2024/05/16

カレワラ(フィンランド神話)(5)

16章〜第17章:ワイナミョイネンの船造り

ワイナミョイネンは、船を造ろうとする。ペッレルボイネンが、彼のために木を探す。それを以て船を造ったが、水に漕ぎ出す呪文が分からない。彼は、それを求めてマナラの太古の館(死後の世界)へ向かい、言葉を求めるが得られなかった。彼の帰還を邪魔するもの達を魔法で眠らせたり、姿を変えたりして逃れ、帰国する(第16章)。

 

彼は次に巨人のビプネンから言葉を聞き出そうと考え、イルマリネンに鉄の防具を作らせ、ビプネンの口の中に侵入した。ワイナミョイネンは、船を造って彼の腸内を探り回り、やがて腹の中に鍛冶場を作り大いに働いた。ビプネンはこれに驚き、多くの呪文で彼を排除しようとする。しかしワイナミョイネンが逃げ出さないので、あきらめて彼に多くの言葉を教え、彼はビプネンの口を出る(第17章)。

 

18章:イルマリネンの求婚

ワイナミョイネンは、ポホヨラの娘に求婚するために船を出した。それを知ったイルマリネンの妹アンニッキは、兄にそれを伝えた。イルマリネンはあわてて身支度をし、橇で彼を追った。両者は力づくで娘を奪うことはしないと約束し、ポホヨラへ向かった。ポホヨラの女主人は、やってくるのが求婚者2人と知ると、娘にどっちを選ぶか尋ね娘は若いイルマリネンの方がいいと答える。最初にワイナミョイネンが到着し、求婚するが、娘は拒否する(第18章)。

 

19章:イルマリネンと課題

イルマリネンは女主人に娘を求めると、彼女はその前に蝮の畑を耕して来るように求める。彼は娘のところに行って相談すると、娘は金の鋤と銀の鋤を鍛えるよう教える。彼はこれを作り上げ、畑を耕した。次にトゥオニの熊とマナラの狼をつないで来ることを求められる。娘に相談し、鋼の轡と鉄の馬ろくを作るよう教えられ、これをやり遂げる。

さらにトゥオネラの川から川カマスを取って来ることを求められ、娘に鷲を作ってそれにやらせるよう教えられる。彼は鷲を作り出し、鷲はカマスを食い殺す。ずたずたのカマスに文句がつくが、彼は改めて娘を求めた。ついに女主人はこれを認め、手打ちの歌を歌う。ワイナミョイネンは自分が老齢であることを認め、今後は老人が若い娘をもらわぬよう戒めた。

 

20章〜第25章:イルマリネンの婚礼

婚礼の準備に巨大な牛が殺され、ビールが作られる。お客が招待されるが、レンミンカイネンは招待されなかった(第20章)。

 

婚礼が始まる。歌い手としてワイナミョイネンが大いに歌う(第21章)。

 

宴は盛り上がり、いよいよ花嫁が花婿に引き渡される。花嫁は生まれ育った場所から引き離されることを嘆く。家政婦が彼女がいなくなること、これからの苦労を悲しむ歌を歌う。子供が激励の歌を歌う(第22章)。

 

花嫁の心掛けを説く言葉が告げられる。老婆は自分の過去を振り返り、その苦労などを語る(第23章)。

 

婿に対しても心掛けが説かれ、嫁を大事にするように告げられる。そして花嫁の決別の歌が歌われ、いよいよイルマリネンは花嫁を橇に迎える。橇はイルマリネンの家に向かった(第24章)。

 

実家では橇を待ち構え、花婿の帰還と花嫁の到着を歓迎する。歓迎の宴が行われ、出席者が次々に讃えられる。それからワイナミョイネンは橇に乗って故郷に向かうが、橇が壊れたので、トゥオネラの錐を手にいれるためにトゥオネラに赴き、帰還した(第25章)。

この部分は、結婚に関する祭礼などの歌を集めたものである。導入などにリョンロットの創作した部分がある。

 

26章〜第27章:レンミンカイネンのポホヨラ行

レンミンカイネンは、自分が招待されない婚礼があったことを知る。すぐに畑をなげうち、着飾って呼ばれぬ宴会に行くことを決意する。母や妻が押し止どめるが聞かない。母は、その行路に三つの死があると、また到着した地で三つの死があると言い聞かせる。しかし、彼は武具を身につけ出掛けた。予告どおりの危機をすべて脱して、彼は宴会に向かった(26章)。

