2019/06/30

武帝の晩年 ~ 前漢(6)


武帝の軍事行動で、もうひとつ有名なのが汗血馬です。張騫の情報に中央アジアの大宛(だいえん)という国の話があって、この国は汗血馬という名馬の産地だというんだ。遊牧民の匈奴と戦うにしても、ぜひ名馬は欲しい。外交交渉で汗血馬を手に入れようとしたんですが、大宛に断られてしまったので力ずくで奪いにかかった。

 李広利という将軍が、大宛遠征に派遣されました。6万の軍を率いて出陣するんですが、苦戦して数年かかって帰ってきた。兵士はわずか1万に減っていたというから、どれだけ厳しい戦いだったか想像できるね。ただ、かれらは3000頭の汗血馬を連れてきたんだ。これを増やして、匈奴との戦争に利用したんでしょう。

 汗血馬というのは、どんな馬だったのか。足と尻尾を振り上げて、いかにも速そう。この汗血馬が、のちに西アジアに伝わってアラブ馬になった。さらにこのアラブ馬が、ヨーロッパに運ばれてイギリスで在来種とかけあわされてサラブレッドが誕生した。というわけで、やっぱり速かったわけだ。東方にも進出している。朝鮮半島方面には、衛氏朝鮮という国があった。これは、漢民族が建てた国だったようですが、これを滅ぼして楽浪郡など四郡をおきます。南方でも、南海郡など九郡を設置しました。

武帝は、このように東西南北で軍事行動を積極的に行って領土を拡大した。なによりも劉邦以来の発展によって蓄えられた国庫が、彼の政策を支えた。しかし、あまりにも積極的に戦争をしたので、財政難になってしまった。そこで、内政面で色々な財政政策をおこないました。

 均輸法平準法。物価調整をかねた、政府の増収策と説明されます。中国は広いのでA地方では豊作で穀物価格が安い、B地方は凶作で穀物価格が高騰している、ということがある。こういう時に政府がA地方で安く穀物を買い付けて、B地方で時価よりは安い価格で販売する。これが均輸法の理屈です。

 平準法は、同じことを時間軸でおこなう。穀物の安い時に政府が買い付けておいて、高いときに販売する、というわけです。理屈は簡単だけれど、実施するのは簡単ではない。情報収集とか、穀物の管理輸送とか、中央集権的に官僚制度がゆきとどいていないとできるものではない。武帝の時代は庶民出身の者でも、大臣に上りつめたりしています。武帝の政策と無関係ではないと思う。能力を重視したんだろうね。

 塩、鉄、酒の専売制。専売制というのは政府が製造、販売を独占して、民間業者に販売させないことです。塩は必需品ですから、政府から買うしかない。政府もうかる、という理屈。これらの政策は、前漢以後も多くの王朝によって試みられる財政政策の先駆けとなった。そういう意味でも、武帝の時代は重要です。その他、増税や、貨幣改鋳もおこないました。

内政としては、これ以外に儒学の官学化が重要。董仲舒(とうちゅうじょ)という学者の献策をうけて、太学という官立学校をつくり五経博士という先生に儒学を教えさせた。優秀な学生を官僚としました。武帝の時代になると、宮廷には儒家に対するアレルギーはないからね。武帝は幼い時から儒家が好きです。

 官吏登用制度としては、郷挙里選という制度もおこなわれました。郷挙里選という言葉は「郷里」と「挙選」という言葉を組み合わせたもの。「挙選」は「選挙」と同じです。地方の役人が地元の有力者の推薦をうけて、儒学の素養があり地元の評判のいい者を中央に推薦する。中央政府は、その者を官僚に採用する。そういう制度です。地方の「郷里」で「選」んで中央に「挙」げる。だから、郷挙里選という。この制度で中央に推薦される者は、結果として地方の有力者、豪族の師弟であることが多かった。この点は覚えておいてください。

煌びやかな武帝の時代でしたが、その晩年は後継者で悩んだ。後継者争いで、皇太子が無実の罪で殺されたりする。死刑にしたのは武帝なんですが、あとで無実を知るんだね。最後は、失意の中で武帝は死んだかもしれない。武帝の死とともに、前漢の最盛期は終わります。

