2021/07/31

史上初フェンシング「金」(2020東京オリンピックpart7)

■競泳

2012年ロンドン五輪では、200m背泳ぎと400mメドレーリレーで銀、100m背泳ぎで銅と3つのメダルを獲得した入江は、200M背泳ぎで7位。

2016年リオ五輪の400m個人メドレーで金、200m個人メドレーは銀、4x200mフリーリレーで銅、さらに2012年ロンドン五輪の400m個人メドレーでも銅を獲得した萩野と、2016年リオ五輪の400m個人メドレーで銅を獲得し、今大会「金」が期待された瀬戸は、ともに表彰台に届かず。

前回、前々回がピークだった選手の力が落ちたのは仕方がないが、彼らに代わる若手が出てこなかったのは何故だろう。

確かに、女子競泳史上初の二冠を達成した大橋の活躍は目覚ましいものだったが、結局「金」はこれのみで、男子に至っては久しぶりの不振に終わった。

 

■柔道

個人戦は、最終日の最重量級。

男子は前回、決勝で「インチキ大王」リネールに敗れた原沢が、リベンジをかけて出場。という触れ込みだったが、これがまったくの期待外れだった。

最大のライバルのリネールが早々に敗退した時点で「リベンジ」のチャンスは消えたかに見えたが、それはそれで金の可能性が高くなった・・・はずだった。と思った矢先、準決勝で伏兵に敗れて早々に金は消滅。ところが瓢箪から駒というべきか、3位決定戦で因縁のリネールとの再戦が実現した。

 

日本の最重量級としては、金を逃した時点で「失格」の烙印を押されても仕方ないところだが、せめて恨み重なるリネールを豪快にぶん投げて一本勝ちでも収めてくれたなら、まだしも救いがあった・・・

 

実際、本人も「この日のために5年間やってきた」と言うくらいだから、今回に限ってはリネールに勝てば、ある意味「金と遜色ない値打ちがある」といっても過言ではない特別な試合だけに期待が高まった。

ところが蓋を開けてみれば、このインチキ大王の圧力にビビッてしまい、全く技がでないまま瞬く間に指導3つをもらって「反則負け」だから、これは日本代表としてあるまじき醜態、切腹モノだとしか言いようがない悪夢だ。

 

一体全体、

この「5年間のリネール対策」とやらは、どこへ消えたのか?

そして、この試合で何をしたかったのか?

 

もちろん、勝負だから負けることもある。が、C国人、K国人とは違ってわが日本人なら、果敢に戦って負けたなら誰も文句は言うまい。しかしながら、このように怖がって逃げてばかりいて、闘志が全くないのなら最初から畳に上がるべきではなかった。

 

こんなヤツを「日本代表」に選んだ、バカモノどもの目は節穴か!

ところが、この悪夢から日本を救ってくれた救世主が現れた。女子78キロ超級の素根だ。162cmと最重量級としては小柄な素根目線では、周りは見上げるばかりのバケモノのような相手(あくまで誉め言葉としての)ばかりだが、果敢な攻めの柔道で一本勝ちを連発し、堂々の「」で最終日を締めたばかりでなく、原沢の醜態による後味の悪さを薄めてくれた。

 

この結果、男子は金5(メダルなし2)、女子は金4(銀1,銅1、メダルなし1)と、史上最多となる合計9個の金メダルとなった。

 

■バドミントン

ここまで「メダルなし」と総崩れを象徴するように、この日も期待の女子シングルス奥原、山口がそろって準々決勝で敗退。メダルは遠かった。

日本協会の目標「金3つを含む全5種目メダル」という寝言は、もはや真夏の夜の夢。

 

黒人選手が台頭してきたテニスと同様、バドミントンも技を競うよりも「パワーゲーム」が主流になりつつあるようだ。体格に劣る日本選手は、外国選手のパワーに屈してしまうシーンばかりが目に付いた。

そうした苦戦の中、大勢いた「メダル候補」には上がっていなかった混合ダブルスが「銅」を獲得し、この競技唯一のメダルを死守した。

 

■フェンシング

この日のハイライトは、フェンシングだ。

オリンピックの時しか目にしないという以上に、普段から日本ではほとんど馴染みのない競技である。さらに、当初からメダル候補と騒がれていたわけでもなかった。

 

「男子エペ団体」が、日本として初のフェンシング「金」を獲得!
まったく素人ながら、日本にそれほど競技人口がいるとも思えず、また見るからに欧米チックなこの競技で「」を取ろうとは!

 

もちろん、ワタクシは「『エペ』ってなに?」というレベルですが ( ^ω^)

2021/07/29

柔道ニッポン復活(2020東京オリンピックpart6)

柔道

男子100キロ級のウルフ・アロン、女子78キロ級の浜田がダブル「」を達成。

男子は、これで6階級のうち5階級で「」、女子も半分の3階級で「」と絶好調。ここまで日本が獲得した金メダルは合計15だから、半分以上を柔道で稼いでいることになる。

残る重量級と団体でも金が有力とみられるだけに、まだまだ上積みが期待出来そうで、柔道だけで10個の金という快挙も夢ではない。

 

■卓球

混合ダブルスの快挙に続き、個人戦でもC国粉砕が期待された日本のエース伊藤だったが、結果は0-4と完敗。相手選手がミスする度に喚き声をあげるC国選手が憎たらしい。

※これは石川もやっていたが、伊藤があのようなはしたない真似はしないのはさすが

 

3位決定戦に回った伊藤、相手は準々決勝で石川を破った選手。

立ち上がりはやや硬さがみられ最初のゲームを落としたものの、徐々に調子を上げると一気に4ゲームを連取し、格の違いを見せつけた。

 

石川が手も足も出なかったユと、そのユを圧倒した伊藤も、ともに準決勝ではC国選手にストレートの完敗を喫した現実を見ると、あたかも「金」、「銀」はC国選手が予約済みで、他国の選手は残った銅メダルのみを賭けて、必死に鎬を削っているかのかと思えてしまう。

 

そもそも、C国に留学するのが良くない。これでは、徹底的に研究されつくして丸裸にされるだけである。そのよい例が、C国選手に勝てなかった福原だ。ライバルに施しを受けるのではなく、日本として組織的な強化を図り打倒C国を目指すのが本筋だ。

ましてやC国語でコミュニケーションを取るなど言語道断、日本代表としてなぜ日本語でコミュニケーションを取らないのか。「卓球用語を現す単語が、C国語は日本語の数倍」などと言っている輩がいたが、これは単に競技の成熟度の違いに過ぎない。

 

女子卓球シングル史上初」の輝かしいメダリストとなった伊藤だが

「銅メダルの喜びは1%、残りの99%は準決勝敗退の口惜しさ」

という志の高さが素晴らしいではないか。

 

20歳の伊藤は、石川の年齢までであと2回、ユ選手の年齢で出場となると3回はチャンスがある。単に若いというだけでなく、これまでの日本選手にない「怖いもの知らずさ」を持っていると思う。

 

過去の日本選手は「C国選手には勝てないという諦観」とまでは言わないが「相手がC国選手じゃあ仕方ないね」といった予定調和感に支配されていたようなところがあったように思う。そのC国勢に本気で勝とうと立ち向かっているところは、男子の水谷との共通点であり、日本ファンが強く期待する理由である。

 

現状では、まだ組織力に勝るC国選手との差は小さくはなく、決して簡単に勝てる相手ではないだろうが「いずれ、きっとやってくれる」という期待感を抱かせてくれる稀有な存在であり、現時点であの万里の長城を打ち破れるのは、やはり伊藤をおいて他にいない。

 

■女子バドミントン

メダル候補と目されていた「ナガマツペア(永原、松本)」、「フクヒロペア(福島、広田)」が、ともに準々決勝で敗退、男子金メダル候補の桃田に至っては、まさかの1次リーグ敗退となるなど、いずれも予期せぬ展開となった。

 

