2019/07/18

戦術 ~ 韓信(6)

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逸話

韓信が楚王になった時、若い頃食事を恵んでくれた老婆に対し千金を与えた。また彼を股くぐりさせた不良に対しては中尉(警察署長)に任じ、あの時我慢したから今の自分があると言った。しかし、最初に面倒は見たが食事を出さず韓信を追い出した亭長に対しては百銭しか与えず、世話をするなら最後までしろとなじった。

 

『史記』の作者、司馬遷が淮陰を訪れた時に、土地の人から韓信の母が死んだ時、当時貧乏だった韓信は葬式もできなかったが、その母の墓は何万戸も墓守の家を置けるような開けた場所に作ったと聞き、果たしてその通りだったと書いている。

 

また、劉邦自身も

「陣中で策略をめぐらし、千里の外に勝利を得ることでは、わしは子房(張良)に及ばない。国家を静めて民を安んじ、糧食を補給して糧道を断たないことは、蕭何には及ばない。百万の軍を連ねて、必ず戦いに勝つことでは韓信に及ばない。三者はみな優れた人物であり、わしが彼らをよく用いたのが天下を取った理由である」

と張良・蕭何とともに、その功績を高く評価している。

 

死後の評価

『史記』を記した司馬遷は、韓信の淮陰侯列伝では韓信を全体として褒め称えているが、評論においては

「韓信が道理を学び、自分の能力と手柄を自慢しなかったなら理想に近いことを実現したであろうに、そういった努力をせず謀反を図ったのだから、一族滅亡となったのは当然である」

と厳しく評している。

 

また『資治通鑑』を記した司馬光は、司馬遷の意見に賛同しながらも

「漢が天下をとった原因のほとんどが韓信の功績である。韓信が斉王の時、楚王の時、反逆の心などはなかった。しかし、淮陰侯に落とされてからは反逆を図ったのだ。韓信は劉邦には自分に対する利益を与えることを求め、かつ広い心で自分に対するように求めたのだ。これでは生き残るのは難しいだろう」

と評している。

 

しかし、韓信は謀反人とされ、一族が滅亡させられたにも関わらず、後世では蕭何・張良と共に漢の創業に最も功績のある漢の三傑の一人として呼ばれるようになる。

 

唐代には、武成王廟(太公望)の名将十哲の一人に選ばれている。十哲は左側に白起、韓信、諸葛亮、李靖、李勣、右側に張良、田穣苴、孫武、呉起、楽毅であり、兵法家としての性格の強い人物を除けば、白起・李靖・李勣・楽毅という名だたる名将たちと同等であると評されている。

 

その後においても、元代の戯曲や小説では韓信は無実の罪で殺されたことになっており、三国志平話では韓信は無実の罪により殺されたことに対する訴えが認められ、曹操に転生し漢王朝に復讐を果たすことになっている。

 

元代の知識人においても韓信の無実を主張する人物もおり、その知識人によると朱子もそのように主張していたという。

 

日本においても人気が高く、商業ベースでもいくつもの韓信を主人公にした小説が刊行されている。

 

創作作品において、韓信は志が高く細かいことは気にしない純粋で誇り高いが、傲慢で他人の気持ちに無配慮な人物に描かれることが多い。

 

韓信の戦術

韓信の戦術に見られる特徴は「敵の虚をつく」、「自分が設定した有利な戦場において誘い出して戦う」、「河を利用して戦う」である。韓信の軍は、無勢で訓練が少ない兵であることが多かった。魏と斉の戦いでは「敵の虚をつく」、「河を利用して戦う」ことに重点が置かれ、趙と龍且との戦いでは「敵の虚をつく」、「自分が設定した有利な戦場において誘い出して戦う」、「河を利用して戦う」全てに重点が置かれている。項羽との垓下の戦いでは「自分が設定した有利な戦場において誘い出して戦う」ことを実行している。

 