2019/06/29

プラトン(3) ~ 「政治学・法学」

プラトンが若い頃から一貫して政治・国制・法律に対する強い関心を持ち続け、晩年に至るまでその考察を続けていたこと、また彼にとって政治と哲学は不可分な関係にあり、両者の統合を模索し続けていたことは、彼の一連の著作の内容や『第七書簡』のような書簡の文面からも明らかである。

アテナイにおける三十人政権や、その後の民主派政権の現実を目の当たりにして、現実政治に幻滅し直接関わることは控えていたが、そんな30代で書いた初期の『ソクラテスの弁明』『クリトン』でも、既に国家・国制・法律のあるべき姿を描こうとする姿勢が顕著であり『ゴルギアス』においては、真の「政治術」とは「弁論術」(レートリケー)のような「迎合」ではなく「国民の魂を善くする」ことであらねばならず、ソクラテスただ1人のみが、そうした問題に取り組んでいたのだということを描き出している。

このように、プラトンは当初から政治と哲学の統合を模索しており、中期以降に示される「哲人王」思想や、後にアカデメイアの学園として実現される同志獲得・養成の構想を、この頃既に持っていたことが『第七書簡』でも述べられている。そして第一回シケリア旅行にて、シュラクサイのディオンという青年に出会い、彼に自分の思想・哲学を伝授したことをきっかけとして、後にシュラクサイという現実国家の改革(及び内紛)にも、実際に携わっていくことになる。


プラトンの著作の中で、群を抜いて圧倒的に文量の多い二書、10巻を擁する中期の『国家』と12巻を擁する後期末の『法律』、この二書はその題名からも分かるように、いずれも国家・国制・法律に関する書である。こうしたところからも、プラトンがいかにこの分野に強い志向・情熱を持っていたかが伺える。

この二書はいずれも「議論上で、理想国家を一から構築していく試み」という体裁が採られている。

『国家』では「哲人王」思想が披露される他、「優秀者支配制」(アリストクラティア)、「名誉支配制」(ティモクラティア)、「寡頭制」(オリガルキア)、「民主制」(デモクラティア)、「僭主独裁制」(テュランニス)という5つの国制の変遷・転態の様を描いたり「妻女・子供の共有」や俗に「詩人追放論」と表現されるような詩歌・演劇批判を行っている。


なお『国家』と『法律』の中間には、両者をつなぐ過渡的な対話篇として、後期の『政治家』がある。ここでは現実の国制として

「王制」(バシリケー) - 法律に基づく単独者支配
「僭主制」(テュランニス) - 法律に基づかない単独者支配
「貴族制」(アリストクラティア - 法律に基づく少数者支配
「寡頭制」(オリガルキア) - 法律に基づかない少数者支配
「民主制」(デモクラティア) - 多数者支配(法律に基づくか否かでの区別無し)

が挙げられ、上記の諸国制とは異なる知識・技術と善への志向を持った「哲人王」による理想政体実現の困難さ、法律の不十分性と有用性、上記の現実的国制の内、法律が順守された際には「単独者支配」「少数者支配」「多数者支配」の順でマシな体制となり、逆に、法律が軽視された際には「多数者支配」「少数者支配」「単独者支配」の順でマシな体制となる

      法律遵奉時          法律軽視時
最良単独者支配(王制)   多数者支配(民主制)
中間少数者支配(貴族制) 少数者支配(寡頭制)
最悪:多数者支配(民主制) 単独者支配(僭主制)

などが述べられ、現実的な「次善の国制」が模索されていく。
 
『法律』では、その名の通り専ら法律の観点から、より具体的・実践的・詳細な形で各種の国家社会システムを不足なく配置するように、理想国家「マグネシア」の構築が進められる。第3巻においては、アテナイに代表される民主制と、ペルシアに代表される君主制という「両極」の国制が、いずれも衰退を招いたことを挙げ、スパルタやクレタのように両者を折衷した「混合制」が望ましいことが述べられる。