女子ダブルスは「フクヒロペア(福島、広田)」が世界ランク1位、「ナガマツペア」が同2位ということから「日本人同士の決勝」などとマスゴミに煽られもしたが、この「真夏の夢」は早々に消滅してしまった。

 

男子シングルス世界ランキング1位で、金メダルの最有力候補と目されていた桃田にくわえ、女子の奥原、山口を含め「メダルラッシュ」などと騒がれたものの「世界ランキング」など何の参考にもならないことは、卓球を見ても明らかだ。

 

女子シングルスに関しては、前回銅メダリストの奥原と、ライバルの山口がともに準々決勝まで順当に勝ち上がっており、残る期待はこの二人に絞られた。

 

体操女子の個人総合では、日本選手として唯一出場した村上が5位と健闘。

前回五輪で銅メダルを獲得したテニス男子の錦織は、準々決勝でジョコビッチにストレート負けを喫し、連続メダル獲得はならなかった。

新しい女王と王者の誕生(2020東京オリンピックpart5)

■競泳

ここまで不振だった競泳男子。日本の得意種目である200Mバタフライで19歳の本多が「銀」。男子競泳で今大会初となるメダルをもたらした。

一方、女子は200M個人メドレーの大橋が、400M個人メドレーに続いて「」を獲得し、日本の女子競泳史上初めてとなる「二冠」の偉業を達成。400Mの金で自信を深めたか、表情、泳ぎともに金を確信したような貫禄すら漂う。再び星条旗を左右に従えて、一番高いところに日の丸を掲げて見せた。

採点競技とは違い「速いものが勝つ」というシンプルかつ疑惑の裁定が入り込む余地のない競泳は、やはり観ていてスカッとする競技だ。

 

■野球

緒戦のドミニカ共和国戦は、劇的な9回逆転サヨナラ勝ち。といえば聞こえはいいが、貧打に喘いだ挙句、やっとこさ勝てたというのが真相だ。

 

ドミニカ先発は巨人のメルセデスだったが、これが信じ難いくらいに打てない。6回までわずか1安打という、目を覆うばかりのテイタラク。パリーグよりは遥かにレベルが低いといわれるセリーグにあって、シーズン中でも見たことがないようなメルセデスの「快投」というべきか、はたまた日本代表の貧打が酷すぎたのか。

 

日本の先発・山本由も6回までわずか「2安打、0点」に抑える好投で、まったく点を取られそうもなかったのに、なぜか6回88球で交代という「疑惑のヘボ采配」のせいで、交代直後に先取点を許す。

ところが、相手も同じミスをしでかしてくれた。まったく攻略できそうになかったメルセデスをなぜかマウンドから降ろしてくれたから、一気に勢いづいた日本。相手守備のミスなどに乗じ、土壇場の集中打で大逆転勝利を収めた。

 

日本目線では理想的な面白い展開で、良い形で初戦を取ったのは確かだが「素人監督のへっぽこ采配」という新たな心配の種を残した。

 

■卓球

女子シングルス準々決勝は「新旧エース」が明暗を分けた。

「旧エース」石川はシンガポール選手に圧倒され、なすすべなく完敗。勝負の分かれ目は、ゲームカウント1-1で迎えた第3セットだった。ようやくセットポイントを迎えたところで、なぜかタイミング悪いタイムアウトを取るや、たちまち緊迫していたリズムが崩れてしまった。再開後、たちまちポイントを連取されゲームを失ってしまうと、ガラガラと坂道を転げ落ちるかのごとくに、一気に相手ペースに。

 

「なんで、こんなタイミングで・・・」と、誰もが首をかしげるような、悔いを千歳に残すなんとも不可解なタイムアウトだった。

勝負どころにおける弱気を付け入られたように、続く第4ゲーム以降は怒涛の攻勢に晒されると、そのまま最後まで圧倒され、最後は「2-11」とワンサイドに。

 

片や「新エース」となった伊藤は、余裕綽綽の戦いぶり。準々決勝もはじけるようなストレートの快勝で、いよいよメダルをかけて宿敵のC国選手とぶつかる。なにか大きなことをやってのけそうな、期待を持たせてくれる存在だ。

 

■柔道

女子70キロ級では新井が「」。準決勝では実に16分を超える死闘を戦い抜き、遂に相手を絞め落とす迫力満点の柔道で、女子柔道2つ目の「金」をもたらした。

一方、「初日から4階級連続の金メダル」の快進撃が続いた男子柔道は、3回戦であえなく敗退し、ついにメダルなしとなった。

 

■体操

男子個人総合で、19歳の橋本選手が見事な大逆転で「

前回まで2大会連続で「金」の内村に続き、日本選手として「個人総合3連覇」の偉業を達成した。

 

個人総合は、あの短時間に6種目の高難度の演技を完璧にこなさなければ戦えないという、実に過酷な競技である。これまでは、内村の存在があまりに偉大過ぎたせいか、他の選手は殆ど目立たなかったが、こうしてしっかりと跡継ぎが育っていたのは頼もしい。

 

名前の通り「大きく輝いて」みせた橋本選手。あたかも最初から金を狙っていたかのような、湿っぽさとは無縁な爽やかな笑顔が憎いではないか。若く、足が長いw

 

というように、この日も様々密度の濃い戦いが繰り広げられた結果、金メダルをさらに3個上積みして合計「13個」。依然として、C国(12)、アメリカ(11)を抑えてトップをひた走る

2021/07/28

笑顔と涙(2020東京オリンピックpart4)

日本の快進撃が止まらない。

この日も金メダルを2つ獲得。早くも金メダルが10個となり、メダル大国のアメリカ、C国を抑えてトップに立っている。10個のうち、半分の5個は柔道で獲得。

 

■サーフィン

スケボーとともに、今回から新たに採用されたこの競技で、五十嵐が「銀」、都築が「銅」と男女ともにメダルを獲得した。

繰り返すが、泳ぎが苦手なワタクシにとってサーフィン競技は見ているだけでも顔が引きつりそうだが、あの荒れ狂う波に挑んでいるのか、あるいは雄大な大自然との一体感を楽しんでいるのか定かではないが、とにかく選手たちの勇猛果敢さに脱帽しかない。

それにしても、今回から新しく加わったスケボー、サーフィンともに各選手の

「もう、楽しくて仕方がない!

というような明るい表情が、たまらなく良いではないか!

 

■柔道

初日から負けなしの男子柔道。それだけに、日毎にプレッシャーが大きくなってきていることだろう。

そんな中、登場したのが81キロ級の永瀬選手だったが、ほぼ危なげない勝ちっぷりで「金」を獲得。男子柔道は、これで初日からなんと4階級制覇となった。

外国選手の中には、敗れた試合ではロクに挨拶もせずに不貞腐れた態度を取るケースも目にするが、この日の決勝を戦った両選手の互いの健闘を称えあうシーンは感動的であった。

一方、女子63キロ級の田代は3回戦敗退。敗者復活戦の道も断たれ、男女通じてついに初の「メダルなし」に終わった。

 

■ソフトボール

2008年の北京オリンピックを最後にオリンピックの種目から姿を消し、今回限定で復活したソフトボール。その2008年に優勝したのは日本だったが、13年ぶりに自国での開催となった今回、「13年越しの連覇」を達成。その日本のエースは、13年前と同じ上野というから驚きだ。ちなみにアメリカのエースピッチャーも、13年前と同じ投手というから、まさに「13年ぶりの再戦」ともいえたが、アメリカはまたしても日本のエース上野の前に、なすすべなく屈した。

後進が育っていないというべきか、はたまた上野選手が偉大過ぎたか?

 

■卓球

女子は4回戦。水谷との混合ダブルスで「金メダリスト」となった伊藤は、順当にストレート勝ち。一方、緒戦ではかなり苦戦をした石川も、この日は危なげなくストレート勝ち。伊藤、石川ともに、準々決勝へと進む。

一方、初出場ながらメダル候補と目された男子の張本は、4回戦で敗戦。

それにしても、ポイントを取る度に大きな叫び声(?)をあげる石川が煩く感じるのは、ワタクシだけか?