 

彼は宴会に押し入り、そこで主人と魔法比べをする。さらに主人との決闘に勝ち、彼を殺す。女主人は怒って武者を多数呼び出し、彼を囲んだ(27章)。

 

28章〜第29章:レンミンカイネンの逃走

レンミンカイネンは家を逃げ出し、鷲に姿を変えた。ポホヨラの主人は鷹になって追う。レンミンカイネンは、自分の家に逃げ込んだ。母に聞かれて自分が主人を殺して追われていることを伝えた。母は、彼が二度と戦に出ないという誓いを立てさせた後、海原の小島に隠れるよう勧める(第28章)。

 

レンミンカイネンは食料を船に積んで出発する。島には乙女がいたので、彼が尋ねると、隠れるのはいいが開墾する場所はないと答える。彼は魔法の歌を歌って皆に御馳走を振るまって気に入られ、村中の女に手をつけた。ただ一人、醜い娘だけを相手にしなかった。レンミンカイネンは、旅に出る気になって船出の用意をしていると、彼女が現れ、自分を相手にしなければ座礁させる旨を告げる。それを無視して、ふと気が付けば、村中の男たちが彼を殺す準備をしていた。

レンミンカイネンは逃げようとしたが、既に船は焼かれていた。あわてて魔法で船を作り出し、旅立った。娘たちは泣いて見送った。レンミンカイネンは故郷に帰った。彼が故郷に帰って見ると、家がなくなっていた。ポホヨラの主人に攻撃された後であった。しかし、幸い母は無事で近くに小さな家を建てていた。彼は大いに喜んだ(第29章)。

 

30章:レンミンカイネンとティエラ

レンミンカイネンは、復讐のために戦に出ることを決める。そこで友人のティエラを誘うことにした。彼の家族は反対したが、彼はレンミンカイネンとともに出発した。船を進めると、ポホヨラの主人は魔法で氷を張らせ、船は壊れる。彼らは魔法で馬を出し、進行する。しかし、寒さのために進めない。

 

31章〜第33章:クッレルヴォの誕生と成長

ウンタモとカレルヴォは、ちょっとしたことからいがみ合うようになり、ついにウンタモはカレルヴォとその一党を滅ぼし、一人の女をつれ去った。その女が生んだのが、クッレルヴォであった。彼は非常に力強く成長した。父の殺害を強く恨みに思っていることを知ったウンタモは、彼を殺すことを試みたが、水に浸けても火で焼いても死ななかった。そこで彼を奴隷の子として育てた。しかし彼はどんな仕事もこなせず、子守をさせれば子供を殺し、開墾をさせれば畑も材木も壊れた。ウンタモは彼をイルマリネンのところへ売り払った(第31章)。

 

クッレルヴォは牧童をすることになった。主婦は家畜を送り出す歌を歌った(第32章)。

 

昼になり飯を食おうとすると、パンの中に石が入っていて父の形見の小刀を折ってしまう。彼は怒り、牛を殺し熊と狼を牛に歌い変え、それを連れて戻った。主婦は牛の世話をしようとして、熊と狼に襲われて死んだ(第33章)。

2024/05/11

大化の改新(2)

乙巳の変

蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(皇室)へ権力を取り戻すため、まず軽皇子(後の孝徳天皇)と接触するも、その器ではないとあきらめる。そこで鎌足は、中大兄皇子に近づく。蹴鞠の会で出会う話は有名。共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練ることになった。中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚。石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。

 

そして、皇極天皇4年(645年)612日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自害。蘇我体制に終止符を打った。この蘇我氏本宗家滅亡事件を、この年の干支にちなんで乙巳の変という。この乙巳の変が、大化の改新の第一段階である。

 

新政権の発足

皇極4年(645年)614日、乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、それでは天皇になりたいがためにクーデターをおこしたのかと思われるので中大兄と鎌足との相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子になった。これは推古天皇の時、聖徳太子が皇太子でありながら政治の実権を握っていたことに倣おうとしたと推定されている。新たに左右の大臣2人と内臣を置いた。さらに唐の律令制度を実際に運営する知識として国博士を置いた。この政権交替は、蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。

 

619日、孝徳天皇と中大兄皇子は、群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、大化元年と初めて元号を定めた。

 

