2016/10/30

【須佐之男命御啼伊佐知の段】『古事記傳』

神代五之巻【須佐之男命御啼伊佐知の段】本居宣長訳(一部、編集)

言(もうしたまわく)は、伊邪那岐命に請い願ったのである。だから書紀では、先にこのことを書き、後に「幽宮を造って云々」と書いてある。ところがこの記では、先に「淡海云々」と伊邪那岐命のその後のことを語って後に、この言が出てくるので事の順序が違うように見えるが、そうではない。以下の「すぐに天に参上した」というところへ続けるためである。こうした例は、この記にはところどころにある。

 

○請は「もうして」と読む。【書紀の雄略の巻にも、同様に読むところがある。】

 

○参上は「まいのぼります」と読む。高津の宮(仁徳天皇)の歌に「麻韋久禮(まいくれ)」【参来である。】、万葉巻十八【二十七丁】(4111)に「麻爲泥許之(まいでこし)」【参出来である。】などの例がある。【これを「い(旧仮名ゐ)」を「う」のように言って、参上を「まうのぼる」、参来を「まうく」、参出を「まうで(もうで)」などと言うのは、後に音便で崩れたのである。今まで崩れずにいるのは参入「まいる」だけである。】万葉巻六【三十六丁】(1022)に「参昇八十氏人乃(まいのぼるヤソうじひとの)云々」とある。

 

○山川(やまかわ)は山と川である。【山にある川の意味ではない。】「か」は清んで読む。

 

○國土は、山川との対句なので二字に書いているが、二つのものでなく単に地のことを言う。「くにつち」と読む。【この二字で「くに」と読むべきところもあるが、ここは「くにつち」と読むのが良さそうだ。】後の文には「天詔琴拂レ樹而地動鳴(あめのノリコトきにふれて、つちとどろき)」ともある。

 

○震は「ゆりき」と読む。【「き」は助詞である。】書紀に「地震(ナイふる)」とあり「ふる」とも読めるが、武烈の巻の歌に「始陀騰余瀰、那爲我輿釐據魔(したどよみ、ナイがよりこば)」【「下動、地震来者」である。】とあるので、やはり「ゆる」の方が古言のようである。【「與」と「由」は互いに通用することが多い。】今の言でも、そういう言い方をする。このところ、書紀には「溟渤以之鼓盪、山岳爲之鳴ク(口+句)、此則神性雄健使之然也(おおきウミゆすり、やまオカとよみき、コはカムサガのたけくてシカありしなり)≪口語訳:大海に大波が立ち、山や丘は鳴り響いた。これは神性が強烈だったからである≫」と書かれている。

 

○聞驚は「ききおどろかして」と読む。【「き」を延ばして「かし」というのは、例によって古言の一つの活用である。人を驚かすのとは違う。】この言葉は、記中にところどころある。「見驚(みおどろく)」、「聞喜(ききよろこび)」、「見喜(みよろこび)」などの言い方もある。すべて古言である。

 

○我那勢命(アがナセのミコト)は前にも出た。【ここで書紀に「吾弟」と書いてあるのは、漢文である。】

 

○善心は字のままに読むこともできるが、やはり師が「うるわしきこころ」と読んだのが良い。【すぐ後に「汝の心の清明(あかき)」とあるので、ここも「あかき」と読んでも良さそうだが、書紀ではその部分を「汝の赤心」、「汝の心の明浄」と書き、一方ここの「善心」を「善意」とか「好意」と書いているので、両者は別の意味のようである。】この「うるわしき」は、書紀の神代の下巻に「友善」とある。【この記には「愛友」とある。】善という字の意味であって【漢籍でも、古くからこういう場合の「善」の字は「うるわし」と読んでいる。】人の交わりが睦まじく、異心がないことを言う。

 

○我國(わがくに)とは、高天の原を言う。【その理由は前に述べた。】

 

○奪。万葉巻五【十九丁】(850)に「有婆比弖(うばいて)」という言葉がある。この一句全体は「アがクニをうばわんとオモオスにコソ」と読む。耳の字を「こそ」と読む理由は、一之巻【六十三葉】で述べた。ここで例に引くのは畏れ多いが、書紀の神武の巻で「長髄彦がこれを聞いて『天神の子がやって来たのは、きっと私の国を奪おうとしてのことに違いない』と言った」というのと、よく似ている。

