2019/07/24

衛氏朝鮮

衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、その実在について論争のない朝鮮半島の最初の国家である。中国の燕に出自を持つ中国人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が、今の朝鮮半島北部に建国した

国名
衛氏朝鮮」という名は後世、箕子朝鮮や李氏朝鮮と区別するための便宜上の名である。『史記』は単に「朝鮮」とよぶが、この名も当時すでに国名が不明になっていたので司馬遷が地名を借りて表現したまでで、彼らが自称した国名ではない。

三代続いたというが、二代目の王の名は不明である。初代の衛満も最後の衛右渠も、「」という姓は後世になってからの情報で、『史記』には単に「満」「右渠」としかない。衛氏朝鮮の他の貴族たちの場合は姓名がはっきりしているので、これらは名ではなく官職名とも考えられる。『史記』の年表では右渠の息子の長(衛長降)を「張路」としており、これが正しければ王家の姓は衛氏ではなく張氏だったことになる。

官制
衛氏朝鮮の国家組織は、中国前漢の制度を元にしてある程度整っていたらしく、朝鮮王のもとに「稗王」「太子」がおり、「大夫」「大臣」「相」「将軍」が合議して国家運営にあたり、「博士」なども任命された。「相」の中には「朝鮮相」と「尼谿相」がいたので他の「相」も「○○相」の略称と思われる。合議メンバー4人組の朝鮮相路人、朝鮮相韓陰、尼谿相参、将軍王4人の素性から、路人と韓陰は「朝鮮相」で、王は朝鮮の将軍であり、政治と軍事を分担していた。韓陰と王は、王・韓の姓氏から、中国からの亡命者或いは中国からの亡命者ゆかりの人物であり、路人も中国からの亡命者或いは中国からの亡命者ゆかりの人物だった。参は、1人だけ姓氏を持たず、「朝鮮相」ではなく、在地の根拠地の尼谿の「相」であり、衛氏朝鮮はこれら含みながら、緩やかに連携した連合国家だった。

前史
朝鮮半島では、中国から朝鮮半島西岸を経由して日本列島へ到る交易路沿いに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた。紀元前334年の段階で燕はすでに「朝鮮」(朝鮮半島北部)を領有していた。紀元前284年、燕は自国内に郡制を設け上谷から遼東までを5郡とし、東胡を防ぐためその北に東西二千里の長城を築いたが、『史記』によれば、この頃(燕の全盛期)、朝鮮は燕の配下に入った(朝鮮と真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地には砦を築き官吏を駐在させた)。また、中国商人の権益を保護していた。

秦代(燕が秦に滅ぼされて後)は秦の属領となり、燕の時代に築かれた朝鮮・真番の砦は二つだけ残して廃されたが、遼東郡の保護下にあった。秦末(紀元前209年)、陳勝呉広の乱が起こると中国全土は大混乱となり、燕国は韓広を王として再び独立を成し遂げた。

紀元前206年、秦が滅ぶと、天下の覇権を握った項羽によって臧荼が燕王に立てられ韓広は遼東王に左遷された。ここで燕は遼河を挟んで東西二つの国に分かれたことになる。その年の内に臧荼は韓広を攻め、遼東を併合して燕全体の王となった。

建国
『史記』によれば、前漢の高祖の時代の紀元前202年、燕王臧荼は反乱を起こして処刑され、代わって盧綰を燕王に封じたが、紀元前197年に盧綰が漢に背いて匈奴に亡命すると、劉建を形式的な燕王に封じたが、実態は遼東郡を含む燕の旧領を直轄化した。その際、身の危険が迫った燕人の衛満は身なりを現地風にかえて浿水(現在の鴨緑江)を渡河、千人余りの徒党と共に朝鮮に亡命した。さっそく衛満は、我ら亡命者が朝鮮を護ると箕子朝鮮王の準王に取り入り、朝鮮西部に亡命者コロニーを造った。

秦・漢の混乱期以来、この亡命者コロニーに逃げこんだ中国人は数万人にのぼっていた。さらに衛満は燕・斉・趙からの亡命者を誘い入れ、亡命者コロニーの指導者となり朝鮮を乗っ取る機会を虎視眈々とうかがい、ある時、衛満は芝居をうった。

前漢が攻めてきたと詐称して、準王を護るという口実で王都に乗りこんだのである。その時、準王は衛満に応戦したが、『魏略』は、「準は満と戦ったが、勝負にならなかった」と戦況を記した。芝居が現実となり、昨日の亡命者は今日の朝鮮王となる。それは、亡命してから朝鮮王になるまで1年内外の出来事である。衛満は中国人(燕・斉の亡命者)と原住民の連合政権を樹立、王険城(平壌)を首都として王位に就き、衛満朝鮮を建国した。『三国志』『魏略』及び『後漢書』によると、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていた(箕子朝鮮)が、後に朝鮮王を僭称するようになり、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われ、箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略し、そこで韓王となった

全盛
漢の遼東大守は、皇帝の裁可を得てこの政権を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり、財物と兵器を蓄えて強大化した。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方を含み、数千里四方に及んだ。

滅亡
3伝して孫の衛右渠に至る。漢は、衛右渠が一度も呼び出しに応じない、周辺諸国を規制していることを詰問したが、それでも衛右渠は漢の意に従わず、武帝は朝鮮を帰服させるために、紀元前109-紀元前108年遠征を行う。しかし、実は武帝が朝鮮に遠征したのは匈奴を牽制するためともいわれ、前漢が衛氏朝鮮を滅ぼした時、これを「匈奴の左臂を断った」とする評があり、杉山正明は、漢の武帝が衛氏朝鮮を征服した理由として、衛氏朝鮮が漢より匈奴の支配下にあり、その傍証として匈奴の「左賢王」「右賢王」用語が5世紀の百済においてもなお使用されている事実を挙げている。

漢が朝鮮へ侵攻してくると、合議メンバーの朝鮮相路人、朝鮮相韓陰、尼谿相参、将軍王4人うち亡命者或いは亡命者ゆかりの人物の路人、韓陰、王は衛右渠を残したまま降伏した。参だけは抗戦するが、翌年衛右渠を刺客に殺させ、降伏した。衛右渠殺害後も大臣らが抗戦していたが、前漢は、すでに降伏していた衛右渠の子の衛長降と路人の子の最を差し向け、大臣を殺して降伏させた。衛氏朝鮮は滅ぼされ、故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ漢の領土となった。

『史記』朝鮮伝は、「遂に朝鮮を定め、四郡と為す」と記した。『史記』孝武本紀には、「朝鮮を伐つ」とある。
出典 Wikipedia

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