10巻においては、無神論批判と敬神の重要性が説かれる。最終第12巻では国制・法律の保全と、それらの目的である「善」の護持・探求のために『国家』における「哲人王」に代わり、複数人の哲人兼実務者から成る「夜の会議」が提示され話が終わる。

なお、アリストテレスは『政治学』の第2巻において上記二書に言及し、その内容に批判を加えているが、他方で「善」を国家の目的としたり、プラトンを踏襲した国制の比較検討をするなど、プラトンの影響も随所に伺わせている。

教育論
プラトンにとって、哲学・政治と密接に関わっている教育は重大な関心事であり、実際40歳にしてアカデメイアに自身の学園を開設するに至った。

プラトンの教育論・教育観は『国家』の2-3巻、6-7巻、及び『法律』の7巻に典型的に描かれているが「徳は何であるか、教えうるのか」「徳の教師を自認するソフィスト達は、何を教えているのか」等の関連論も含めれば、初期の頃からほぼ全篇に渡って、教育論が展開されていると言っても過言ではない。

総じて言えば、数学・幾何学や問答法(弁証法)を中心とした「善のイデア」を見極めていける・目指していけるようにする教育、それをプラトンは国の守護者、指導者、立法者であるべき哲学者たちに必要な教育だと考えており、アカデメイアでもそうした教育が行われていた。


また『第七書簡』においては、ディオニュシオス2世が半可通な理解で哲学の知識に関する書物を著したことを批判しつつ「師資相承」のごとき、いわゆる「知の飛び火」論が展開されている。哲学(愛知)の営みが目指している真実在(イデア)へは「名辞」(オノマ)、「定義」、「模造」、「知識」の4つを経由しながら接近していくことになるが、これらはどれも真実在(イデア)そのものとは異なる不完全なものであり「言葉」や「物体」を用いて、対象が「何であるか」ではなく「どういうものであるか」を差し出すものでしかない。そして、それらはその脆弱さゆえに、論駁家によって容易に操縦されてしまうものでもある。

したがって、哲学(愛知)の営みが目指している真実在(イデア)に関する知性は、教える者(師匠)と教えられる者(弟子)が生活を共にし、上記の4つを突き合わせ、好意に満ちた偏見も腹蔵もない吟味・反駁・問答が一段一段、行きつ戻りつ行われる数多く話し合いによって、初めて人間に許される限りの力を漲らせて輝き出すし、優れた素質のある人の魂から、同じく優れた素質のある人の魂へと「飛び火によって点じられた燈火」のごとく生じさせることができるものであり、いやしくも真剣に真実在(イデア)を目指し、そうしたことをわきまえている哲学者(愛知者)であるならば、そうした特に真剣な関心事は、魂の中の最も美しい領域(知性)にそのまま置かれているし、それを知っていると称して、みだりに「言葉」という脆弱な器に、ましてや「書かれたもの」という取り換えも効かぬ状態に、それをあえて盛り込もうとはしない、というのがその論旨である。

同じ主旨の話は『パイドロス』の末尾においても述べられている。
出典 Wikipedia

2019/06/28

闇の神々2(ギリシャ神話58)



眠りのヒュプノスと夢のオネイロス
 この「眠りヒュプノス」は、ホメロスの『イリアス』の中で面白い一場面を作っているので知られているが、それはトロイ戦争でギリシャ方に味方している女神ヘラが、とりあえずトロイ方を優位にさせているゼウスを騙して愛のベッドに誘って眠らせてしまい、その間にギリシャ方を優位にさせてしまう場面で、ヘラはゼウスを寝入らせるために眠りの神に手助けを頼むのであった。

しかし、かつて似たようなことでゼウスを眠らせ、そのおかげでこっぴどい目にあった経験から、それを断ってくるヒュプノスに対して、ヘラは「優美の女神カリス」の一人を妻にしてあげるからといってついに協力させてしまう場面となる。人のいい眠りの神だが、実際ヘシオドスでも、この眠りの神は大地と海原を穏やかに行き来し人間どもに優しい、と歌われている。確かに眠りは疲れを取り、苦労を一時でも忘れさせてくれる。この神が人間的姿で描かれる時は、眠たそうな眼差しをして、額のところに翼を持ち眠りのシンボルであるケシの実か眠りの角を手にしている。