伊藤は静かだけど

 

■その他

ギリギリ8位の予選通過で決勝に進んだ体操女子団体。結果は5位と健闘。やっぱ女子体操は、華やかでいいね~w

2021/07/27

「伝統的な日本」と「新しい日本」(2020東京オリンピックpart3)

■柔道

あの古賀氏も「これぞ、ニッポン柔道!」と、天国から納得していただいたろうか?

 

かつての「日本男子柔道」は「目標は金、最低でもメダル」というのがノルマではないが「暗黙の了解」であったと思う。もっといえば「金でなければ」メダリストと言っても価値がないというまでの風潮すら確かにあった。

殊に最重要視された無差別級は「最低でも金」、「銀以下では、帰国できない」というのが決してオーバーではないくらい過酷な世界だった。

 

男子に比べれば歴史の浅い女子の方は、田村や上野といった「金が当然」と目された例外的な天才を除けば「メダルが取れれば良し」という感じか。

 

金メダルの数で言えば、男子は「目標3~4個、最低でも2個」で、女子は「目標2個、最低1個」という感じだった。

 

だが、今回に限っては男女ともに各階級で「最低でもメダル」が期待できそうな、充実した陣容がそろったようだ。実際、2日目までの4階級で「金3,銀1」という期待に違わぬ結果を残してもいる。

 

迎えた3日目。

まず女子57キロ級の芳田は準決勝で敗退。準々決勝までは、多彩な技で危なげなく勝ち上がってきていただけに惜しまれるが、柔道競技としては3日目にして初めて決勝進出を逃してしまった。対戦相手の「コソボ選手」といえば、女子48キロ級決勝でも敗れた相手だ。日本女子にとって、すっかり「天敵」となった趣がある。

 

男子73キロ級は、唯一の「前回王者」大野が登場。「前回王者」というばかりでなく、伝統的な美学の「ニッポン柔道」の担い手としても期待の大きい存在である。

 

下馬評通り、準決勝までは圧倒的な力と持ち前の「美しい柔道」を体現するような王者の風格が溢れる。次々に登場する強敵をなぎ倒し、迎えた決勝。両者決め手を欠いたまま、延長に突入。なんらかのポイントを取られた時点で終わりという極限の戦いの中、フラフラになりながらも最後は見事な投げを決め、劇的な勝利をもぎ取り「二大会連続金」の偉業を成し遂げた。

 

この結果、男子柔道は「初日から三階級すべて金」という、かつて記憶にないような快挙を達成。一方、女子の方も「」はまだひとつとはいえ、依然として3階級すべてでメダルを確保している。

 

■スケートボード

前日に続いて、この種目で2人目の金メダリストが誕生した。しかも、なんと13歳というから驚きだ。

まだ中学生だから無理もないが、あどけない西矢選手の楽しくて仕方がないといったような天真爛漫な笑顔は、思わずオリンピックという舞台を忘れてしまう。

男子の堀米選手もそうだったが、全く悲壮感を感じさせずにあっけらかんと「」を攫ってしまうのが、この競技の特徴なのか。銅の中山選手と併せ、日本人が2人も表彰台に上がってしまうという快挙だ。

 

かつての冬季五輪では、フィギュアスケートの浅田や紀平が15歳くらいの時は、出れば金メダルが確実視されながら「年齢制限」で出場できず地団太を踏んだが、夏季五輪には年齢制限はないのか?

 

■体操

前回は金メダルを獲得した男子団体総合。内村という「大明神」は居なくなったものの、層の厚さを見せて銀メダルを獲得。ロシアには惜しくも僅差で及ばなかったものの、C国を抑えての銀は立派だ。

 

■卓球

卓球を見る機会は、ほとんどオリンピックくらいしかないが、それでも毎回「永久に勝てそうにない?」と痛感させられるのがC国選手である。これまで、この競技の「金」はC国選手の「指定席」で、日本選手は最高でも銀というのが通例だったが、ついに水谷・伊藤のペアが初めて万里の長城を乗り超えたのは、卓球史に残る快挙と言える。

 

「卓球=C国」の固定観念が強いせいで、どうしても「C国に勝った」というところに意識が行ってしまうのは仕方ないが、最大のハイライトは準々決勝のドイツ戦だった。

最終セットを「6-10」と大きくリードされた時点で、誰しもが99%負けを覚悟しただろうが、ここから驚異的な粘りを見せる。マッチポイントを何度取られたかすら覚えてないくらいに、何度も絶体絶命となりながら奇跡的な逆転勝利。決勝のC国戦よりは、はるかに厳しいゲームだった。ここで一度「死にかけた」経験が、最後のバカ力を生んだのかもしれない。

 

それにしても、この水谷&伊藤のペアというのが、実に稀に見る最高のコンビだ。それも道理で、この二人は郷里が同じ(静岡県磐田市)であるばかりか、伊藤がまだ小さい時から面識があったということだから「これ以上に息の合ったコンビは望むべくもない」のだが、実にそれが「東京オリンピック」という、世紀に一度の舞台にうまい具合にハマったものだ。

 

ネットなどでは「XX」とか「性格悪い」などと散々に叩かれた伊藤だが、あの天真爛漫なまでの明るさにくわえ、インタビューで垣間見えるクレバーさを見るにつけ、これは稀にみる傑物かとも思える。

 

ハイライト動画をすべて見たが

「男女のペアで戦っているのは日本だけで、対戦相手(ドイツ、台湾)はみんな男子2人じゃないのか?」

が、正直な感想だ。

 

相変わらず好調が続く日本選手団。

前日の4個に続き、この日も「金」3つを獲得して合計8個となった。

2021/07/26

メダルラッシュの日(2020東京オリンピックpart2)

■競泳

女子400メートル個人メドレーで大橋選手が「金」

競泳の個人メドレーは、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、自由形と、1人で4種目をこなさなければならない。いうまでもなく、どれかひとつでも苦手な種目があれば世界では勝負できない競技であり、また並外れた体力も必要だ。

 

水泳が苦手なワタクシとしては「競泳選手」というだけで尊敬してしまうが、それがひとりで4種目もこなす個人メドレー選手ともなればなおさらである。

 

この日の大橋選手は、背泳ぎでトップに立つと、2位との差をぐんぐんと広げていく快進撃。最後の最後で、隣を泳ぐアメリカ選手の猛烈な追い上げはあったものの、安定した見事なレース展開だった。

 

両隣をアメリカ選手が泳ぐプレッシャーの中、あくまでマイペースを貫いた大橋選手。表彰式で「競泳大国」の星条旗を両脇に従え、真ん中の一番高いところに日の丸が上がるのは、なんとも気分が良い。

 

■スケートボード

スケートボードとかサーフィンというものが、いつの間にかオリンピックの正式種目となっていた。かつて「オリンピックオタク」を自任していたワタクシだが、すっかり「時代の波」に乗り遅れていたらしい。

そもそも、スケートボードとかサーフィンといった競技に興味のなかったワタクシだから、日本に有力なメダル候補が存在していたことすら知るはずもない。

 

とはいえ日本人が「金」というからには、見ないわけにはいかないと、さっそくハイライト動画を見たものの、ルールもわからない目には「一体、どこがどう凄いのか?」サッパリわからないというのが実情だった。

 

金メダリストの堀米選手は22歳というが、実際見るからに若い。まあ、あの種の競技を30過ぎてやるというのも違和感があるが、あの女のような優しい顔と華奢に見える体のどこに、あれだけのパワーが潜んでいるのだろう。

 

勿論こうした競技にも、裏には人知れぬストイックな努力があるのだろうが、表面的にはこのような遊び心溢れた競技で日本人が頂点に立つ意外性に驚いてしまった。

 

■柔道

2日目は女子52キロ級、男子66キロ級で、阿部兄妹がそろって「」を獲得という快挙を達成した。「兄妹で金」だけでも珍しいが、同じ日にというのが、また一層凄い。

前日は女子が決勝で敗れ、男子も「金」とはいえ目の覚めるような強さは蔭を潜めたまま決勝も反則勝ちと、やや消化不良が残る内容だっただけに、この日の阿部兄妹が見せた切れ味鋭い「一本柔道」には、胸がスカッとした。

※それにしても、妹の逞しいまでの首の太さよw

 

柔道は、ここまで男女4階級で「金3,銀1」という上々の滑り出しだ。

日本選手は、この1日だけで4つの「金」を獲得し、金メダルは早くも5個。過去最多の16個は余裕で上回りそうな勢いである。

 

さらに、ソフトボールと卓球の混合ダブルスも決勝進出を決めるなど、なおも快進撃は続くのか?