 

○御髪は「みかみ」と読む。【古い書物では、どれも「みくし」という読みをしている。中古の書物にも「おおんぐし」とあり、今でも「おぐし」と言う。しかし、これは櫛から転化した名称だろう。そのことは前にも論じた。】上代の女の髪は、師の万葉の註に詳しく述べられている。ところがここで「髪を解き」とあるのを、書紀では「髪を結(あげて)」とある。「解」と「結」では大きく違う。

 

そこで更に考えると、女は普通成長すると髪をあげるのが上代からの風儀だったのだが、飛鳥浄御原宮(天武天皇)の御宇十一年の詔に「これより以降は、男女ともに髪を結(あ)げよ」とあるのを考えれば、上代に髪をあげるというのは頭の後ろで束ね結わえて、髪の端は後ろへ垂らしていたのだが、その詔でいう「結」とは、頭上で結わえ束ねて、いわゆる髻(もとどり)という形にするのだろう。【髻は、一つに結わえるのである。男の二つに分けた「みずら」とは違う。】

 

ところで同じ十三年には「年齢四十歳以上の女は、髪をあげるもあげないも、本人の意志に任せよ」と言う。同十五年(朱鳥元年)には「女どもの髪は、昔からの習わしのように背に垂らす形にせよ」というのは、また上代からの髪型に戻す詔勅である。だからこの詔勅の後にも、万葉に「髪をあげる」ことを多く歌っているのは、後ろで結んでいたのであろう。背に垂らしていたのなら、詔勅には違反しない。つまりここで「解き」とあるのは、その本で結んであるのを解いたのである。【神功皇后が「髪を解いて」とあるのも、この意味である。それをある説でこの「解」を「わけ」と読んで、「三山の冠の形を真似た」などと言っているのは、こじつけである。】

 

書紀に「あげて」とあるのは、垂らした髪の末をあげるのである。そう読めば、これほど言葉は違っていても、実は同じことをいっており、違いはない。【よく注意しないと、思い惑うものである。】

 

○纒は「まかし」と読む。【「き」を延ばして「かし」と言うのは例の古言。】髪を分けて結い、みずらにしたことを言う。ここから「蹈建而(ふみタケビて)」までは、仮に男装したのである。【もっとも、玉を纏くのは、男だけではない。また猛々しい装いでもない。これは、尊く厳かな形を表すため、美玉などをまとったのである。】

 

○御鬘(みかづら)についても記述した。【伝六の十九葉】

 

○御手に玉を纏うことは、前記の御頸玉のところでも述べた。書紀の仁徳の巻に、雌鳥皇女の手玉(たたま)が、名高い良玉だったという記事があり、万葉巻三【四十七丁】(424)に「泊瀬越女我手二纒在玉者(ハツセおとめがテニまけるタマは)云々」などとある。

 

○各は「みな」と読む。

2016/10/28

調理と地域性(農林水産庁Web)

日本人が毎日食べてきた日常の食事は、近代以降、基本形を残しながらも少しずつ変化していく。江戸時代の大名の日常の食事例をみても、ご飯と汁に煮物が一品か二品あり、時にはその一品が焼き物や和え物になるなどの変化はあるものの、これに香の物が加わった一汁一菜か二菜の食事構成で魚介類の使用も多いとはいえない。一般の人々の日常食は、さらに簡素なものであったと考えられるので、調理法を特別学ぶ必要もなく、家庭内で伝えられれば、それ以上特別の技術は必要とされないほど単純なものであったといえよう。

 

しかし近代以降、欧米の影響により日常食を重視する考え方が、料理書や学校教育において採り入れられるようになり、これに栄養学の発展も加わると、まず都市部において少しずつ日常の食事が変化する。第二次世界大戦による飢餓経験を経て、戦後の高度経済成長期初期には、日本人の食生活はバランスの取れた食事とされ「日本型食生活」と称された。このような食事を作り上げてきた、日本の家庭における調理と地域の特徴についてみることにしたい。また地域の郷土料理、行事食などについても、その特徴について検討したい。

 

