口語訳:尾張国に到って、尾張国造の祖、美夜受比賣の家に宿を取った。すぐに婚姻したいと思ったが、「また帰りの時に婚姻しよう」と思い、約束だけを交わして東国に向かった。そこで山河の荒ぶる神やまつろわぬ人たちをすべて退治した。
だが相武(相模)国に到った時、その国造が彼を騙して
「この野の中に大きな沼があります。そこに住む神は非常に荒れ狂う神で困っております」
と言った。そこでその神を見ようと野に入ったとき、その国造は野の周りに火を着けた。
「騙されたのだ」と知って、倭比賣命にもらった嚢の口を明けてみると、燧石が入っていた。そこで刀で身の周りの草を切り払い、それに燧石で火を着けて、迎え火で火を避けた。帰って来ると、その国造たちをみんな斬り殺し、火を着けて焼いた。それでその地を今でも燒遣という。
尾張國(おわりのくに)。名の意味は分からない。【万葉巻十三(3260)に「小沼田之、年魚道之水乎(おぬまだの、あゆちのみずを)云々」、この「沼」の字は「治」の誤りで、「おはりだ」が正しいだろう。
続日本紀廿九に
「尾張国山田郡の人、小治田連藥(くすり?)ら八人に尾張宿禰の姓を与えた」
とあるのを合わせて考えると、尾張(おわり:旧仮名オハリ)のことを小治田とも言ったのだろうか。そうであれば「小治」のことで、田による名だろう。
神代には「伊都之尾羽張(いつのおはばり)」という剣の名もあるから、草薙の剣に因んで、これも「尾羽張」が縮まった名かとも思ったが、この国名は倭建命以前からある。またその剣はもとは大蛇の「尾」から出たためだという説もあるが、当たっていない。国の形が、西の方へ尾が張ったようになっているからというのもどうだろう。またこの国の風土記と称するものに「終(おわり)」の意味だと言っているものがあるが、信憑性はない。この風土記というものは、少し後の成立である。なおこの国名については、伝二十一の廿二葉、尾張連のところでも論じている。参照せよ。】延喜式神名帳に「山田郡、尾張神社」、また「尾張戸神社」がある。
○美夜受比賣(みやずひめ)。書紀には「尾張氏の娘」とある。熱田大神縁起という書物【この書は、貞観六年に神宮の別当、尾張連清稻が古記の文を調べ、遺老(昔のことをよく知っている老人)に聞いて書いたものを、寛平二年に、藤原朝臣村椙という人物が通儒(儒学に通じるという意味だが、ここではたぶん知識の深い者という意味だろう)に訊ねて文を修したと巻末にある。そうだろう。この書のことは、後で引くところでも述べる。】に
「日本武尊は斧鉞を受け、再拝して・・・天皇は吉備武彦と建稻種公(たけいなだねのきみ)に命じて、日本武尊に従わせた。・・・尾張国愛智郡に到ったとき、稻種公は『この郡の氷上邑は私の生まれた土地です。大王、どうかそこで休息してください』
と言った。
日本武尊は喜んだが、躊躇っていたところ、ふと一人の美しい娘を見た。その名を問うと稻種公の妹で宮酢媛(みやずひめ)というのであった。そこで稻種公に『あの美しい娘をもらえまいか』と言った。承知を得て婚姻した後は、寵愛が極めて厚く、数日そこに留まって、別れるに忍びないほどだった」とある。
神皇正統記にも
「日本武尊は信濃から尾張国に出た。そこに宮簀媛(みやずひめ)という娘がいた。尾張の稻種宿禰の妹である」
と見える。
稻種宿禰は、旧事紀に
「乎止與命は、尾張の大印岐(おおいにき)の娘、眞敷刀婢(ましきとべ)を妻として、建稻種命を生んだ」
と言っている。【ただし旧事紀では、乎止與命の子は男一人とあって、建稻種命の名だけを挙げ、その妹宮簀媛の名は見えない。漏れたのだろう。】
美夜受比賣の母もこの眞敷刀婢だろう。この比賣のことは、後【伝二十八】でさらに言う。先祖の姉妹のことも「~の娘」、「~の妹」などと言わないで、単に「~氏の祖」と言った例は高岡の宮(綏靖天皇)の段に見え、そこ【伝廿一の四葉】に例を挙げた。尾張国風土記にも「尾張連の遠祖、宮酢媛」とある。
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