢中から陳倉に出撃して、三秦を平定した。この時の韓信の役割は不明だが、劉邦の参謀の役割を果たしていたと考える研究者も存在する。また三国時代の魏延が北伐の際に、韓信の故事を見習って別動隊を率いて北伐に向かうことを諸葛亮に求めていることから、韓信は別動隊を率いて三秦を攻めたことも考えられる。

 

劉邦軍の快進撃は続き、魏・韓・殷を降伏させ、斉と趙とも同盟を組んだ。しかし、項羽の本拠地である彭城(江蘇省徐州市)を落とした所を、斉の地から急いで帰還した項羽に逆襲され、一敗地にまみれる。この時、韓信が彭城にいたかどうか、また漢軍を率いて敗れたかどうかについては定かではない。

 

韓信は劉邦の敗軍をまとめ、劉邦の撤退を手助けした。また、京・索の地において項羽の楚軍を打ち破り、これ以上、西に進むことを食い止める。

 

この敗北によって、魏は漢(劉邦)に背き自立する。また、趙と斉も漢に背いて楚(項羽)と講和した。

 

魏侵攻戦

韓信は漢の左丞相に任命された上で、劉邦に魏の攻撃を命じられる。これは劉邦が項羽と対峙している隙に、韓信は別働隊で周辺諸国を攻めて劉邦の味方にするという戦略であったと考えられる。韓信の部下として、歩兵を率いる曹参と騎兵を率いる灌嬰をつけられた。この二人も、劉邦軍の名だたる勇将であった。

 

魏王の魏豹は、川の渡し場をふさいで防衛した。韓信は、囮の大軍を出して船を並べて河を渡るように見せかけて、伏兵をひそかに大きな木製の甕を使って河を渡らせて、本拠地を攻撃させた。韓信は魏豹を破り、捕らえてしまった。

 

さらに韓信は張耳とともに、趙と代の攻撃を劉邦に命じられる。韓信は代の軍を攻略して、趙の大臣であった夏説を捕らえる。その後、滎陽において項羽と対峙する劉邦に、魏と代の地で得た兵士たちを送っている。

 

背水の陣

続いて韓信は、張耳と数万の軍とともに趙国を攻める。ここでは、張耳とかつて「刎頸の交わり」を結び、今では宿敵となった陳余が実権を握り、20万人と号する大軍を有していた。陳余は、かつて趙王を名乗った武臣が趙を攻略した時に将軍に任命され、武臣を殺害し反乱を起こした李良を破ったことがある戦歴豊かな人物である。趙に仕えていた李左車は陳余に

「韓信たちが隘路(狭い道)に入ったところに私が3万の軍勢で補給を絶ち、あなたが打って出ずに守り抜けば、韓信を討ち取ることができます」

と進言するが、奇策を嫌う陳余は疲労した韓信の軍を正面から撃破することにし、李左車の意見を採用しなかった。韓信はこのことを知って、趙を攻めることに決めた。

 

ここで韓信はまず、騎兵二千人を選んで漢の赤い旗を持たせて

「趙軍は私が敗走したら、城を空にして私を追撃するだろう。その時に趙の城に入り、趙の旗を抜いて漢の旗を立てるように」

と言い含めて、抜け道を使って趙軍を傍観できる山に派遣した。さらに、上等な食事を武将たちに与えて「今日、趙を破って会食しよう」と言った。武将たちはみな、韓信の言葉を信じなかった。

 

また趙の大軍に対し、わざと自軍の本陣を川を背にした死地に置くという「背水の陣」を取る。趙軍はこの陣を見て、大笑いした。そんな所に陣を敷いてはいけないのは兵法の基礎だからだ。韓信と張耳は出撃すると、しばらく趙軍と戦った後に偽って撤退する。趙軍は撃滅するために本陣を空にして追撃する。本陣にまで撤退したところで、韓信は味方と合流してまた戦う。

 

逃げ場のない漢軍は決死の覚悟で戦い、すぐに勝てると思っていた趙軍は一旦撤退しようとした。ところが、その時すでに漢軍の騎兵が趙軍の城を奪い取り、城壁にあった趙の旗を抜いて漢の旗を立てていた。趙軍は城が陥落し、趙王や陳余たちが捕らえられたものと考え、逃走をはじめた。韓信は本陣と城から挟み撃ちにして、趙軍を破り趙王と李左車を捕らえ陳余を討ち取った(井陘の戦い)

 

そこで、韓信は捕らえた李左車を師とあおいだ。また、武将たちに兵法に反した背水の陣は市井の人間たちを集めただけの兵士たちを死地に置かせて、逃亡しないようにするための意図であったことを説明した。

 

李左車の進言により、燕国は攻めずに使者を送って服従させる。また、張耳を趙王とすることと趙国内を平定する許可を劉邦から得た。張耳は趙王となり、韓信は楚軍と戦いながら趙国内を平定して、劉邦にたびたび援軍を送った。

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