I 日常食の特徴

1 .食事構成の特徴

本膳料理や懐石料理の食事の形である、飯・汁・菜(おかず)・香の物(漬物)の構成は日常食の構成としても定着し、近代以降には「菜」の部分が次第に多様化するとともに、種類数やその量も増加する。これらは都市部での食事であり、山間部などでは、夕食が手打ちうどんなどになり食事構成が異なるものもみられる。また大阪の朝食がお茶漬けになっているが、時には粥の食事もみられる。これは111日分の飯を炊く習慣があった江戸時代に、江戸では朝に温かい飯を食べ、大坂では昼に温かな飯を食べるという違いがあり、翌朝は固くなった飯を食べやすくする工夫の一つとして茶漬けや粥を食していた。この習慣が、近代以降にも引き継がれた結果であろう。

 

近代以降、給与所得者が増加すると学校に進学する人たちが増え、昼食に弁当持参の習慣も定着する。名古屋の例では、女学校の弁当は麦飯または白飯、佃煮、漬物の組み合わせである。東京の例では飯、のり、鮭やたらこ、または卵焼き、煮豆、佃煮など一品か二品の弁当で、いずれも主食におかずと漬物などで構成されている。 しかし、女学校ではあんパンやサンドイッチの弁当も流行し、シチュー、コロッケ、ライスカレーなど洋風の料理も食卓に上っている。

 

これらから見ると、昭和初期の各地の都市部では西洋料理の影響を受けた和洋折衷の食事が、日常食にも広がっていたことを窺うことができる。しかし、パンと洋風の食事構成は殆どみられない。飯を主食としながらも、おかずに洋風料理を組み合わせるなど、副食に関心をおくようになった。

 

197080年代には、副食の種類やその量、使用する食品の種類数も増加して、バラエティーに富む食事構成となり、一方で伝統的な日本の食事の基本形も残されている食事が増加した。沢村貞子『わたしの献立日記』から1983618日の食事をあげると、下記のような食事がみられる。この食事をみると、朝はパン食、昼、夕に飯を主食とした食事である。近代の食事には少なかった牛乳、卵などの良質のタンパク質、牛肉などの動物性食品が日常食に定着し、おかずに使われる食品の種類が多いことをうかがうことができる。

 

一方で、飯、汁、おかず、漬物という伝統食の基本形も残されている。1981年、NHK世論調査部において全国4,740人を対象に行われた「日本人の食生活」調査によると、朝食をとっている人は95%、うち90%の人が自宅でとり、しかも飯、みそ汁、軽いおかず、漬物という基本形に近い食事をとっている人が70%以上と圧倒的に多い。 また5人に1人は弁当持参、夕食は90%以上が自宅でとり、95%以上が主に米飯を食べている。この時期、食事の内容や摂取量の変化はみられるものの、食事構成の基本は継承されているといえよう。

2016/10/26

「再発リスク」考察(真夏の悪夢part7)

●812日(金)
 これまで1日おきに採血があったが、この日はない。

 前回の結果が良かったため、もうなしということか。

 院長が回診に来た。

 「どうですか?」

 「痛みは、ほぼないですね・・・」

 触診をして

 「では、明日退院しますか。
 点滴は今夜まで続けて、特に異常なければ明日、退院としましょう・・・で、良いですか?」 

 「勿論です!」

 「手術は、様子見て数か月後にやりましょう・・・」 

 やはり「数か月後の手術」が既定路線となっている!

 (本当に、手術をやらないとダメなのか?)

 気になったため、暇に飽かせてiPhoneで色々調べてみた。

  虫垂炎は手術をせず薬で散らした場合、再発の確率が高いというのが根拠のようだ。

 「(なんの役に立たない虫垂など)再発を繰り返すようなら、さっさと手術で取ってしまった方が良い」

 ということらしい。

 それでは「高い」とされる再発率とは、一体どの程度か?

 調べた限りでは、大体2年以内で「10-20%」となっていた。

 これで「再発の確率が高い」と言えるのか?