2021/07/25

開幕(2020東京オリンピックpart1)

東京オリンピックが、どうにか開幕した。

 

このコロナ禍中での開催には賛否両論(反対が大多数)あるものの、すでに始まった以上、ここではあくまで競技の話題に絞っていく。

 

前回まで「オリンピック個人総合2連覇」であり、日本選手団を牽引するような存在だった男子体操の内村が種目別の鉄棒で落下し、まさかの予選敗退で幕を開けた。

 

内村の予選落ちは、確かにショッキングな出来事に違いない。が、男子体操は他に何人かの有力な選手が出場して、ほとんどが決勝に進んだはずなのに、ニュースでは「内村まさかの予選敗退」しかいわないのは、いかなる料簡か。負けた人間は、そっとしておいてやればいいものを。

 

そんな、いつもながらのマスゴミの嫌がらせによる、嫌なムードを払しょくしてくれたのが「お家芸」柔道だ。

 

女子48キロ級の渡名喜に続いて、男子60キロ級の高藤がそろって決勝まで進んだ。

 

ここまで、一本勝ちなど技が冴えていた女子の渡名喜だったが、決勝は敗れて「銀」に終わる。これが「今大会初のメダル」となったのは皮肉か。

 

この結果を受けて、2人そろって決勝で敗れては目も当てられないから、高藤にかかる期待は否が応にも高まる。

 

とはいえ、高藤も決して絶好調というわけではなさそうだった。決勝まで勝ち上がってきたとはいえ、それまでの試合は時間内に延長含めて10分近くを要するなどの苦しい戦いが続き、決勝もそれまで同様、決め手がないまま延長にもつれ込んだ。

 

最軽量の男子60キロ級といえば、かつて「オリンピック三連覇」という大偉業を成し遂げた野村忠宏選手を筆頭に「山椒は小粒でも・・・」を絵に描いたようなキレッキレッの選手が頭に浮かぶが、この日の高藤はもどかしいくらいに技が出ない。

 

日本の「一本柔道」と、武道とはかけ離れた海外の「スポーツJUDO」が次元を異にした競技であることは、過去のオリンピックでも散々触れてきたからあえて繰り返さないが、かつて「異様なまでに」背負い投げの一本柔道にこだわった古賀稔彦こそは、まさに伝統的な「日本柔道」を体現していた。

 

これに対し、反則だろうがインチキだろうが、とにかく「勝った者が偉い」と信じて疑わないのが海外の選手たちだ。自分たちが勝つために精進するよりは、有利になるようにルールを捻じ曲げるのが彼らの常とう手段である。これは決して、彼らにとってはなんら「恥ずべき不正行為」などではなく「勝つための正しい戦略」なのらしい。

 

このような発想の外国勢に伍して、あくまで「勝ち方」や「美学」にこだわって勝ちあがっていく難しさは、これまで数多の日本選手が嫌というほど味わってきたことだろう。

 

この日の高藤選手の戦いぶりも、おそらくはまさにこの典型であって、日本の「一本柔道」に期待するファンの目には、いかにも「物足りない内容」に映ってしまうが、なんとしても「金」を捥ぎ取らなければならない本人としては、やはりこのような窮屈な戦いになってしまうのかもしれない。

2021/07/24

古墳時代(1)

古墳時代は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。

 

古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。

 

前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。

 

西暦266年から413年にかけて、中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれる。日本国家の成立を考察すれば仁徳天皇は難波(なにわ:現在の大阪市)に都を定め、宮居を難波高津宮 (なにわのたかつのみや) とし、国内流通の中心である住吉津や難波津といった港湾設備も建設され、倭国のヤマト王権が拡大し王権が強化統一されていった時代と考えられる。その後、都を飛鳥に定め、飛鳥時代に入り後に7世紀半ばに孝徳天皇の難波宮で行われた大化の改新により、倭から日本という国号と共に元号の使用が始まった。

 

概要

この時代にヤマト政権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。3世紀半ば過ぎには出現期古墳が現れると見る説が通説とされるが、年輪年代測定や放射性炭素年代測定は実際には確立した技術と呼べる段階に至っておらず、その精度や測定方法の欠点・問題点などが多くの研究者からも指摘されているため、現在でも古墳時代の3世紀開始説に対する根強い反対も存在する。

 

3世紀の後半または4世紀前期には、奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が現れ、4世紀中頃から末までの半世紀の間に奈良盆地の北部佐紀(ソフ(層富)とも)の地に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれ、4世紀の後葉に大阪平野に巨大古墳が約1世紀の間築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。

 

続く5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。それが6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。これは、ヤマト王権の確立後、中央・地方の統治組織が出来上がり、より強力な政権へ成長したことの現れだと解されている。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられる。大王の墓は、特別に八角墳として築造された。

 

対外関係としては、4世紀以降朝鮮半島に進出。新羅や百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったとも解釈される広開土王碑文などから知られる(高句麗と倭の戦争、倭・倭人関連の朝鮮文献)

 

5世紀には、倭の五王が中国に使者を遣わした。倭が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。大陸から、文字(漢字)と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は、土師器と須恵器を用いた。また、『隋書』によると、新羅や百済は、倭国は珍物が多い大国であると尊び、倭へ使い通わしているとの記述が存在する。

 

水稲耕作については、弥生時代以来の「小区画水田」が作られ続けているが、この時代の小区画水田は、静岡県静岡市の曲金北遺跡や、群馬県高崎市の御布呂遺跡・芦田貝戸遺跡などのように、小区画が数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田面を形成する例が全国的に見られるようになる。

 

また、東西・南北を軸線にして長方形の大型水田が、一部の地域に出現するようになる。例えば、5世紀末から6世紀初めの岡山県岡山市の中溝遺跡例などがあり、水田の一筆の広さが150200平方メートルを測る。新たな水田造成技術の導入もみられ、新田開発が行われたと推定されている。屯倉の設定には、こうした新水田造成技術を導入して行われたとする見解がある。

 

古墳時代になると、王族や貴族の大型古墳、地方豪族の古墳、横穴墓などの集合墓、あるいは円筒埴輪棺など死者を埋葬する墓における階層化が目を見張るようになり、それに伴い被葬者の間で身体特徴の違いが見られるようになる。一番わかりやすい身長で比較すると、大型古墳の被葬者は一般に高身長でときに170センチ近くにも及ぶ被葬者がいた。各地豪族墓の男性被葬者の平均は160センチぐらいであり、横穴墓に埋葬された者はそれを下回り、158センチほどである。

 

古墳時代の人骨の一番の特徴は、縄文人や弥生人の骨格で見られた骨太さ・頑丈さが目立たなくなったことである。この傾向は、大型古墳の被葬者などで非常に顕著であり、横穴墓や円筒埴輪棺などの常民墓の埋葬者ではさほどでもなく、縄文人、弥生人と大型古墳の被葬者との中間である。顔立ちについては、縄文人で一般的であった鉗子状咬合は全体の70%ほどで見られるが、大型古墳の被葬者では、のちの日本人で一般的な鋏状咬合が多くなる。また、下顎のエラの部分の前ほどにある凹み(角前切痕)が多くみられるようになる。

 