 その兄弟が「夢のオネイロス」で、彼は「夢の館」にいるのだが、その館には門が二つあり、一つの門は象牙の門でそこから出てくる夢は偽りを語り、一方角の門から出た夢は真実を語るとされる。つまり夢というのは、ギリシャに限らず夢占いとして人々に馴染みで、日本でも正夢といった言い方があるのと同じである。

争いの女神エリス
 この女神も、夜ニュクスの子どもとなる。この女神については、トロイ戦争伝説の発端となる「三美神の争い」の種を蒔いた女神として知られている。すなわち、女神テティスと人間の英雄ペレウスの結婚式ということで、すべての神々も招待されて出席していたのだが、彼女だけは招待されていなかった。

「争いの女神」だから当然ではあるが、しかしそれでおとなしくしているわけもないのが争いの争いたるゆえんで、彼女はその結婚式に黄金のリンゴを投げ入れ、それには「最も美しい女神へ」と書かれていたというわけである。

これは女性の間で争いを生むには、絶対的な言葉であった。しかも、神々には謙譲の美徳などというものは全く存在しないから、当然「」を自分のものとしている女神たちが名乗りをあげる。それが成熟した家庭婦人の持つ円熟の美を管轄する主神ゼウスの妻ヘラと、若い女性の知性的な美を持つとイメージされる女神アテネと、セクシャルな女性の美の女神アフロディテであった。そして争いになったところで、その審判としてトロイの王子パリスが選ばれ、このパリスはアフロディテが約束した「絶世の美女」という賄賂につられてアフロディテを選んでしまい、そのためギリシャのスパルタの王妃であったヘレネを籠絡してしまったところからトロイ戦争になってしまったわけである。

こうしてエリスは三女神の間の争いだけではなく、ギリシャとトロイの間での争いを生み出したわけで、争いの女神はここまでの強い力を持っているのであった。

迷妄・破滅の女神アテ
 この女神もしばしば登場してくる女神であるが、ホメロスの『イリアス』でも総大将アガメムノンがアキレウスに対して理不尽な言動を働いたところからアキレウスを怒らせてしまう。おかでアキレウスが戦陣から引いてしまったおかげであわや敗北という瀬戸際まで追い込まれてしまった事態があった。

その事態に対して、アガメムノンは「女神アテの仕業だ」と弁解している場面などがでてくる。要するに「とんでもない考え違い、自分勝手な主張、迷妄」とそこから引き起こされてくる致命的な過ち、そしてそれに基づく破滅を象徴している女神と言える。

ギリシャでは通常の常識的レベルを超えた様々の事柄は、わけがわからない故に神々の仕業としたわけで、こうした迷妄・錯誤もそうしたものとされていたわけである。日本での「魔が差した」に近い感覚があるのかもしれないが、それよりもっと強い。

2019/06/26

武帝の時代 ~ 前漢(5)


  第七代目が武帝(前141~前87)です。16歳で即位して、50年以上在位しました。中国史上の名君のひとりです。

 建国後約60年、大きな戦争もなく国庫は豊かになっているし、中央集権化も完成している。彼の時代が、前漢の最盛期になりました。

 漢は劉邦以来、匈奴に対して和親策をとっているのですが、匈奴はしばしば長城を越えて中国内地に侵入して、略奪を働いている。そこで、武帝は対匈奴戦争を積極的に行いました。ところが匈奴は遊牧民族ですから、漢の軍隊が彼らの勢力範囲に出撃しても、なかなか捕まらない。また、決定的な打撃を与えることができないのです。漢軍は基本的に歩兵ですからね、機動力ではかなわない。

 何かいい手はないかと思案していると、匈奴の捕虜から大月氏の情報が入った。中国の王朝の領域よりも西の地方を漠然と「西域」というんですが、そこに月氏という国があった。ところがこの国が匈奴に攻撃されて、さらに西の方面に移動したという。移動後を大月氏国というんですが、この国は匈奴に対して恨みを持っているという。

