2019/07/17

多々益々弁ず ~ 韓信(5)

 https://dic.nicovideo.jp/?from=header

斉攻略戦

しかし、項羽の攻撃に耐えかねて滎陽より脱出した劉邦は、夏侯嬰を連れて、漢の使者であることを偽って趙の城に入り、韓信と張耳が寝ている間に印璽と割符を奪い取り、将軍たちの配置換えを行った上で、韓信と張耳の軍を奪ってしまった。張耳は趙の守備を命じられ、韓信は急きょ徴募した新兵とともに斉国攻略に向かうこととなった。

 

韓信が斉に向かった時、斉国は劉邦が遣わした儒者の酈食其が既に降伏させていたが、韓信は弁士の蒯通が

「漢王の命令により斉攻略に向かったのに、漢王は独断で酈食其を派遣して斉を降伏させました。漢王の詔が出ている以上、進撃を止めるわけにはいきません。またこのままでは、将軍(韓信)が数万の軍で一年余かけて趙を攻めとった功績は、酈食其が舌先三寸で斉を降伏された功績に及ばないことになります」

と進言したため、そのまま斉国に攻め入る。斉は漢に降伏していたため、漢に対する防衛は停止されていた。韓信は夜間に河を渡り斉の軍隊を攻撃。斉軍を撃破して、斉の首都に攻め入った。酈食其は斉王に煮殺され、斉王は逃走するが、韓信はこのまま斉国を征服した。

 

濰水の戦い

楚からは斉に対し、龍且と20万人の軍勢が援軍として送られた。龍且は、項羽に対して反乱を起こした黥布を打ち破ったこともある、項羽配下の有数の臣の一人に数えられる勇将である。龍且は持久戦を進言されるが、これを拒否し

「韓信のことはよく知っており、戦いやすい。戦闘を交えずに決着することはできない」と言って、出撃する。濰水という河を挟んで、楚漢の両軍は布陣する。

 

韓信は、夜間に土嚢を濰水の上流に積んで河をせき止めておいた。韓信は先に河を渡って攻撃して、龍且に決戦を挑んだ所をわざと負けた振りをして誘い込んだ。龍且は

「韓信が臆病なことはわかっていた」

と叫んで、濰水を渡って韓信を追撃した。韓信が上流の土嚢を取り崩させると、溜まっていた大量の濰水の河水が流れてきて、龍且の軍は押し流された。韓信が龍且を討ち取ると、楚軍を追撃して龍且の配下であった兵を全員捕らえてしまった。

 

斉王・韓信

斉を平定した韓信は、斉国の安定のために仮王(副王)になりたいと劉邦に遣いを出す。劉邦は、最初は

「わしがここで項羽の攻撃に苦しみ、韓信の救援を日夜待っているのに王になろうとするとは」

と怒る。しかし、劉邦の参謀である張良と陳平の

「現在、漢は不利です。これを拒否しても、韓信は独立勢力となるでしょう。うまく待遇して、斉を守られた方がいいです」

との意見を聞くことにした。劉邦は「仮王でなく、真の王となれ」と張良を派遣して、王号を名乗るのを許可した。その後、韓信は楚を攻撃する。

 

項羽の方も、韓信に王となって独立し天下を三分(項羽・劉邦・韓信)とするように説得するが、かつて項羽に策を用いられなかった事と劉邦から大将として認められ兵を与えてくれた事に対する恩を理由に、韓信はこれを拒絶する。蒯通は韓信に独立勢力となり、楚漢の争いに乗じて天下を獲る策を献じ「野獣尽きて猟狗(猟犬)煮らる」という言葉を引いて劉邦が信用できず、いずれ劉邦に裏切られるだろうと説いた。しかし韓信は漢に背くことに耐えられず、功績が多いのだから斉王を取り上げられることはないだろうと考えて聞かなかった。そこで蒯通は、狂人を装って出奔した。

 

項羽を滅ぼす

劉邦は項羽と和睦するが、項羽が帰還した際に和睦を破って背後から攻撃した。韓信にも救援要請が届いたが、当初は劉邦を支援しなかった。劉邦は張良の進言を聞いて改めて韓信に王の地位を約束、韓信が項羽との最終決戦に参加した事で、彭越ら他の諸侯も劉邦に味方する。

 

韓信は斉王として、漢側の軍の先鋒となり30万人を率いた。劉邦たちは、その後方となった。対する項羽は10万程度であったが、項羽もまた二度も数万の軍で、戦歴豊かな人物が率いる数十万の大軍を破る実績を持つ名将である。

 

