2019/06/20

日代の宮二之巻【景行天皇二】(2)

口語訳:天皇はまた重ねて倭建命に

「東方十二道の荒ぶる神たちと、まつろわぬ者たちを言向けてこい」

と命じ、吉備臣らの祖、御友耳建日子を添えて遣わした。その際、比比羅木の八尋矛を授けた。

 

命じられたままに行く時、伊勢の神宮に詣でて、神の朝廷(みかど:神のいるところ)を拝んだ。

 

そして叔母の倭比賣命に

「父は私を早く死なせたいと思っているんだろうか。西の方の国のまつろわぬ者たちを征伐に行かされて、都に帰って幾らも経たないうちに、大して大勢の軍も与えずに、また東方十二道のまつろわぬ者たちを言向けてこいと言って派遣する。これを考えると、私に早く死ねと言っているようなものだ」

と言って、泣き憂えた。

 

倭比賣命は彼に草薙の剣を与え、また一つの嚢を与えて

「緊急のことが起きたら、この袋の口を開けなさい」

と教えた。

 

○草那藝劍(くさなぎのたち)は、上巻【伝九の卅七葉、伝十五の廿葉】で出た。名の意味は後に述べる。この剣は神代から天皇の三種の御宝の一つとして、代々御所に伝えられていたのだが、ここで伊勢神宮にあるとされたのはなぜかと言うと、古語拾遺に

 

「磯城の瑞垣の宮(崇神天皇)の御世に、次第にその神威を畏れるようになり、同殿に置くことが不安になった。そこで齋部氏に命じて、石凝姥神の末裔と天目一箇神の末裔の二氏を率いて、新たに鏡と剣(のレプリカ)を作らせ、天皇の守りの印とした。これが現在踐祚の日に(新しい天皇に)奉る神璽の鏡と剣である。そして笠縫の邑には、特別に神籬を立てて、天照大神と草薙の剣を遷し、皇女の豊鍬入姫命に奉斎させた」

 

とあるように、この剣も、天照大御神の御霊の鏡と共に遷したので、伊勢にあったのである。【書紀の崇神の巻、垂仁の巻で、天照大御神を遷した記事の中に、この剣のことが見えないのは、自然と省かれたのである。古語拾遺でも、伊勢に鎮座したことを書いた部分にはこの剣のことは出ていない。これも省いたのだ。】

 

これほどに重大な宝剣を、ここで倭比賣命の考えで、個人的に倭建命に授けたというのは、後世の考えでは非常に納得できない行動だが、それも理由があってのことだろう。凡人の心では推測の付かないことである。【あるいは、草那藝というのは大葉刈などという類で、刀が鋭いと言うだけの名であって、一つの剣に限った名ではないのかも知れない。だからこの記でも、この名は倭建命が草をなぎ払ったことから付いた名だとは書かれていない。書紀でもそのことは「一云(一説には)」として、本文とは別に挙げられている。

 

延喜式神名帳に伊勢国度会郡の外宮の摂社として草薙神社というのがあるが、これも別の剣による名である。とすると、ここで倭建命に授けた剣も、三種の神器の一つである剣でなく、別の剣を与えたかとも思ったが、記中にも書紀にも、この名の剣は他になく、固有名のように聞こえ、特に書紀では神代巻ですでに「この剣は今尾張国の吾湯市(あゆち)の村にある」と書かれているから、こういう考えは成り立たない。】

 

○書紀によると、「四十年夏六月、東の夷が盛んに背き、辺境を騒がせた。秋七月、天皇は群卿に向かって

『今東国が騒がしく、暴神(あらぶるかみ)が大勢起こり、蝦夷たちがみな叛いて、しばしば人々をかすめ取っている。誰を遣わしてこの乱を平定させればよいだろうか』。

群臣は誰を遣ったらよいか答えられなかった。

 

日本武尊は

『私は先に西の方を征して来ました。今度の戦は、大碓皇子の役目でしょう』

と言った。

 

すると大碓皇子は愕然として逃げ出し、・・・そこで日本武尊は雄誥(おたけ)びして、・・・天皇は斧鉞を取り、日本武尊に授けて、・・・

『その東夷のうちでも蝦夷というのは最も手強いという。・・・往古から王化に与かっていない。私がお前を見ていると、・・・我が子ながら神人のようだ。・・・またこの天下は、お前が治めるのだ。私の位は、お前が継ぐのだ』

 

・・・そこで日本武尊は斧鉞を受け、天皇は吉備武彦と大伴武日連に命じて、日本武尊に従わせた。また七掬脛を膳夫として共に行かせた。

 

冬十月、日本武尊が出発する時、寄り道をして伊勢神宮に参拝した。

 

そこで倭姫命に

『天皇の命を受けて、東方の謀反した者どもを誅殺しに行くところです。そのためお別れを言いに来ました』

と言った。

そこで倭姫命は草薙の剣を授けて、『慎むことです。決して油断しないように』と言った」とある。

 

このとき皇子が天皇に答えた言葉は、この記で倭比賣命に言った言葉と大きく違う。それは異伝でなく、書紀撰者が例によって漢文めかして書いた文である。【書紀のこの段は、特に漢文めいている。とても上代の言葉とは思えない。古伝の中の漢文めかない言葉を省き、漢風の文をたくさん潤色(かざり)加えて作ったように見える。そのため、そういう感じの文の多くは省いて引用した。】

 

書紀のこの部分では、倭建命の

「私は先に西の方を征して来ました。今度の戦は、大碓皇子の役目でしょう」

と言った言葉だけがこの記の趣きに近い。

 

東征

古事記

西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那藝剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。

 

日本書紀

当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。天皇は斧鉞を授け

「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。」

と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴に吉備武彦と大伴武日連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。出発した日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。

 

最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。

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