85日、穂積咋を東国に国司として遣わし、新政権の目指す政治改革を開始した。これらの国司は臨時官であり、後の国司とは同じではない。それは8組からなっていたが、どの地域に遣わされたかは定かではないが、第3組は毛野方面に、第5組は東海方面に遣わされたと、後の復命の論功行賞から推定できる。新政権は、このような広さを単位区域にして、8組の国司を東国に派遣した。

 

鐘櫃(かねひつ)の制を定める。また男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。9月には、古人大兄皇子を謀反の罪で処刑した。皇子は蘇我氏の血を引いていて、入鹿によって次期天皇と期待されていたが、乙巳の変の後に出家し吉野へ逃れていた。

 

古墳時代、大王と呼称された倭国の首長で、河内王朝の始祖である仁徳天皇の皇居である難波高津宮があったとされる現在の法円坂周辺へ、12月に都が飛鳥から再び摂津難波に戻り難波長柄豊碕宮とした。

 

改新の詔

大化2年(646年)春正月甲子朔、新政権の方針を示す改新の詔が発布された。詔は大きく4か条の主文からなり、各主文ごとに副文(凡条)が附せられていた。詔として出された主な内容は以下の通りで、豪族連合の国家の仕組みを改め、土地・人民の私有を廃止し、天皇中心の中央集権国家を目指すものであった。

 

それまでの天皇の直属民(名代・子代)や直轄地(屯倉)、さらに豪族の私地(田荘)や私民(部民)もすべて廃止し、公のものとする。(公地公民制)

初めて首都を定め、畿内の四至を確定させた。また今まであった国(くに)、県(あがた)、郡(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした。国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、後の令制国の姿に整えられていった。実際に、この変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。

 

ü  戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)

ü  公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調)

 

新政権の変遷

孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、白雉4年(653年)に中大兄皇子が難波宮から飛鳥へ、群臣もこれに従い孝徳天皇は全く孤立して、翌年に憤死する事件が起きた。この不和の背景には、孝徳天皇と中大兄皇子の間の権力闘争とも、外交政策の対立とも言われているが不明な点が多い。皇太子の中大兄皇子は即位せず、母にあたる皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。

 

斉明天皇時代は、阿倍比羅夫を東北地方へ派遣して蝦夷を討ち、朝廷の支配権を拡大させた。一方で政情不安は続き、658年に有間皇子が謀反を起こそうとしたとして処刑された。

 

660年、伝統的な友好国だった百済が、唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅びた。661年、百済の遺臣の要請に応じて、中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め、斉明天皇と共に自ら朝鮮半島に近い筑紫へ赴くが、天皇はこの地で崩御する。662年、百済再興の遠征軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、百済は名実ともに滅亡する。

 

日本は朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に大国である唐の脅威にさらされることとなった(668年には新羅によって高句麗も滅亡する)。中大兄皇子は筑前や対馬など各地に水城を築いて防人や烽を設置し、大陸勢力の侵攻に備えて東の大津宮に遷都する一方、部曲を復活させて地方豪族との融和を図るなど、国土防衛を中心とした国内制度の整備に注力することになる。中大兄皇子は、数年間称制を続けた後に668年に即位した(天智天皇)。670年に新たな戸籍(庚午年籍)を作り、671年には初めての律令法典である近江令を施行している。

 

671年に天智天皇が崩御すると、天智天皇の同母弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、天智天皇の庶長子である大友皇子とが不和となり、672年に壬申の乱が起こる。大海人皇子が皇位継承権争奪戦に勝利し、大津宮から飛鳥浄御原宮に遷都して即位した。天武天皇は改革をさらに進めて、より強力な中央集権体制を築くことになる。

 

論議

蘇我入鹿暗殺のタイミングが、三韓朝貢の儀の最中である点。当時の常識として、外交儀式の最中にクーデターは起こさない(外交儀式中にクーデターを起こすことは、外交使節に対して国が内紛中で攻め込むに絶好の機会だと宣伝することと同義である)。また、仮に三韓朝貢が暗殺者の虚構だったとすれば、外交政策の中心人物である入鹿が気付かないはずがない。いずれにしても疑問があるとの指摘がある。

2024/05/09

イスラム教(9)