 これはおそらく、医学的に他の病気の再発率と比べた相対的な確率を言っているのだろうが、素人感覚からすれば「70-80%」であれば「高い」と言えるが10-20」は、決して「高い」とは言えない

 我々医学関係者ではない者からすれば、他の病気を考慮する必要はまったくないから「相対的な再発率」ではなく「総体的な再発率」を見れば良い。 

 その場合「再発確率10-20」ということは、逆に言えば「非再発確率が80-90
となるから、むしろ「再発しない確率の方が遥かに高い」と考えるのが常識的と言える。 

 また「虫垂なんて、なくてもまったく問題ない」というのも、俄かに信じ難かった。 

 では、一体なんのために存在しているのだろう 

 まさか「虫垂炎を起こすことのみを目的として存在している」わけでもなかろうし、それならばもっと高確率で発症しなければ理屈に合わぬ。 

 やはり人体の一部であるからには、それなりの存在意味があるではないか、と思えてしまうのである。 

 なにより、手術などはしなくて済むならしないに越したことはないし、仕事にも大きな影響が出てしまう。 

 これがもし「80-90%の確率で再発」だったり、実際に何度も再発を繰り返すようなら、いっそ取ってしまった方が良いとも言えるが「僅か10-20」である。

 仮に「高い確率で再発す」としても、それが果たしていつ再発するのか。

 これは個人差があるから1年以内かもしれないし、数十年後かもしれない

 20代とか若ければともかく、数十年後となれば自分などは生きていないだろうから、そんなに拙速に切らなくても再発してから考えればいいのではないか、と思えてしまうのである。

 当初、病状を軽く見て1週間痛みを我慢したため、1週間後に精密検査をした時に

  「炎症が酷いため、今手術するとなると大掛かりになってしまう」 

 とのことで、手術を回避して抗生剤点滴で抑え込むことになった。

 その際、医師は

  1週間前だったら、手術ができたのに・・・」 

 と言っていたが、今後再発せずに「1週間もたついたせいで、手術せずに済んだ」のが、文字通り「怪我の功名」となることに期待したい。 

2016/10/25

日本書紀の「誓」

『日本書紀』第六段の本文では、古事記と同様に天照大神が素戔嗚尊(スサノヲ)を待ち構えるが、天の安河を挟んではいない。

 

また素戔嗚尊が

「私は今、命令を受けて根國に向かおうとしており、一度高天原を訪れ姉上と会った後に去ろうと思う」

と言うと(伊弉諾尊が)「許す」といった、とあるので古事記の様に追われたのでも無い。

 

ただし、第五段本文では2神が産んだスサノヲは常に泣いているので「宇宙」(あめのした)に君臨(きみ)たるべきでないとして、根国に追放し、また、第六書では、スサノヲが母のいる根の国に行きたくて泣いていると説明すると、イザナギは

『「情(こころ)の任(まにま)に行ね」とのたまひて、乃ち逐(やらひや)りき。』

とある。

 

誓約では、天照大神が素戔嗚尊の十握劒(とつかのつるぎ)を貰い受け、打ち折って三つに分断し、天真名井(あめのまない)の水で濯ぎ噛みに噛んで吹き出した、とある。その息の霧から生まれた神が、以下の宗像三女神である。

 

田心姫(たこりひめ)

湍津姫(たぎつひめ)

市杵嶋姫(いちきしまひめ)

 

そして素戔嗚尊が天照大神の頭髪と腕に巻いていた八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいおつみすまる)を貰い受け、天眞名井の水で濯ぎ噛みに噛んで吹き出した、とある。その息の霧から生まれた神が、以下の五柱の神である。

 

天忍穂耳命

天穂日命:出雲臣(いづものおみ)、土師連(はじのむらじ)等の祖神。

天津彦根命:凡川内直(おおしかふちのあたひ)、山代直(やましろのあたい)等の祖神。

活津彦根命

熊野櫲樟日命

これにより彼の心が清いと証明している。

 

第六段一書(一)では、待ち構えていた日神(ひのかみ)が素戔嗚尊と向かい合って立ち、帯びていた剣を食べて生まれた神が、以下の宗像三女神である。

 

十握劒(とつかのつるぎ):瀛津嶋姫(おきつしまひめ)

九握劒(ここのつかのつるぎ):湍津姫 

八握劒(やつかのつるぎ):田心姫

  