上記の通り、兵力が少なく訓練を行っていない軍による戦いを強いられることが多かったが、優れた軍略で勝利を重ねた。

 

また、兵力が優位な戦いでは、項羽を相手に一戦にして大敗させており、大軍を使った軍略にも優れていたことが理解できる。冒頓単于との戦いも見たかったという意見も強い。

 

斉への攻撃について

酈食其によって降伏していた斉が警戒を解いている時に攻撃し、そのために酈食其が殺されることになった件について、後世の批判は強い。

 

確かに史書をそのまま読めば、韓信の功名心が動機と解釈するのが素直な読み方である。

 

しかし、これは酈食其を犠牲にすることを覚悟で、斉を嵌めようとした劉邦の策略であるとする研究者もいる。蒯通の発言から、劉邦は韓信に攻撃中止命令を下しておらず、韓信が攻撃しなかった場合は、命令に反した罪に問われたであろうとする。

 

なお、『史記』に伝わる酈食其の最期に斉王に語った言葉は

「大事を起こすものは、小さなことに拘らない。すぐれた人物は遠慮をしない。私はお前のために前言を翻さない。」

であったと伝わっており、初めから覚悟のあったようにも読める。これらが劉邦の策略だったのではないか、と考える根拠となっている。

 

酈食其の説得により斉が漢に降伏したといっても、あくまで斉が漢を列国の盟主として認めたというだけであり、斉が自立していることは変わらない。劉邦の臣下であった韓信が斉を支配することとは、大きく意味が異なる。そのため、上記の策略を行う動機は劉邦には存在する。

 

ただし、史書に劉邦の策略であったことを裏付ける記述は存在せず、これを事実として劉邦を非難することには注意を要する。

 

鍾離昩を自害に追い込んだ件について

『史記』秦楚之際月表という『史記』に付された各国の年表によると、紀元前2029月に「()王得故項羽將鍾離眜,斬之以聞」とあり、これは

「楚王である韓信は、かつての項羽の将であった鍾離眛を捕らえて処刑して、そのことを周知した」

という意味である。これは韓信が捕らえらえて楚王の地位を剥奪された紀元前20112月とは、4か月離れている。淮陰侯列伝の記述では、鍾離昩の死と韓信が捕らえられた時期にほとんど差がないと考えられ、韓信が捕らえて処刑した記述とは矛盾する。

 

『史記』は列伝などの各所ごとでの矛盾も多く、司馬遷は各所では取材した史料をできるだけ生かした形にして、自分の考えを秦楚之際月表などの年表に残したという説がある。

 

そのため、韓信が鍾離昩を自害に追い込んだ件については、淮陰侯列伝と秦楚之際月表の記述が異なるのだが、秦楚之際月表の方が信憑性が高いという考えもあり、史実と考えることについては注意を要する。

 

韓信の謀反について

淮陰侯となった韓信の謀反が密告され、韓信が一族とともに処刑された事件については、姓名も記述されない人物の告発である上に、漢王朝側にとって余りにも都合がよすぎ、かつ劉邦が不在の時に起きた事件であるため、謀反を起こしたことについて疑問に考える研究者も多い。

 

なお、陳豨が反乱を起こしたのは9月、韓信が謀反を理由に捕らえられ処刑されたのは翌年の正月である。『史記』には、陳豨が謀反を起こしたという報告を待っていたと記述されているにも関わらず、実際の韓信は陳豨が反乱を起こした後45か月も、謀反計画を温めたまま行動しなかったことになる。また当時の韓信は、なんらの軍事力を有しておらず、暴かれたとされる謀反の計画は、朝廷に出仕していなかった韓信が劉邦の詔(みことのり)を偽り、囚人を開放して呂雉と皇太子(劉盈、後の恵帝)を襲わせるという実現性の薄い計画であった。

 

また陳豨討伐に関連して、討伐後に韓信が謀反に加担している証拠が見つかったという記述は存在しない。

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