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キリスト教との関係

意外かもしれないが、イスラム教は聖書を聖典として認め、キリスト教の開祖であるイエス(イーサー)を五大預言者の一人に数えており、また、ユダヤ教・キリスト教と共通しているノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラーヒーム)、モーセ(ムーサー)もその中に入れている。これはイスラムのアラーとキリスト教のエホバの神が同一の神と解釈しており、イエスらが伝えきれなかったか誤伝された預言を、最後にして最大の預言者ムハンマドが伝え直したとされているためである。

 

逆に大きく違うのは、三位一体説(父:神と子:イエスと聖霊は結局一心同体である、要するにイエスは神でもあるという考え)が主流で、イエス自身が信仰されているキリスト教に対し、イスラム教はイエスを普通の人間と認識していることが大きく違う。イスラム教では、ムハンマドも一介の(最上で最後とはしているが)預言者としてしか考えられていないが、これはムハンマド自身が「崇拝すべきなのは神である」とし「自分はその言葉を預かっただけの、ただの人間に過ぎない」と宣言するなど、徹底的に個人崇拝を否定し続けたためである。

 

ちなみにキリスト教は当然、ムハンマドを預言者とは認めておらず、コーランもデタラメと解釈している。またユダヤ教は、イエスとムハンマド、そのどちらも預言者として認めていない。

 

西洋的な倫理観・価値観との対立

また、上記以外にも西洋的な倫理観や価値観(個人主義や民主主義、人権問題、男女同権など)と対立することも多い。

 

例えば、イスラム教では条件によっては16歳未満でも結婚出来るとされ、比較的近代的な法体系を備えるマレーシアでも、14歳の少女との結婚は条件を満たしていれば可能と判断された例がある。

つまり幼女と結婚できる。

預言者ムハンマド自身も、56歳の時に3番目の妻アーイシャ(当時9歳)との婚姻を「完成」させたとされているが、それはさておき。

またイスラム教国は一夫多妻制を認めている国も多く、この点も西洋諸国と対立している。

 

他にも、政教一致(近代国家は政教分離が基本である。但し世俗主義をとるトルコ、国教を決めていないインドネシアなど例外も多い)、死刑も含めた残酷な刑罰(鞭打ち刑、石打ち刑、報復刑)といった先進諸国が問題視しそうな物事は多い。

そのため「哲学や理念と言った点において、イスラムと西洋近代の価値観は必ずしも相容れないとは言えない」などの声明も欧米人を含む一部の学識者から出ているものの、そうした考え方は現実の政治的な動きに対して未だ大きな影響力を持つことの出来ない状態が続いている。

 

ジハードについて

ジハード(جهاد jihaad)は、日本語ではしばしば中二尤もらしく「聖戦」と訳されるが、これはほんの一面的かつ恣意的な解釈に過ぎない。アラビア語では「奮闘・努力」という日常的な言葉であり(例えばヒンズー教徒であるガンジーのインド独立に伴う活動も、アラビア語では「ジハード」と訳されている)、宗教的な文脈においては「ムスリムとしての奮闘・努力」を指す。その行為者形複数ムジャーヒディーン(مجاهدين mujaahidiin)も、宗教的な文脈において「ムスリムとして闘い励む者たち」となるが、これにも「聖戦士」「イスラム戦士」といった中二病な物騒なレッテルを安易に貼るべきではなく、「闘士たち、努力家たち」という素朴な本義がある事を憶えておくべきである。

 

ジハードは大きく「内へのジハード(大ジハード)」と「外へのジハード(小ジハード)」の2つに分けられる。前者は内なる自己に対する努力であり、ムスリムとしての自身を高めていくことを目標とし、信仰者の日常行為の規範として非常に重視されている。後者は外なる他者に対する奮闘であり、アッラーの定めに従うイスラム法による秩序の拡大・浸透が目標となる。

 

だからこそ、異教徒であってもイスラム法に従って人頭税さえ支払っていれば、今まで通りの宗教生活が保障されてきたのである。また、あくまでジハードの一手段に過ぎない「聖戦」にしても「異教徒が我々に戦いを挑んで不義を働いた場合に限る」とコーランに明記されているので、何でもかんでも戦いを吹っかけられるというわけではないのだ(その分、報復は執拗かつ容赦無いとも言えるが)。

 

しかし近年、ジハードは過激派イスラム教徒のテロの大義名分としてよく使われている。有名な例で「ジハードを行うと天国に行け、72人の処女を抱ける」というものがある。しかし、そうした主張については他のイスラム教徒から不適切であるという意見が出ることも多い。

 

