2006/07/16

河堀口

 <この地は、度々の水害に悩まされていた。桓武天皇の延暦4年9月、河内国に洪水の氾濫があり、住民の困苦は言語に絶するものがあった。天皇は侍臣を遣わして実状を調査し、当時守護職であった摂津太夫の和気清麻呂に適切な治水対策を樹立するよう命令された。清麻呂は

「河内と摂津の境に川を設け、堤を築き、茶臼山の南に堀を掘って河内の水をこれに導入、西の海に通ずる事こそ最良の対策である」

と進言した。

延暦7年(788年)3月、今のJR寺田町駅の南方、猫間川の辺(此の地点を河掘口と云う・・・大正14年、市に編入されるまで小字名として存続)から着工して、西へ庚申街道から茶臼山の南、河底池に達する堀江開鑿の工事を進め、延べ23万人の土工を使役した。しかし、この工事は不成功に終ったらしく未完のまま長く中断されていたが、徳川時代に大和川への転さく工事となって実を結んだ。

工事のため、この辺りー帯は湿潤地帯となったがホタルの名所となり、ホタルのシーズンには出店が並んで賑わった。現在、近鉄南大阪線の駅名にその名を残している>

<天王寺幼稚園・稲生公園の東側に、河堀稲生(コボレイナリ)神社があります。河堀稲生神社は、聖徳太子が四天王寺の鎮守として祀ったといわれる「四天王寺七宮」(上之宮・小儀(オウギ)・久保・河堀(コボレ)・土塔・堀越・北の各地区の神社を総称)の一つで、第32代の崇峻天皇を祭神としています。

河堀稲生神社は、神社の記録によると第12代景行天皇の皇子、日本武尊(ヤマトタケル)こと小碓命(オウサノミコト)が、筑紫の熊襲(クマソ・北九州地方で朝廷に背き度々謀叛をおこした民族)を征討する時、この地に来られ夏目入穂(ナツメイリホ)の孫の逆輪井(サカワイ)を舟師として供をさせ、無事熊襲を征討し帰路難波柏(ナニワカシワ)の済(ワタリ)でも悪神等を誅された由縁の地である。

このあと逆輪井の妻・日柿が、小碓命のご息災を祈願するため大和笠縫の斉宮に参り、倭姫命(第11代垂仁天皇の皇女)に太玉串を授かり祀っていたところ、豊饒が続き又皇子も病いもなく息災であった事により、逆輪井は鍬津の西、浪花潟昼ヶ丘に神地を賜わり稲生の神として代々祭祀するようになりました。その後、四天王寺創建とともにこの昼ヶ丘に社殿を建立、崇峻天皇を祭祀し四天王寺七宮の一宮として、稲生大明神と併祀されるようになりました>

<河堀の地名は、古くは古保礼(又は古保利)と書かれていたが、788年(延暦7年)摂津大夫和気朝臣清麿の建言により、摂津・河内両国の境に河を堀り堤を築いて河内川(平野川)を荒陵(茶臼山)の南へ導き、西の方の海へ通す事により沃壌もますます広くなり、大和川の水害も除けるとし稲生大明神に祈願し事にかかったが、清麿の死によって完成しなかった。以後、河堀と書いて「コボレ」と読むようになり、附近一帯を「河堀口」と言うようになりました。この河筋が茶臼山河底池、大堀、堀越、河堀、河堀口などの地名として残っています>

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