さらに、顎の先が細く尖り気味の下顎骨を持つ者や、第3臼歯が萌出しない者の割合が多くなる。これらの下顎骨の骨細化や退縮減少に伴う顔面骨の変化は、生活様式の変化、特に食物の硬さが減じたことに起因する。また階層により生活レベルの違いが大きくなり、階層性が目立つようになったと考えられる。

2021/07/22

説一切有部

https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3

インド仏教の発展

部派仏教ーーアビダルマ哲学

部派仏教とアビダルマ哲学の成立

 ブッダの入滅後100年ころ、教団は律の解釈を巡って、保守派の上座部と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)に分裂した。その後さらに分裂を重ね、成立した部派の数は18あるいは20と伝えられる。

 

 各部派は、自派の教理にもとづいて聖典を編纂しなおし、独自の解釈を立てて論書を生み出した。それらはアビダルマといわれる。そして、これを集めたものが論蔵(アビダルマ蔵)で、ここに経蔵・律蔵とあわせて三蔵が成立した。1)

 

仏典は経・律・論の三種にわけられ、三蔵 (tipiaka 三つのかご)といわれる。経 (sūtra, sutta) はブッダの教えをまとめたもの、律 (vinaya) は、僧団での生活規定および諸規則、論 (abhidharma) は、部派仏教時代に成立した教理の解釈である。

 

 玄奘を「三蔵法師」と呼ぶのは、仏典のすべてに精通しているという意味での尊称である。

 

 多くの部派のアビダルマは失われた。現在完全に伝わっているのは、南方上座部のパーリ語のアビダルマと漢訳された説一切有部のもののみである。論書のうち、古いものは紀元前 2世紀の成立とみなされる。

 

 アビダルマとは、「ブッダの教え(ダルマ)に対する(アビ)考究」である。アビダルマの論師たちは、ブッダによって教え説かれたダルマを吟味弁別することが煩悩を鎮める唯一の方法であると考えた。

 

 彼らは教理の体系化を進めて、須弥山説といわれる巨大な宇宙観を含む壮大な教理体系を築き上げた。時期を同じくする頃、婆羅門思想ではサーンキヤやヴァイシェーシカの宇宙観が成立している。当時のインドの思想界には、宇宙の成立ちに対する強い関心があった。アビダルマ哲学の成立も、この傾向と密接にかかわる。

 

説一切有部の教理

 「説一切有部」とは、この世界を成り立たせている一切のダルマが過去・現在・未来の三世に渡って実在するとするところからついた学派名である。諸行無常と矛盾するようであるが、彼らはむしろ実在するダルマがなければ、諸行無常は成り立たないと考えた。

 

 諸々のダルマは、集まって現象してくる。それは現在の一瞬間にのみ存在し、消滅する(刹那滅)。しかし、それぞれのダルマそのものは、未来から現在を経て過去に至って常に存在し続ける(三世実有・法体恒有)と考えるのである。

 

 ところでダルマとは何か。ダルマ(法)は多義的な語であるが、仏教ではまず「ブッダの教え」(仏法)を意味する。アビダルマ論師たちは「ブッダの教え」の体系化を目指したが、主たる関心は世界の全体的な理解にあった。彼らにとって世界の成立ちは、「ブッダの教え」すなわちダルマによって説明され理解される。したがって、ダルマは「世界を説明する原理」である。言い換えれば、世界はダルマから成り立っているものとして理解される。ここから、ダルマは「世界を成り立たせる原理」とみなされる。

 

 原始仏典には、世界の成立ちを説明する教えとして、五蘊・十二処・十八界というダルマの枠組があった。

 

 「十二処」とは六つの認識器官「眼・耳・鼻・舌・皮膚・心(眼耳鼻舌身意)」と、それらに対応する六つの対象「色形・音声・匂い・味・感触・考えられるもの(色聲香味触法)」によって世界の成立ちを説明するものである。

 

 「十八界」は、これに六つの認識「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」を加えたものである。

 

 説一切有部は、この十二処・十八界説を基本として理論的な整合性を追求し、体系を再構成した。そして完成されたのが「五位七十五法」という七十五のダルマを五類に分ける体系である。これによって物質的、精神的な世界のすべてが説明された。

 

 五類とは、「物質(色)・心(心)・心作用(心所)・物質でも心でもない関係、属性、能力など(心不相応行)・空間や涅槃など形成されることなく存在するもの(無為)」である。

 

 第五の「無為(むい)」に対し、前の四つのダルマは「有為(うい)」で形成されるものである。物質には十一、心は一、心作用には四十六、物質でも心でもないものには十四、形成されないものには三のダルマが立てられる。物質は原子論によって説明される。

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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説一切有部(せついっさいうぶ、梵: Sarvāstivādin, : Sabbatthivāda[1], Sabbatthavāda)は、部派仏教時代の部派の一つ。略称は有部。説因部(せついんぶ、梵: Hetuvāda)、サルヴァースティ・ヴァーディン学派とも呼ばれる。紀元前1世紀の半ば頃に上座部から分派したとされ、部派仏教の中で最も優勢な部派であったという。同じく上座部系とされる南伝の上座部大寺派と並んで、多くのアビダルマ文献が現存している[要出典]

 

主観的な我(人我)は空だが、客体的な事物の類型(法)は三世に渡って実在するとした。説一切有部は大衆部や経量部と対立し、大乗仏教からも批判されたが、大きな勢力を保った。

 

沿革

『異部宗輪論』によれば、成立は前2世紀の前半である。その後しばらくして迦多衍尼子(かたえんにし、kātyāyanīputra)が現れ『発智論』(ほっちろん)を著し、説一切有部の体系を大成したという。現在では、説一切有部の名の出る最古の碑文が1世紀初頭であることから、その成立はやや遡って、前2世紀後半と考えられている。

 

説一切有部はゴータマ・ブッダの教説を解釈する過程で、膨大なアビダルマ哲学を完成させた。『六足論』『発智論』『大毘婆沙論』『顕宗論』は、説一切有部の教義を述べた代表的な論書である。しかしながら、説一切有部が構築した教義は、ブッダの教えから逸脱したものとして、他の部派や大乗仏教から批判されることになる。

 

現在有体・過未無体を主張する大衆部(だいしゅぶ)あるいは経量部と対立し、また西暦紀元前後に興った大乗仏教も“無自性・空”を主張して説一切有部の説を批判した(このことは大乗仏教が教学を形成する上で大きな働きをした。)

 

しかし大乗も中観派についで登場した唯識派になると、説一切有部の分析を積極的に取り入れるようになった。

2021/07/17

グプタ朝(2)

経済

商業、金融業、手工業が盛んであった。ローマ帝国は既に衰退していたが、インド洋における季節風貿易は引き続き活況を呈しており、西のビザンツ帝国やサーサーン朝、アクスム王国などとの交易が盛んに行われた。ベンガル湾を渡って東の東南アジアなどとの交易も盛んであり、東南アジアから中国へと向かう交易ルートの存在は法顕の「仏国記」でも確認できる。これらの交易を通じ、沿岸の港市が繁栄した。また、法顕が往路は陸路を取ったことからも伺えるように、シルクロードに結びついた内陸の交易ルートも繁栄していた。

 

グプタ朝では金貨が盛んに鋳造されたほか、銀貨・銅貨も発行された。当初はクシャーナ朝の金貨にならったが、スカンダグプタの治世からはスヴァルナと称される独自の金貨が作られた。金貨や銀貨は高い価値を持ち活発な交易を支えたが、日常生活においては銅貨や子安貝といった少額貨幣が多く用いられた。

 

農村では、荒蕪地を中心にバラモンや宗教施設の管轄下に土地がおかれていき、低湿地や森林などの開拓が進められた。王朝の後期になると、フーナ(エフタル)の侵入などによって都市網が衰退し、農業経済へと移行していった。

 