そこで素戔嗚尊は、その首にかけていた五百箇御統之瓊(いおつみすまるのたま)を天渟名井(あめのまない)またの名は去来之眞名井(いざのまない)の水で濯いで食べて生まれた神が、以下の五柱の神である。

 

正哉吾勝勝速日天忍骨尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほね)

天津彦根命

活津彦根命

天穂日命

熊野忍蹈命(くまのおしほみ)

 

第六段一書(二)では、素戔嗚尊が天に昇る時に羽明玉(はかるたま)という神が迎えて、瑞八坂瓊之曲玉(みつのやさかにのまがたま)を献上したので、その玉を持って天上を訪れた。この時、天照大神が弟に悪心(きたなきこころ)があると疑い、兵を集めて詰問する、とある。

 

誓約では、天照大神の剣と素戔嗚尊の八坂瓊之曲玉(やさかにのまがたま)を取り換える。そうして天照大神が八坂瓊之曲玉を天眞名井に浮かべ、玉を食いちぎって吹き出した、とある。その息から生まれた神が、以下の宗像三女神である。

 

玉の端を食いちぎって吹き出す:市杵嶋姫・遠瀛(おきつみや)に鎮座する神

玉の中を食いちぎって吹き出す:田心姫・中瀛(なかつみや)に鎮座する神

玉の底を食いちぎって吹き出す:湍津姫・海濱(へつみや)に鎮座する神

  

そして素戔嗚尊が持った剣を天眞名井に浮かべ剣の先を食いちぎって吹き出した、とある。その息から生まれた神が以下の五柱の神である。

 

天穂日命

正哉吾勝勝速日天忍骨尊

天津彦根命

活津彦根命

熊野櫲樟日命

 

第六段一書(三)では、日神と素戔嗚尊と天安河(あめのやすのかは)を挟んで向かい合い、まず日神が剣を食べて生まれた神が、以下の宗像三女神である。

 

十握劒:瀛津嶋姫命またの名は市杵嶋姫命

九握劒:湍津姫命 

八握劒:田霧姫命

 

そして、素戔嗚尊がその五百箇御統之瓊を口に含み、生まれた神が以下の六柱の神である。

 

左の髻(みづら)の玉を口に含み、左の手のひらに置く:勝速日天忍穂耳尊(かちはやひあめのおしほみみ)

右の髻の玉を口に含み、右の手のひらに置く:天穂日命

首にかけた玉を口に含み、左の腕に置く:天津彦根命

右の腕から:活津彦根命

左の足から:樋速日命(ひはやひ)

右の足から:熊野忍蹈命またの名は熊野忍隅命(くまのおしくま)

第七段一書(三)では、まず素戔嗚尊の暴挙狼藉があり、それで日神が天石窟(あめのいはや)に籠る事となる。

 

天児屋命が先だって事を運び日神が外に戻り、素戔嗚尊は底根之國(そこつねのくに)に追われる事となる。そして、素戔嗚尊は

「どうして我が姉上に会わずに、勝手に一人で去れるだろうか」

と天に戻る。すると天鈿女命がこれを日神に報告し、二神で誓約が行われる。

 

誓約では「日神、先(ま)ず十握劒を囓(か)む。 云云(しかしか)」と略されているが、宗像三女神を生んでいる点に変更はなく、続いて素戔嗚尊はぐるぐると回しながら、その髻に巻いていた五百箇御統之瓊(いほつみすまるのたま)の緒を解き、玉の音を揺り鳴らしながら天渟名井の水で濯ぎ浮かべた、とある。

 

そうして、その玉の端を噛んで以下六柱の神を生み出す。

 

左の玉を噛んで、左の手のひらに置く:正哉吾勝勝速日天忍穂根尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほね)

右の玉を噛んで、右の手のひらに置く:天穂日命

次に天津彦根命

次に活津彦根命

次に樋速日命

次に熊野大角命(くまのおほくま)

 

解説

日本書紀第一と第三の一書では男神なら勝ちとし、物実を交換せずに子を生んでいる。すなわち、天照大神は十拳剣から女神を生み、素戔嗚尊(スサノオ)は自分の勾玉から男神を生んで、彼が勝ったとする(第三の一書で、素戔嗚尊は六柱の男神を生んでいる)。