 そこで、武帝は大月氏国と同盟を結んで、東西から匈奴を挟み撃ちで攻めようと考えた。スケールの大きな作戦ですね。ただ、同盟を結ぶためには使者を派遣しなければならない。ところが、宮廷の誰も使者になりたがらないんです。『西遊記』知ってるでしょ。孫悟空が活躍して妖怪をやっつける話。妖怪たちが三蔵法師を食べようと、次々に襲ってくる。唐の時代の玄奘というお坊さんのインド旅行をもとにした話ですが、妖怪たちが登場する舞台が西域です。中国人にとって、西域はそういう魑魅魍魎の跋扈する恐ろしい世界だったんです。そんなところへいって、生きて帰れるとは誰も思っていない。

 その、誰もいきたがらない西域への旅に志願した男がいた。それが張騫(ちょうけん)です。武帝、張騫がなかなかの人物と見込んで、彼に百人以上の部下をつけて送り出しました。これが前139年のことです。

 張騫は漢の領土から西域地方に踏み込んだとたんに、匈奴のパトロール隊に見つかってしまった。殺されることはなかったんですが、そのまま捕虜になって匈奴人とともに生活することになった。匈奴人の奥さんまで貰って子供もできた。匈奴からしたら、漢の情報源として貴重だったのかもしれません。脱走しないように監視も厳しかったらしい。10年間匈奴で暮らしたんだから、すっかり匈奴人だね。そのまま10年あまり経ったとき、隙を見て妻子と従者を連れて脱走した。凄いのが漢に帰らないで大月氏国へいったところで、あくまでも武帝の使命を果たそうとしたのです。

 大月氏へ到達した張騫は漢との同盟を申し入れますが、大月氏の王様からすれば張騫の申し出は危険だね。なにしろ張騫が漢の武帝から送り出されてから、10年以上経っている。武帝という皇帝が現時点で生きているかどうかもわからない、生きていても今も匈奴討伐を考えているかどうか、なんの確証もないわけでしょ。使者ひとりが漢から大月氏に来るまでに10年かかっているわけで、常識的に考えて同盟を結んでも共同作戦が組めるはずがない。そして、なによりもこの時の大月氏国は豊かな土地に住みついていて、今さら匈奴に復讐して元の領土を取り戻す気持ちなんて、さらさらありませんでした。

 張騫は大月氏国に一年ほど留まるのですが、結局同盟は諦めて帰国の旅に出ます。この帰り道でまた、匈奴の部隊に捕まって捕虜になってしまうんです。そして、この時は匈奴内部の混乱があって、その隙をついてまた脱走します。

 前126年、出発から13年後、張騫はようやく長安に帰り着いた。百人以上いた従者は、一人になっていました。それと匈奴人の妻子を連れていた。とっくに死んだと思っていた張騫が帰ってきたのですから、武帝は大喜びだ。張騫は、すっかり英雄扱いです。大月氏との同盟はできませんでしたが、張騫は10年以上も西域生活をしているでしょ。匈奴や西域諸国の情報通なわけ。武帝は、その情報をもとに匈奴に対して攻撃をかけました。

対匈奴作戦で大活躍した将軍が二名。衛青(えいせい)と霍去病(かくきょへい)です。叔父さんと甥の関係です。衛青は姉さんが武帝に愛されて、その関連で出世のきっかけをつかんだんですが、将軍としての才能があったんだね。若い時から大活躍してどんどん出世していった。

 彼らの活躍で、匈奴は勢力が衰えていきました。地図を見ると匈奴は非常に広い地域を勢力下においていますが、その支配下には色々な遊牧部族やオアシスの都市国家がはいっています。領土に住んでいるのが、すべて匈奴人というわけではない。地図は匈奴の勢力範囲を描いてあるだけです。だから、漢の積極的な軍事行動で、匈奴から漢に乗り換える部族や都市も段々増えてきたし、やがては匈奴の内部でも内輪揉めが起きて、漢に服属するグループも生まれてきました。

 張騫も再び西域にいって、東西交易路上のオアシス諸都市を漢の支配下に置いた。だから武帝の時代に、漢の領域は西にぐっと張り出すようになっているね。西域方面に敦煌郡など、四郡を新たにおいています。