宗教

グプタ朝は、ヒンドゥー教を国家の柱として位置づけ、アシュヴァメーダ(馬祀祭)などのヴェーダの儀式を挙行し、バラモンを統治体制の一部に組み込んだ。村落へのバラモンの移住が始まるのも、この時代である。バラモンは農村にて租税免除などの特権を与えられ、先進技術や学問を農村に伝えるとともに農村の秩序維持の役目を果たした。また、王家はヴィシュヌ神を特に信仰し、「至高のヴィシュヌ信者」との称号を持ち、バラモンの言葉であるサンスクリット語を公用語とした。

 

一方で、ナーランダ僧院がこの時代に設立されるなど、仏教などほかの宗教が迫害されることはなく、これらも庇護を受けた。しかし、インドにおける仏教は教学研究は盛んになったものの、この時代から衰退に転じるようになった。

 

社会

都市の商人・職人は、互助組織として「ニガマ」、「シュレーニー」といった組合を設けており、彼らが用いた印章が多く出土している。こうした組織は、都市行政にも関わっていたことが推測されている。一部の富裕化した人々は豪奢な生活を送り、文化の発展を支えることになった。農村社会ではクトゥンビンと呼ばれる小農が基盤となっていた。

 

一方、この時代からは上記の開発政策の結果としてバラモンが農村社会へと進出し、指導的立場となった。辺境の未開地にまでバラモンの居住地が拡大したことは、地方における農業の発展や政治システムの伝播につながったとされる。

 

文化

美術

グプタ朝時代に栄えた美術は、これまでギリシア文化の影響が色濃かったガンダーラ美術に代わり、純インド的な仏教美術として知られ、グプタ美術、または「グプタ様式」と呼ばれる。代表的なものとして、アジャンター石窟寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの仏像、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだサールナート派の仏像が知られる。これらの美術の中心は帝国の首都のあるマガダ地方ではなく、マールワーやサールナートといった地方であった。

 

文学

グプタ朝ではそれまで典礼言語として用いられていたサンスクリットを公用語化したため、サンスクリット文学は最盛期を迎え、二大叙事詩である『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』が今日の形をとるようになった。戯曲『シャクンタラー』や抒情詩『メーガ・ドゥータ』を著したカーリダーサのほか、戯曲『ムリッチャカティカー』の作者シュードラカも活躍した。

 

ヴァーツヤーヤナによる性愛書『カーマスートラ』は、当時の上流階級の生活をうかがうことができる。説話集『パンチャタントラ』は、インドのみならず東南アジアや西アジアの説話文学に影響を与えた。

 

言語でも、サンスクリット語の辞典『アマラコーシャ』をアマラシンハがまとめた。また、それまでプラークリットによるものも多かった碑文の言語が。この時期までには完全にサンスクリット化している。『マヌ法典』も完成した。

 

科学

グプタ朝時代には、特に天文学や数学や化学、医学において大きな進歩があった。アリヤバータは500年ごろ、グプタ朝の首都パータリプトラにおいて『アーリヤバティーヤ』(Aryabhatiya)を著し、西方からもたらされたギリシア天文学を完全にインド化するとともに、それ以後のインド天文学 (Indian astronomy) やインド数学の発展の基礎を作った。

 

その他

インド・デリーのクトゥブ・ミナール内にあるデリーの鉄柱は、碑文にチャンドラグプタ2世に比定される王名が刻まれていることから、グプタ朝初期に建造されたものと考えられている。この鉄柱はウダヤギリ石窟群の前に立てられていたが、13世紀にデリーへと移された。

出典 Wikipedia

2021/07/15

日本の宗教文化(1)

http://ozawa-katsuhiko.work/index.html

このページは「日本の神々と仏様たち」をテーマにしていますが、これは要するに「日本の宗教」を見るということになりますが、同時に「日本人」というものを考えてみようということになります。というのも、「日本的な精神」というものが「日本人の宗教観」のところにもっとも良く見えてくるからです。そういうわけで、このページはいわゆる「宗教学」的な解説というより、むしろ日本的精神に迫る「思想文化論」となってきます。

 

日本的精神の変遷・変容

現在の日本は、すっかり「欧米化」してしまっていますが、日本の文化の歴史を振り返ると、農耕民族としての日本人の持っていた「自然崇拝」、つまり自然そのものを「」として繁栄を祈願し、収穫に当たって感謝し、あるいは災厄の除去を祈るといったタイプの「祭儀・儀礼」を中心として「社会習慣、生活習慣」を形成していました。

 

というより、むしろ逆に農耕を生活習慣として、それが「家」から「氏族」に広がり社会化されて社会習慣となって、その習慣が人間の力ではどうにもならない「自然の力」に対しての「祈り、感謝、願い」といったものを中心としていたため、今日の文化分類では「宗教」とされる概念で説明されることになった、と言うべきでしょう。これが、後世「神道」などとして意識化されたのですが、この神道は複雑な展開となったため、本来の姿が見えにくくなっています。

 

 日本では、こうした「自然崇拝」の段階から、のちに「神道」とよばれる宗教形態へと進んだのですが、他方で先行文明である中国から「文字」を始めとして高度な中国文化を学んで、それを模範として文化を形成していくこととなりました。これが日本の世界の文化との接触の始めです。

 

 当時、その中国文化はインド由来の「仏教」を大きな文化としていたため、日本もこれを学ぶことになります。仏教の伝来は朝鮮経由ですが、これは多くの大陸文化の経緯もそうなります。朝鮮が「窓口」だったのです。

 

 こうして、日本もその文化が「仏教」化しました。初めは、奈良のいわゆる「南都六宗」が文化を代表して天皇・貴族すら凌駕する勢いに、天皇は京都に都を移してしまい奈良への対抗として「最澄の天台宗」「空海の真言宗」の勢力を大きくさせていきました。こうして、その後の日本の仏教文化はこの二つの宗派が源流となります。最澄と空海の二人とも中国に留学して、中国の仏教を学んで日本で広めたものです。


 こうして仏教が大きな勢力となったところで、在来の神道との関係が問題になりました。やはり神道は日本人の生活習慣そのものでしたから、これを廃棄することなどは決してできなかったからです。そこで仏教はこの神道を取り入れて、日本の神というものの本体は「仏」なのだという形で、二つを融合させていったのです。これを「神仏習合」と呼んでおり、日本の神というのは仏が日本の地に「仮に神の姿をとって現れたもの(これを「垂迹(すいじゃく)」説といい、こうした神の在り方を「権現」とよびます)としたのでした。こうして神道の方も仏教の影響を受けるわけで、日本的な自然崇拝の典型であった「山岳信仰」なども、仏教的な色彩を帯びて「修験道」が発達していきました。

 

 一方、先に受容していた中国の思想面での影響としては「儒教」の教えが中心となった思想が輸入され、日本的に展開しました。「朱子学」や「陽明学」などが、その代表的なものです。また一方で「道教」や「易」や「陰陽道」などの中国伝来の思想、あるいは「呪術」が発達していきました。

 

 こうして、幕末に至ったところで「西洋文化」が流入してきます。その西洋文化は、古代ギリシャ文化の再生という性格を持っており「哲学から人文系の学問」「民主主義を始めとした社会科学」も大きな成果だったのですが、むしろ近代科学の特色としての「自然を支配し利用する」という形で発展した「自然科学」の成果が目に見え、それは人間の欲望の充足として羨望の的となり、日本はこの追求に躍起となっていきます。いわゆる「西洋に追いつき追い越せ」という標語が、それになります。

 

 こうして「西洋文化の輸入」に邁進する日本ができあがり、政府は多くの留学生を欧米に派遣したり外国人教師を雇っていきました。これが現在にまで続いている日本社会の動向といえます。

 

しかし「科学だけ」というのは文化的に無理ですから、西洋文化の基盤となる「人文科学」「芸術」などの精神文化も学ばれていき、「学問」「芸術」などが西洋化していきます。医学なども「漢方」から「西洋医学」となり、芸術も「西洋絵画・彫刻」となっていきました。音楽も演劇も同様です。現在「琴・三味線」などやる人は特殊な人たちであり「ギターやピアノ」が音楽の主流です。演劇も「能・狂言」「歌舞伎」は文化的には認められていますが、一般的な鑑賞の対象にはならず「西洋的ドラマ」が主流となっています。

