2019/07/07

張良(3)

 天下統一後

遂に項羽を滅ぼした劉邦は皇帝に即位し(高祖)、臣下に対して恩賞を分配し始めた。張良は野戦の功績は一度もなかったが

 

「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」

 

と高祖に言わしめ、3万戸を領地として斉の国内の好きな所に選べといわれた。

 

しかし、張良は辞退して

 

「私は、かつて陛下と初めてお会いした留をいただければ、それで充分です」

 

と答え、留に封ぜられ、留侯となった。

 

高祖は功績が多大な家臣を先に褒賞し、後の者はそれから決めようとしていた。ところが広い庭のあちらこちらで家臣らが数人集まって密談をしているところを目撃した。高祖が張良に彼らは何を話しているのかと聞いたところ、張良は

 

「彼らは謀反を起こす相談をしているのです」

 

と答えた。

 

驚いた高祖が理由を問うと

 

「今までに褒賞された人は、蕭何や曹参など陛下の親しい人ばかりです。天下の土地全てでも彼ら全てに与えるだけはなく、彼らも忠義などではなく恩賞を求めて仕えてきたのです。彼らは陛下に誅殺されるのではないかと恐れ、ならば謀反を起こそうかと密談しているのです」

 

と答えた。

 

高祖が対策を問うと、張良は

 

「功績はあるが陛下が一番憎んでおり、それを皆が知っているのは誰ですか」

 

と聞いた。

 

高祖は

 

「雍歯だ。昔に裏切られ大いに苦しませられ、殺したいほど憎い。それを知らぬものは、天下広しといえど居ないだろう(だが功績があるから我慢している)」

 

と答えた。

 

張良は

 

「ならば雍歯に先に恩賞を与えれば、皆は安心しましょう」

 

と進言した。

 

高祖がそれを受けて宴会を開き、その場で

 

「雍歯よ。その功績に報いるため、お前を什方候に封じる」

 

と恩賞を発表すると、皆は

 

「あの陛下に憎まれている雍歯ですら賞されたのだから、自分は心配する必要も無い」

 

と安堵し、あちこちの密談はぴたりと止んだ。

 

洛陽を都にしようとしていた高祖に対し、劉敬(婁敬)が長安を都とするよう進言した際には、張良も洛陽の短所(周囲が開けているため、攻められやすく守り難い)と長安の利点(天険に囲まれ防衛が容易)を述べて劉敬に賛成し、長安に決定させた。

 

神仙術

張良は元々病弱であったが、体制が確立されて以後は病気と称して家に籠るようになった。その中で導引術の研究に取り組み、穀物を絶って特殊な呼吸法で体を軽くし、神仙になろうとした。

 

しかし、高祖の死期が近づくと、劉邦の愛妾・戚氏がその子・劉如意を皇太子にしようと画策し始める。劉邦もその気になったため、既に皇太子に立てられていた劉盈(後の恵帝)とその母・呂雉は危機感を抱いて、長兄の呂沢を留に派遣させて、張良に助言を求めてきた。

 

張良の助言を聞いた呂沢は妹に報告した結果、高祖がたびたび招聘に失敗した高名な学者たち、東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公を劉盈の師として招くように助言し、これらの学者たちは劉盈の師となった。

 

高祖は、たびたび招聘しても応じなかった彼らが劉盈の後ろに居ることに驚き、何故か聞いた。彼らは

 

「陛下は礼を欠いており、我らは辱めを避けるため応じませんでした。ですが、皇太子殿下は徳も礼も備えており、人民も慕っているとのこと。なので参内したのです」

 

と言った。

 

高祖は劉盈を改めて認め、皇太子の更迭は取り止められた。

 

呂雉は張良に恩義を感じており、特殊な呼吸法で体を軽くしようとしていることを聞いて

 

「人生は一回しかなく、短く儚いものなのです。なぜ留侯(張良)は、ご自身を苦しめられるのですか?

 

と述べて、張良に無理してでも食事を摂らせたので、張良は仕方なく呂雉の言うとおりに食事を摂った。

 

高祖の死の9年後の紀元前186年に死去し、文成侯と諡された。子の張不疑が後を継いだ。

 

末裔

死後、子の不疑が留侯の地位を継いだ。張不疑は紀元前175年に不敬罪で侯を免じられ、領地を没収された。その後、『漢書』「高恵高后文功臣表」によると、張良の玄孫の子である張千秋が、宣帝時代に賦役免除の特権を賜った。

 

また『後漢書』「文苑伝」によると、張良の後裔に文人の張超が出た。このほか、益州の人で、後漢の司空張晧、その子で広陵太守の張綱、その曾孫で蜀の車騎将軍の張翼らが張良の子孫を称している(『後漢書』張晧伝・『三国志』張翼伝)。

 

評価

張良の容姿は、司馬遷曰く「婦人好女の如し」だと言う。その頭脳から出る策は軍事に留まらず、劉邦の事績のほぼ全ての領域にわたっており

 

「張良がいなかったら、劉邦は天下を取れなかった」

 

というのは衆目の一致するところといえる。韓信・蕭何においても同じことが言え、これら英傑を使いこなしたことが、自身の言う通り劉邦の偉大さと言える。家臣の偉大さが主君の偉大さを照らし、主君の偉大さが家臣の偉大さを照らすこの関係を、後世の人々は君臣関係の理想として、たびたび引き合いに出した。

 

また最高の知略の臣、王佐の才という代名詞としても度々使われており、特に三国時代の曹操が荀彧を「我が子房が来た」と喜んで迎えたのが有名である。

 

張良の優れた軍師ぶりは日本にも伝わっており、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した黒田官兵衛は、2代将軍徳川秀忠をして「今世の張良なるべし」と評され、当時からもその才覚が評価されていたことが伺える。

 

江戸時代を通じて張良の名前は庶民にも知られるようになり、円山応挙や歌川国芳、月岡芳年などによって多くの肖像画が画題として描かれるようになった。

出典 Wikipedia

0 件のコメント:

コメントを投稿