韓信は、その項羽の攻撃を受けて退却する。だが、これは韓信の誘いであった。韓信は両翼としていた軍を移動させており、項羽の軍を左右から攻撃する。韓信は、項羽の軍が不利になったところで反転して項羽を攻撃した。楚軍は大敗し、項羽は敗走した(垓下の戦い)

 

兵力差があったとはいえ、中国史上有数の名将二人の対決は、韓信の完全勝利に終わった。

 

楚王・韓信

項羽は、漢軍の包囲からの脱出を図ったが最終的に自害し、楚は滅んだ。しかし劉邦は、再度韓信の軍を攻撃して、斉の軍勢を奪った。

 

その戦後処理で、劉邦は韓信を斉王から楚王に移封した。故郷に錦を飾った韓信は、かつての知り合い達に会った(後述)

 

劉邦の漢王朝下の諸侯王として韓信の地位は約束されたかに見えたが、劉邦から度々怒りを買っており警戒されていた事、項羽の部下だった鍾離昧を友人であっために匿っていた事、韓信が楚の国を回る時には兵を連れていたことから、劉邦に対して韓信が反乱を起こそうとしていると報告するものがあった。劉邦は韓信を襲撃するつもりで、雲夢沢という地に狩猟という名目で諸侯王を集めた。

 

韓信は反乱を起こそうとも考えたが、自分に罪はないので反乱にまで踏み切れず、また劉邦に捕らえられることも恐れた。ある人が鍾離昩を殺害すれば心配はない、と進言したため鍾離昩にこのことを相談した。鍾離昩は

「漢が楚を攻撃しないのは、あなたと私が楚にいるからだ。あなたが私の身柄を漢に差し出すのならば私は死ぬが、あなたもいずれ滅びるだろう。あなたは有徳の人ではない」と警告して自害した。

 

韓信は、劉邦に鍾離昧の首を持っていったが捕らえられる。韓信は

「狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が平定されたからには、私は煮られるのだろう」

と言うと、劉邦は

「君が反乱を起こしたと告げるものがいたのだ」

と話す。劉邦には韓信を無実の罪で殺害する気はなく、韓信は許され兵権の無い淮陰侯に格下げされた。

 

多々益々弁ず

韓信は病気と称して出仕せず、長安(漢王朝の首都)では悶々とした日々を過ごしていて、劉邦の功臣である周勃や灌嬰と同列であることを屈辱に感じていた。韓信が樊噲のところに立ち寄った時、樊噲はとてもへりくだって韓信を出迎えたが、韓信は

「生きて樊噲などと同等の立場になろうとは」

と話したと伝えられる。

 

また、ある日劉邦と話をした時

「わしは、どれくらいの将であるか」

と劉邦が話題を出した時の会話が史記に残っている。

 

「陛下は十万の兵の将に過ぎません」

 

「そういうお前は、どうなんだ」

 

「私は多ければ多いほどいいでしょう(多々益々弁ず)

 

「そんなお前が、どうしてわしの虜になったのだ」

 

「陛下は兵を率いることが出来なくとも、将の将であることが出来ます。これが、私が家臣になった理由です。これは天から与えられた才能です」

 

ただし、『漢書』では漢の天下平定の後、韓信は劉邦に命じられて漢軍の軍法を作ったとされており、全く何もしなかったわけでないようである(韓信が漢の軍法を作ったのは、大将に任じられた漢中にいた時期である説もある。)

 

狡兎死して走狗煮らる

やがて陳豨という人物が鉅鹿太守に任命され、韓信の元に挨拶にやって来た。韓信は、ここぞとばかりに劉邦への不満と版心を陳豨にぶちまけ、共同して反乱を起こす計画を打ち明けた。紀元前196年、果たして陳豨が反乱を起こし、劉邦は討伐のため親征に赴き、この隙を狙って韓信は漢王朝を乗っ取るための謀反を企てる。

 

だが罪があった下僕の弟に密告され(話ができすぎているため、反乱の話は冤罪だったという研究者もいる。後述。)、劉邦の妻である呂雉に相談された相国の蕭何は一計を案じ、陳豨が既に殺され朝廷のものが祝賀に来ていると噂を流させた。また、蕭何自身が甘言で韓信を騙して誘う。韓信は、宮中において捕えられた。劉邦が帰還する前に、韓信とその三族は処刑された。

 

劉邦が陳豨討伐から帰還後、呂雉から韓信の死を聞かされ(反乱が未然に防げたと思い)喜ぶとともに大いに残念がったが、呂雉から

「韓信は、死ぬ前に蒯通の言葉を聞かなかった事が残念だと言っていました」

と聞くや激怒して、蒯通を捕らえて殺そうとした。しかし、蒯通が抗弁したためこれを許した。

0 件のコメント:

コメントを投稿