 

その近代西洋の精神は哲学的には「人間主義」であり、芸術の理念は「リアリズム(写実主義)」であり、これらは古代ギリシャ精神の受容から結果してきたものです。また近代特有の「功利主義」は近代西欧の特徴となります。日本は、これらを受け入れていったのです。

法華経(5)

近代

近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた教典である。島地大等編訳の『漢和対照妙法蓮華経』に衝撃を受け、のち田中智学の国柱会に入会した宮沢賢治(詩人・童話小説家)や、高山樗牛(思想家)、妹尾義郎(宗教思想家)、北一輝(革命家)、石原莞爾(軍人)、創価教育学会(創価学会の前身)を結成した牧口常三郎、戸田城聖(両者とも元教員)らがよく知られている。

 

一方で西欧式の仏教研究が輸入され、大乗非仏説も常識化していった。

 

1945年太平洋戦争での敗戦後、宗教の自由化によって、創価学会、立正佼成会といった日蓮系の教団が大きく勢力を伸ばした。

 

法華経は、女人成仏は可か否かなど一部の文言については進駐軍の意向もあり教学上、解釈の変更も一部の宗派では余儀なくされた。

 

経典としての位置づけ

文献学的研究者の立場

文献学的研究では、成立年代を釈迦存命時より数百年後する大乗非仏説論が強い。上座部仏教と大乗仏教の対立の止揚として、両者を融合させてすべてを救うことを主張するため作成されたと推測する説、龍樹の創作説、文中に登場する「法師」の創作説、西暦紀元前後、部派仏教と呼ばれる専従僧侶独占に反発する教団によって編纂されたと推測する説などがある。

 

法華経を所依の経典とする派の立場

法華経を所依の経典として重視する諸派は、法華経を、釈迦が晩年に説いたとする釈迦の法(教え)の極意・正法(妙法)と位置づける天台智顗の教説、五時八教を多かれ少なかれ継承している。

 

文献学的研究に対する反応

日本では、江戸時代に発行された富永仲基『出定後語』の影響に加え、西洋系の近代仏教学を導入した影響から大乗非仏説論が広く浸透した。

 

法華経の成立が、釈迦存命時より数世紀後だという文献学の成果に対し、日本の法華系教団では、釈迦の発言を継承していき後代に文章化したとする、釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承される課程で発展していったものとする、師の教義を弟子が継承し発展させることは、生きた教団である以上あり得ることから、後世の成立とされる大乗経典は根無し草の如き存在ではないとするなど、後世の経典もまた「釈迦の教義」として認める、という類の折衷的解釈を打ち出す傾向がある。さらに一歩進んで、非仏説論が正しくても問題ないロジックを組むべきという立場もある。

 

対して非仏説論に対抗すべきとの派閥もあり、例えば日蓮正宗は古来からの五時八教説を支持している。

 

近現代の研究者による評価

『法華経』への評価は、鳩摩羅什による漢訳本、サンスクリット本の両方とも高い。

 

書評家の松岡正剛は、法華経のエディターシップを激賞して

「法華経を読むと、いつも興奮する。/その編集構成の妙には、しばしば唸らされる。」「法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。」

と述べている。

 

昭和の仏教学者だった渡辺照宏は

「サンスクリット本について見ると、文体はきわめて粗野で単純、一見してあまり教養のない人たちの手で書かれた」

と批判した。これに対して、仏教思想研究家の植木雅俊は、サンスクリット原本から『法華経』を翻訳した経験を踏まえ、複雑かつ精妙な掛詞を駆使した「『法華経』編纂に携わった人の教養レベルの高さに驚かされる」と激賞したうえで、「(渡辺照宏氏が)何をもってそのように結論されたのか、首を傾げてしまう」と反論している。また、歴史に実在した釈迦が説いた「原始仏教」の平等思想や人間中心主義が釈迦の死後500年の間に〝小乗仏教〟教団によって改竄されており、思想的に見れば『法華経』こそ「仏説」であると植木は述べる。ただし植木は、『法華経』末尾の陀羅尼品や普賢品など後に付加されたとおぼしき部分には、迷信を好んだ古代の民衆へ布教するため、それまでの本編とは異質の呪術的思想が混入していることも指摘する。

 

鳩摩羅什の訳は近代学術の視点からすれば問題がある訳だが、創価学会などの日蓮系教団では鳩摩羅什による漢訳『妙法蓮華経』を正統とする。植木雅俊は『創価教育』で、昭和の日本で出版された岩波文庫版『法華経』には、サンスクリット本からの日本語訳も掲載されているが、誤訳が散見され、岩波文庫の誤訳の箇所を、鳩摩羅什による漢訳と比較すると、鳩摩羅什はサンスクリット文法を踏まえて意味を正確にとらえ、適切な漢訳を作ったことがわかるとしている。

 

社会学者の橋爪大三郎は、天台宗から鎌倉仏教が生まれたことを評価している。

2021/07/13

法華経(3)

方便品第二と如来寿量品第十六

『法華経』といえども異質の矛盾した思想があちこちに混入しているため、伝統仏教の一部流派では、迹門の方便品第二と本門の如来寿量品第十六(特に最後の自我偈の部分)を、『法華経』の真髄として重視した。例えば日蓮は、信者に対し、『法華経』の根幹は方便品と寿量品であり他の品はいわば枝葉なので、方便品と寿量品さえ読誦すれば他の品の教えは自然と身につく、と説いた。

 

法華経要品

『法華経要品訓読』の目次

『法華経』全体の文量は膨大であるため、主要部を抜粋した『法華経要品(ようほん)』も作られ、読誦や学習に利用されている。法華経のどの章の中から、どのくらいの長さの文章を選ぶかの取捨選択は、テキストによって若干の異同がある。

 

以下は、明治時代の『法華経要品訓読』の目次である。収録されている章について、その章の全文を載せているとは限らない。例えば「方便品第二」は冒頭の「爾時世尊・・・」から十如是までで、その後は割愛されている。

 

序品第一、方便品第二、欲令衆(※)、提婆達多品第十二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一、属累品第二十二、観世音菩薩普門品第二十五、陀羅尼品第二十六、妙荘厳王本事品第二十七、普賢菩薩勧発品第二十八、宝塔偈(見宝塔品第十一の偈文)

※「欲令衆」は、方便品第二・譬喩品第三・法師品第十・見宝塔品第十一からの抜粋を再構成したもの。

 

勤行での読誦

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』如来寿量品第十六・自我偈。よみがなや字句は、宗派により若干異なる。第83句「如意善方便」以下は、法華七喩の1つ「良医病子」を指す。

日本仏教の勤行での読経では、通常、上述の『法華経要品』に選ばれた章節の一部だけを重点的に読誦する。

 

日蓮正宗系の勤行では「方便品第二」(冒頭の十如是まで)と「如来寿量品第十六」(特に自我偈)を読誦するが、天台宗系の勤行では「安楽行品第十四」を読誦することが多いなど、宗派ごとに違いがある。

 

法華七喩(ほっけしちゆ)

法華経では、7つのたとえ話として物語が説かれている。これは釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化した様子に則しており、法華経の各品でも、この様式を用いてわかりやすく教えを説いたものである。これを法華七喩、あるいは七譬(しちひ)ともいう。

 

三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)

長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)

三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)

化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)

衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品)

髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)

良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

 

成立年代

中世においては、天台智顗の五時八教説により釈迦が晩年に説いたとされていたが、近代文献学に基づく仏教学によって紀元後に成立した創作経典であることが明らかにされている。その具体的な時期については、以下に述べる如く諸説ある。

 