 

第二の一書では、男神なら勝ちとしている他は『古事記』と同じだが、どちらをどちらの子としたかは記載がない。古事記と同様に物実の持ち主の子とするならば、天照大神の勝ちとなる。第七段一書(三)では、筋立てが他とは異なり、思兼神が登場しない点が大きな特徴である。

 

なお、古事記でスサノオが勝ったとされる一方で、創造された子神の数はスサノオが3柱であるのに対してアマテラスは5柱であった。

 

また、日本全国にある天真名井神社、八王子神社などでは、宗像三女神と、王子五柱の男神を五男三女神として祀る。

2016/10/24

古事記の「誓」

 口語訳:そこで速須佐之男命は

「それなら姉の天照大御神にお別れを言ってから行きたい」

と言って、すぐに天上に昇った。

この時、山や川は鳴り響き、全土は震えた。

 

天照大御神は、その音を聞いて驚き

「私の弟が登ってくるのは、いい目的ではあるまい。私の国を奪おうとしているに違いない」

と言って、髪を解き、男のようにみずらに巻いて、左右のみずらにも、鬘にも、また左右の手にも八尺の勾玉を五百個貫いた御統(みすまる)の玉を巻き、背には千本もの矢が入る靫を背負い、(脇には)五百の矢が入る靫を付け、弓を振り立てて、堅い土を踏みならせば、股まですっぽり沈むほどで、まるで雪を踏むようであった。

 

大御神は鋭く猛々しい雄叫びを上げて須佐之男命を待ち受け、問いかけた。

「お前は何のために、ここまで昇ってきたのか。」

 

すると須佐之男命は

「僕には邪心はありません。ただ伊邪那岐の大御神が僕に

『お前は、なぜいつも泣き叫んでいるのか』

と訊いたので、

『僕は妣の国に行きたいと思って泣くのです』

と答えたら、

『では、お前はこの(地上の)国に住んではならん』

と言って、僕を追い出されました。だから、これから妣の国へ行きたいと思います。それでお別れを言うためにやって来ました。その他に何の意図もありません」

と答えた。

 

天照大御神は

「ではお前に邪心がなく、清らかな心であることをどうやって知ることができるだろう」

と言った。

 

速須佐之男命は

「互いに誓いを立てて、それぞれに子供を産もう」

と提案した。

 

≪解読≫

天照大御神が男装の出立で、頭は男のように角髪に結い、その左右の角髪、髷、手に多くの八尺の勾玉の数珠を巻き付け、背に1000の矢、脇には500の矢を差し(どんだけ巨神なんだ!)、弓を大地に突き立て仁王立ちになって猛々しい雄たけびを上げている、その神々しい姿が目に浮かぶではないか。

ここは、次に続く「誓約」とともに、古事記の名場面だ。

 

スサノオの粗野で乱暴な性格をよく知っていながら、勇ましくも仁王立ちで自ら迎え撃つところに、アマテラスの勇敢と自信のほどが窺える。

 

これほどに力強く勇敢なアマテラスが、この後スサノオの乱暴狼藉に「恐れをなして」天岩戸に引き籠るストーリーは、どう考えても整合性が合わないのである。

 

二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。

 

この三姉妹の女神は、アマテラスの神勅により海北道中(玄界灘)に降臨し、宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮、それぞれに祀られている。

 

多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)。沖津宮に祀られる。

多岐都比売命 - 中津宮に祀られる。

市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)。辺津宮に祀られる。

 

次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の五柱の男神が生まれた。

 

左のみづらに巻いている玉から 天之忍穂耳命

右のみづらに巻いている玉から天之菩卑能命

かづらに巻いている玉から天津日子根命

左手に巻いている玉から活津日子根命

右手に巻いている玉から熊野久須毘命

 

これによりスサノオは「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」と勝利を宣言した。

 

天照大神(アマテラス)は、後に生まれた男神は自分の物から生まれたから自分の子として引き取り、先に生まれた女神は建速須佐之男命(スサノオ)の物から生まれたから彼の子だと宣言した。建速須佐之男命は自分の心が潔白だから私の子は優しい女神だったといい、天照大神は彼を許した。

出典Wikipedia