また本来は(乱暴な例えだが)イスラム教徒版教皇とでも言うべき教主(カリフ)と呼ばれる教導的地位にある人物しか、このジハードは認定する事が出来ない。しかもこのカリフ位は、モンゴル帝国による侵略時に殺されて以来、新しい人物が立っていない。にもかかわらず最近では、ただイスラム教徒であるというだけで時には聖職者ですらない人物が「聖戦」を唱えるなど、明らかに怪しい使用例も多く見られる。

また、先行きの見えない貧困者や、まともな教育を受けない者たちに対し、過激派がテロや蜂起の決行を煽る為に、このような餌を使う例は古今東西に見られ、別にイスラム教に限った話でないことも心にとどめておく必要がある。

2024/04/30

大化の改新(1)

大化の改新は、皇極天皇4年(645年)612日、飛鳥板蓋宮の乙巳の変に始まる一連の国政改革。狭義には大化年間(645 - 650年)の改革のみを指すが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む。改革そのものは、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。

 

この改革によって、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。この改革により、「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになったとする説もある。中大兄皇子と中臣鎌足は、退位した皇極天皇に代わり、弟の軽皇子を即位させた(孝徳天皇)。その孝徳天皇即位の直後から、新たな時代の始まりとして日本で初めての元号「大化」を定めたとされる。

 

改新の歴史的意義や実在性については様々な論点が存在し、20世紀後半には大きく見解が分かれていた。しかし21世紀に入り、前期難波宮の発掘調査による成果や7世紀木簡の出土などにより、当時の政治的変革を評価する傾向が主流を占めるようになっている。

 

概要

大化の改新は、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を、皇極天皇の皇居において蘇我入鹿を暗殺して滅亡させた乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)により始まった(改新の第一段階)。そして同年(大化元年)内に、初となる元号の使用、男女の法の制定、鍾匱の制の開始、仏法興隆の詔の発布、十師の任命、国博士および内臣・左大臣・右大臣の新設、私地私民の売買の禁止。古墳時代、大王と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇が皇居を置いていた難波高津宮の跡地周辺に難波長柄豊碕宮が造られた。

 

古墳時代以来、再び難波に都を戻す為、飛鳥から難波に遷都の決定など様々な改革が進められた(改新の第二段階)。翌大化2年(646年)正月には、新政権の方針を大きく4か条にまとめた改新の詔も発布された(改新の第三段階)。改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっている。

 

大化の改新には、遣唐使の持ってきた情報をもとに、唐の官僚制と儒教を積極的に受容した部分が見られる。しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分が見受けられる。

 

政治制度の改革が進められる一方で、外交面では高向玄理を新羅へ派遣して人質を取る代わりに、すでに形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。また、越に渟足柵と磐舟柵を設けて、東北地方の蝦夷に備えた。

 

ただ、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の冠位十三階の施行の際に、左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと『日本書紀』にあることが、それを物語っている。翌大化5年(649年)、左大臣阿倍内麻呂が死去し、その直後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑がかけられ、山田寺で自殺する。後に無実であることが明らかとなるが政情は不安定化し、このころから大胆な政治改革の動きは少なくなる。650年に年号が白雉と改められた。

 

研究史

大化改新が歴史家によって評価の対象にされたのは、幕末の紀州藩重臣であった伊達千広(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている。ただ明治以降の日本史研究において古代史の分野は非常に低調で、王朝時代以降が日本史の主要な研究対象とされてきた。そんな中、坂本太郎は1938年(昭和13年)に『大化改新の研究』を発表した。ここで坂本は改新を、律令制を基本とした中央集権的な古代日本国家の起源とする見解を打ち出し、改新の史的重要性を明らかにした。これ以降、改新が日本史の重要な画期であるとの認識が定着していった。

 

しかし戦後、1950年代になると改新は史実性を疑われるようになり、坂本と井上光貞との間で行われた「郡評論争」により、『日本書紀』の改新詔記述に後世の潤色が加えられていることは確実視されるようになった。さらに原秀三郎は、大化期の改革自体を日本書紀の編纂者による虚構とする研究を発表し「改新否定論」も台頭した。

 