代表的な説として、布施浩岳が『法華経成立史』(1934年)で述べた説がある。これは段階的成立説で、法華経全体としては3類、4記で段階的に成立した、とするものである。第一類(序品〜授学無学人記品および随喜功徳品の計10品)に含まれる韻文は紀元前1世紀ころに思想が形成され、紀元前後に文章化され、長行(じょうごう)と呼ばれる散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品〜如来神力品の計10品)は紀元100年ごろ、第三類(7品)は150年前後に成立した、とした。その後の多くの研究者たちは、この説に大きな影響を受けつつ、修正を加えて改良してきた。

 

20世紀後半になって、苅谷定彦によって「序品〜如来神力品が同時成立した」とする説が、また勝呂信静によって27品同時成立説が唱えられている。菅野博史は、成立年代特定の問題は『振り出しに戻った』というのが現今の研究の状況だ」と1998年刊行の事典において解説している。

 

奇説として、福音書由来説もある。

 

西北インドで西暦40年~220年ごろに成立したとする説

現行の『法華経』二十八品のうち、嘱累品第二十二までと、薬王菩薩本事品第二十三から以下の部分は、思想や内容から見て少々異質である。そのため嘱累品までが本来の『法華経』で、あとは後世の付加部分と考える研究者もいる。

 

中村元は「嘱累品第二十二までの部分は、西暦40年から220年の間に成立した」と推定した。

 

上限の40年については、信解品の《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家は出てこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した。

 

この点については、渡辺照宏も、「50年間流浪した後に、20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない」と述べている。

 

下限について、220年であると中村元が推定する理由は、『法華経』に頻出するストゥーパ建造の盛衰である。考古学的な遺物から見て、ストゥーパ建造の最盛期はクシャーナ朝のヴァースデーヴァ1世(英語版)の時代で、これ以降は急激に衰退している。

 

『法華経』の成立地域について、中村元や植木雅俊は西北インド説を主張している。『法華経』の守護神である鬼子母神の像はガンダーラ周辺で多数出土していること、方便品に登場するヤクや法師品の井戸掘りの描写など自然環境も西北インド的であること、授記がなされる理想の仏国土はきまって平地であること(これはインド西北部の山岳地帯の生活の苦労の裏返しであると考えられる)、妙荘厳王品にアフガニスタンで出土する立像と類似した描写があること、など、数々の状況証拠から、『法華経』はインド東部のガンジス河流域の低地ではなく、インド西北部の高地で成立したと考えるのが自然であるとする説である。

 

ユーラシア大陸での法華経の流布

この経は日本に伝わる前、ユーラシア大陸東部で広く流布した。先ず、インドに於いて広範に流布していたためか、サンスクリット本の編修が多い。羅什の訳では真言・印を省略する。添品法華経ではこれらを追加している。

 

またチベット語訳、ウイグル語訳、西夏語訳、モンゴル語訳、満洲語訳、朝鮮語(諺文)訳などがある。これらの翻訳の存在によって、この経典が広い地域にわたって読誦されていたことが理解できる。チベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパは主著『菩提道次第大論』で、滅罪する方便として法華経を読誦することを勧めている。

 

ネパールでは、九法宝典(Navagrantha)の一つとされている。

 

中国天台宗では、『法華経』を最重要経典として採用した。中国浙江省に有る天台山国清寺の智顗(天台大師)は、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』を所依の経典とした。

ユダヤ人(ヘブライ神話17)

民族性

歴史上、ヨーロッパのキリスト教社会で多くの中傷や迫害を受けたが、現在でもユダヤ人は民族(コミュニティ・ユダヤ教徒)として存続している。

 

ユダヤ教徒は、教義上イエス・キリストをメシアと認めなかった。また、イエスはユダヤ人によって十字架にかけられたという俗説が古代から中世にかけて流布し、ユダヤ人は「神殺し」(イエス殺し)の汚名を着せられていた。こうした宗教的な理由や、ユダヤ人はキリスト教社会で疎まれていた金貸しが多かったという経済的理由が、歴史的な反ユダヤ感情の要因としてしばしば挙げられる。

 

18世紀頃から宗教的迫害が薄れていったことで、ユダヤ人は自由な信仰、活動が可能になり、さまざまな商工業分野でユダヤ人が活躍するようになった。近現代には、企業の創業者や科学者を多数輩出している。

 

ユダヤ人はタルムードに従って行動すると思われているが、それはラビ的ユダヤ教徒の場合に限られる。ただし、一般的なユダヤ人の宗教はラビ的ユダヤ教である。

 

ユダヤ人は、何よりも学問を重視すると言われる。紀元70年にローマ軍によりイスラエルが一度滅びた時も、ラビ・ヨハナンが10人が入れる学校を残すことを交渉し、ローマ皇帝ティトゥスがこれを許したため、ユダヤ人は絶滅を免れた。

 

今では最も知的な民族集団の一つと考えられており、民族別知能指数では世界で最も高く、一例としてノーベル賞の22%、フィールズ賞の30%、チェスの世界チャンピオンの54%がユダヤ人であるとも言われる。カール・マルクス、ジークムント・フロイト、クロード・レヴィ=ストロースなど、近現代の哲学・思想方面のキーパーソンを輩出しているほか、音楽業界にもユダヤ人が多いことが知られている。

 

ドイツを中心とした地域に住みつき、中欧・東欧へ拡散したユダヤ人は、アシュケナージ(アシュケナジム)と呼ばれ、ドイツ語の方言であるイディッシュ語を話していた。近代のドイツ語圏では、彼らはある程度ドイツ文化に同化してドイツ語を使用するようになった。

 

中世前期のヨーロッパでは、ユダヤ人は農業、商業、職人などさまざまな職業に従事することができた。カロリング朝では、ユダヤ人は聖書の民として保護され、11世紀頃までは国際的な交易の担い手でもあった。イタリア商人に東方貿易のお株を奪われると、ユダヤ人は消費貸借専門の貸金業に活路を見出した。

 

中世後半期には、土地所有の禁止、ギルドからの締め出し、公職追放等により次第にユダヤ人の活動は制限されるようになり、農業や手工業に従事することが困難になったユダヤ人は、質屋、両替商、黄金の管理人、古物商、行商や市場での無店舗販売、芸能などで生計を立てていた。

 

また、世界的に散らばり、独自の情報ネットワークを持っていた。アルトゥル・ショーペンハウアーは「フランクフルトでユダヤ人の足を踏んだら、モスクワからサンフランシスコまで情報が行き渡る」と指摘していた。こうしたことから、現在でもユダヤ人にはメディア関係が多いとされる。

 

またロスチャイルド家は、銀行業で成功したユダヤ系財閥として知られる。19世紀末のアメリカ合衆国のユダヤ系移民もまた、金融やメディア、流通業等の間隙的な業種以外の業界への参入が難しかった。ハリウッドの映画産業には、ユダヤ人が創業したものが多い。

 

スファラディ(セファルディム)系ユダヤ人は、オスマン帝国圏やスペイン・フランス・オランダ・イギリスなどに多く、かつてはラディーノ語を話していた。キリスト教に改宗した人々は、マラーノと呼ばれた。

 

アシュケナージや、スファラディといったヨーロッパに移り住んだユダヤ人に対して、中東地域、アジア地域に移り住んだユダヤ人はミズラヒム(ミズラヒ)と呼ばれていた。

 

ほかにもイラン、インド(主に3集団)・中央アジア・グルジア・イエメン・モロッコなどを含んだ大きな観念であるミズラヒム、カライ派・カライム人、中国、ジンバブエなどのユダヤ人のほか、インド(ミゾ族(英語版))・ウガンダ(アバユダヤ)・アメリカ黒人(ブラック・ジュー)などの新たな改宗者、イスラエル建国はメシア到来まで待つべきだとするサトマール派・ネトゥレイ・カルタ、キリスト教関連のメシアニック・ジュダイズム、ネオ・ジュダイズムなど、多くの分派もある。エチオピア・ベルベルのユダヤ人は孤立して発展し、タルムードを持たない。

 

現在、世界に散らばるユダヤ人は、全てがユダヤ教徒というわけではないが、ユダヤ人にとってユダヤ教は切り離せない宗教である。

出典 Wikipedia