2019/07/06

張良(2)

 楚漢戦争

その後、項羽は根拠地の彭城(現在の徐州市)に帰り、反秦戦争の参加者に対する論功行賞を行った。これにより、劉邦は巴蜀・漢中の王となる。劉邦が巴蜀へ行くに当たり、張良は桟道を焼くように進言した。桟道とは、蜀に至る険しい山道を少しでも通り易くするために、木の板を道の横に並べたものである。とりあえずの危機は去ったものの、劉邦はまだ項羽に警戒されており、何かの口実で討伐されかねなかった。道を焼いて通行困難にすることで謀反の意思がないことを示し、同時に攻め込まれたり間者が入り込めないようにしたのである。

 

劉邦が巴蜀へ去った後、張良は韓王成の下へ戻る。だが、項羽は韓王成が劉邦に味方したことを不快に思い、成を手許にとどめて韓に戻らせようとしなかった。そこで張良は、項羽に

 

「漢王は桟道を焼いており、大王に逆らう意図はありません。それより斉で田栄らが背いています」

 

との手紙を出し、項羽はこれで劉邦に対する疑いを後回しにして、直ちに田栄らの討伐に向かった。

 

だが結局、項羽は韓王成を韓へは返そうとせず、最後には范増の進言で彭城で韓王成を処刑した。范増は、かねてから劉邦を脅威に思っており、もし劉邦が東進してくれば恩義のある韓が、まず協力するだろうと見たのである。このために張良は官職を辞して、間道を通じて逃亡して、すでに東進した劉邦と再会し、劉邦は張良の進言で亡き韓王成の遺体を丁重に埋葬して、韓王成の族子の信を探し出して、これを成信侯に封じた。張良は、それまでは劉邦にとって客将であったが、以後は正式に参謀として劉邦に仕えることになった。

 

劉邦は、その後関中を占領し、東へ出て項羽の本拠地・彭城を占領するが、項羽の軍に破られて逃亡し、滎陽(河南省滎陽市)で項羽軍に包囲された。

 

包囲戦の途中、儒者酈食其が

 

「項羽は、かつての六国(戦国七雄から秦を除いた)の子孫たちを殺して、その領地を奪ってしまいました。大王がその子孫を諸侯に封じれば、みな喜んで大王の臣下になるでしょう」

 

と説き、劉邦もこれを受け容れた。その後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来たので、酈食其の策を話した。張良は

 

「(こんな策を実行すれば)陛下の大事は去ります」

 

と反対し、劉邦が理由を問うと、張良は劉邦の箸をとって説明を始めた。

 

張良は

 

「昔、湯王や武王が桀や紂の子孫を諸侯に封じたのは、彼らを制する力があったからです。今、大王に項羽を制する力がありますか?

これが一つ目の理由です」

 

「武王は殷に入ると賢人商容の徳を褒め、捕えられていた箕子を釈放し、比干の墓を修築しました。大王にこのようなことができますか?

これが二つ目の理由です」

 

「武王は財を放って、困窮の者を援けました。大王にはできますか?

これが三つ目の理由です」

 

「武王は殷を平定すると、武器を捨てて戦をしないことを天下に示しました。今、大王にこれができますか?

これが四つ目の理由です」

 

「武王は戦に使う馬を華山の麓に放ち、戦が終わったことを天下に示しました。今、大王にこれができますか?

これが五つ目の理由です」

 

「武王は兵糧を運ぶ牛を桃林に放ち、輸送が必要ないことを天下に示しました。今、大王にそれができますか?

これが六つ目の理由です」

 

「かつての六国の遺臣たちが大王に付き従っているのは、何か功績を挙げていつの日か恩賞の土地を貰わんがためです。もし大王が六国を復活させれば、みな大王の下を去り故郷へと帰って、それぞれの主君に仕えるようになるでしょう。大王は誰と天下を争うおつもりですか?

これが七つ目の理由です」

 

「もし、その六国が楚に脅かされ、楚に従うようになってしまったら、大王はどうやって六国の上に立つおつもりですか?

これが八つ目の理由です」

 

と答えた。劉邦は食べていた食事を吐き出し「豎儒(じゅじゅ=儒者を馬鹿にする言葉。酈食其のこと)に大事を潰されるところだった!

 

と慌てて策を取り止めた。

 

紀元前203年、劉邦と項羽は滎陽の北の広武山で対陣したが、食料が切れたので、和睦して互いにその根拠地へと戻ることになった。

 

ここで張良は陳平と共に、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言した。項羽とその軍は、韓信と彭越の活躍もあって疲弊しているが、戻って回復すればその強さも戻ってしまう。油断している今を置いて勝機はない、と見たのである。劉邦はこれを受け入れ、韓信と彭越の2人の武将も一緒に項羽を攻めるように命令した。しかし、韓信と彭越はやって来ず、劉邦は固陵で項羽軍に敗れた。

 

張良は劉邦に

 

「韓信・彭越が来ないのは、恩賞の約束をしていないからです」

 

と答えた。

 

劉邦は

 

「彼らには十分禄は出している。韓信は斉王にしてやった」

 

と言うも、張良は

 

「韓信は肩書きだけで、斉の地を与えたわけではありません。彭越も補給路を断つなどの活躍をしましたが、肩書きの一つでも与えましたか?

それに、彼らも漢楚が争っているからこそ価値があるとわかっているので、争いが終わってしまえば自分たちはどうなるかと不安なのです」

 

と返した。

 

なおも納得ができない劉邦が

 

「では、恩賞が少ないからと言って我々を見捨て、漢が滅びればどうなる?

彼らも滅びてしまうではないか。それに天下が定まらない状況で恩賞など出せるか」

 

と問うと、張良は

 

「彼らは、漢が滅びるとは思っていません。功績と恩賞が見合っていないと思っているのです。先の戦で、大王は天下の半分をお取りになりました。それは一体、誰のおかげですか?

大王の『恩賞は天下が定まってから』というお考えはよく理解できますが、天下の人々には『劉邦は天下の半分を取りながら、恩賞を出し惜しんでいる』としか見えません。私は大王が物を惜しんでいないのは、よく存じております。しかし、天下の人々にもそう見えなければ意味がありません。だから彼らも、恥じることも悪びれることもなく動かなかったのです」と答えた。

 

これに劉邦も納得し、両者に対して戦後も韓信を斉王に、彭越を梁王に封じる約束をし、喜んだ両者の軍を合わせて項羽軍を垓下に包囲し、項羽を討ち取った(垓下の戦い)。

出典 Wikipedia

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