「改新否定論」が学会の大勢を占めていた1977年(昭和52年)、鎌田元一は論文「評の成立と国造」で改新を肯定する見解を表明し、その後の「新肯定論」が学会の主流となる端緒を開いた。1999年(平成11年)には、難波長柄豊碕宮の実在を確実にした難波宮跡での「戊申年(大化4年・648年)」銘木簡の発見や、2002年(平成14年)の奈良県・飛鳥石神遺跡で発見された、庚午年籍編纂以前の評制の存在を裏付ける「乙丑年(天智4年・665年)」銘の「三野国ム下評大山五十戸」と記された木簡など、考古学の成果も「新肯定論」を補強した。

 

21世紀になると、改新詔を批判的に捉えながらも、大化・白雉期の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。

2024/04/28

イスラム教(8)

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他宗教との関係

一般的には「剣か、コーランか」(戦争か、改宗か)と言う言葉で例えられるように、自らの主張を非常に暴力的に押し付けるイメージで見られる場合が多い。しかしこの言葉には続きが有り、実際には「剣か、コーランか、人頭税か」であって、たとえイスラム教徒の支配に下った国の民であっても、人頭税(ジズヤ)と言う別税を支払いさえすれば自らの宗教を信じ、その戒律に従い続ける権利が認められた。

 

そのため様々な制約はあったものの、イスラム王朝下のインドにおいてもヒンズー教は発達したほか、エジプトのコプト派、イラクのネストリウス派などのヨーロッパでは迫害されたキリスト教派、イランのゾロアスター教などの古代宗教も現代まで生き延びることが出来た。しかもその人頭税さえ、実際には商業推進のため免除される場合が多かった。

 

それでも多神教に対しては「コーラン以前の段階」と看做すことも多く、そのため古代仏教の一大拠点であったナーランダ大学を破壊するなどのことも時には有った。しかし、自分達と同じく「旧約聖書」を聖典とするユダヤ教徒、キリスト教徒のことは「啓典の民」と呼び、一定の尊重を示し続けた。そのため、キリスト教からの改宗者の子弟を中心としたイェニチェリ軍団は、後にオスマン・トルコを事実上で支配し、キリスト教圏では迫害されていた時代にも、イスラム圏のユダヤ教徒は安全に生活を送ることができた。

 

その反面、キリスト教徒は一貫してイスラム教を邪教として敵視し続けてきた。例えば中世欧州文学の名作として名高い「ローランの歌」は、イスラム教徒への侮蔑と罵詈雑言に満ち、近世フランスにおいて編まれた百科全書派の辞書にも「ムハンマド=有名なならず者」との表記が見られ、ほかにもムハンマドが黒ヤギに女性の上半身を接ぎ木したような外見のバフォメットという悪魔にされるなど、近代以前のヨーロッパの出版物においては様々な形で「異教徒」への悪意を見ることが出来る。

 

加えて、エルサレム奪回の名目の下に行なわれた十字軍においては、実際の現場では商取引など戦争以外の様々な交流が行なわれたにもかかわらず、それを知らない一般民衆の間では「異教徒」であるイスラム教徒への憎悪が様々な形で煽られることとなった。その当時から受け継がれて来た『あいつらは狂信的、暴力的』との偏見は、イスラム圏を植民地として支配下に置いた時代の優越感と入り混じりながら、現在まで続いているとされる。

 

またユダヤ教徒とは、中世から20世紀の半ばまでの非常に長い期間にわたって互いに良い関係を続けてきた。しかし第一次世界大戦の最中、当時パレスチナを支配していたイギリスが「バルフォア宣言」(1917)によってユダヤ人、「フサイン=マクマホン協定」(1915)によってアラブ人(パレスチナ人)の双方に、「/人◕‿‿◕人\ボクと契約して魔法少女味方になってくれたら、君の望み通りパレスチナをあげるよ」と囁いてしまった。それ以来、どちらにとっても非常に重要な聖地であるエルサレムを含むこの地域の帰属を巡り、両者の確執は一気に激烈なものとなってしまった。そのどちらも一歩たりとも引くことの出来ない険悪な関係は、未だに修復の目処が立たない。

 

ちなみに、イギリスはイスラム圏の東側でも似たようなことをしており、植民地化したインドの住民が自分に歯向かうことのないよう、ヒンズー教徒とイスラム教徒との対立を煽り続ける「分断統治」を徹底して行った。そのせいで、現在でもイスラム圏とヒンズー圏の間では比較的、確執の起きやすい緊張した関係が続いており、特にインドとパキスタンにおいては、どちらも核武装国であることから、その動向に世界の注目が集まっている。