2015/01/20

くらげなすただよえる『古事記傳』



神代一之巻【天地初發の段】本居宣長訳(一部、編集)
次に、まだ国が生まれたばかりで、水に浮く脂のように形がはっきりしないまま虚空を漂っていた時、葦の芽のように萌え上がるものによって生まれた神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲神、次に天之常立神。この二柱の神もまた単独の神で、そのまま隠れた。ここまでの五柱の神は、続く神とは少し違って別天神である。 次は「成りませる」へ係る。「国稚くして云々」に係るのではない。】「次に成りませる神の名は国之常立神」などとあるのに同じ。その他も、前後みな「次~神」とあるが、ここはその神の生まれた原因を述べたために、係る言葉が隔たっているのである。

國稚は「わかく」と読む。【書紀では「わか」の意味に、みなこの字を用いている。 だがこの記では、一般的に「わか」の意に「若」の字を用いて「稚」を用いる例がないので、ここは「わかく」ではないかもしれないとも思われるが、他に読み方が思いつかない。 「わかし」とは物がまだ完成しないことを言い、書紀などでは「」の字もこう読み、中昔の物語でも人が幼稚(いとけな)いさまを言うことが多い。万葉では三日月を「若月」とも書き【月の形がまだ整わないのを「若い」と形容したわけである。】 推古紀には「肝稚く」とある。【また勢いが盛んで、美しいのを言うこともある。美称に「若某」とあるたぐいだ。これは、まだ完成しないのを言うのと少し違うが、元は同じである。】 ところで国土は伊邪那岐、伊邪那美両大神によって生まれたのだから、ここではまだ「国」というようなものは存在しないのだが、完成した後の名を借りて、その原初の姿を書いたのである。

○浮脂は「うきあぶら」と読む。浮雲、浮草というたぐいの名であり、脂が水に浮かんでいるのにたとえてこう言った。【「ウカベルあぶら」という読みは良くない。】 「」は「和名抄」に【形態の部、肌肉類】「脂膏は和名『あぶら』」、また【燈火具に】「油。四聲字苑に、油は麻をしぼって取る脂とあり、和名『あぶら』」とある。 他に「」にたとえた例として、朝倉の宮(雄略天皇)の段に、盃に槻の葉が散って浮かんだのを、三重の采女(女+妥)が歌に「ウキシあぶら」と詠んでいる。【盃の酒に木の葉が漂うのを考えて、ここの状態を理解せよ。】 そもそも、この段は天地の初発を言っているので、まず始めにこういったものが一群(ひとむら)生え出たということである。【「如2浮脂1」というのは、その漂う姿が似ているだけだ。それが脂のような物体だというわけではない。書紀の伝えでは、魚や雲にたとえているので分かる。 一書には「その形は言葉に表しがたい」とあり、正確な形は言い難い。】

久羅下那洲(くらげなす)は「多陀用幣琉」の枕詞である。【ここは「ウキアブラのようなもの」が漂っている様子を述べたのではない。 それはもう「ウキアブラのようなもの」という言葉に言い尽くされている。 もし「如2浮脂1物(うくアブラのゴトキもの)」と書いてあったなら「浮脂」はそのものの形状を言い「くらげ」は、その漂う様子を喩えたと言えるが、この文はそういう書きぶりではない。】 「くらげ」は和名抄に「崔禹錫の『食經』に曰く、海月、一名水母。そのさまは海中に月があるのに似ているので、この名がある。 和名『くらげ』」とある。この生物は海の中を漂うもので、その形は昼の晴れた空に月が白く見えるのによく似ており、なるほど「海月」とはよくも名付けたものだ。 「なす」は「ようだ」ということで、私の友人稻掛の大平が「似す」の転訛だろうと言うが、そうらしい。【「な」と「に」は通音であり「なす」を「のす」という例があるとして、たとえば和名抄の備中の郷の名に「近似は『ちかのり』」と出ていて「似」を漢籍で「ノレリ」と読むなども考え合わせると「似す」を「なす」と言ったとしてもおかしくない。】

多陀用幣琉(ただよえる)は、書紀に「漂蘯」とある字の通りである。【書紀には「くらげなす」が省略されている。 このことでも枕詞だと分かる。 弘仁私記には、この「漂蘯」を「クラゲナスただよえり」と読むということが書かれている。 上宮記、大倭本紀などの古い書物にも、この「くらげなす」という言葉があるそうだ。】 万葉にも、この言葉がある。なお「」の下にある「」の字は読んではいけない。【読むのは間違いだ。】このものが漂っていたのは、どんなところかと言えば虚空中(おおぞら)である。 次に引くように書紀に虚中、空中とあるのを見れば分かる。 【それなのに「浮く脂のように」とか「くらげなす」と言うので、これは海の上を漂っていたと解するのは、大きな間違いである。 この時、まだ天地はなかったので海もなく、ただ虚空を漂っていたのだ。だから海もまた、この漂っていたものの中に備わっていたに違いない。】 書紀には「開闢之初、洲壞浮漂、譬3猶游魚之浮2水上1也(アメツチのハジメのトキ、クニつちタダヨイテ、ウオのミズにウケルがゴトシ)云々」、一書に曰く「天地初判、一=物2在於虚中1、状貌難レ言(アメツチのハジメのトキ、おおぞらにヒトツのモノなれり。そのカタチいいガタシ)云々」、一書に曰く「古國稚地稚之時、譬2猶浮膏1而漂蕩(いにしえクニつちワカカリシとき、ウキアブラのゴトクにしてタダヨエリ)云々」、また一書に曰く「天地未生之時、譬3猶海上浮雲無2所根係1(アメツチいまだナラザリシときに、ウナバラなるウキクモのカカルところナキがゴトクなりき)(口語訳:天地がまだ生まれていなかった頃、たとえば海上に浮かぶ雲がどこから来たともなく、中空にふわふわと漂っているようであった。)云々」などとあり、これらを引き合わせて考え、その時の様子を細かく知るべきである。

【「開闢之初」、「天地初判」などとあるのは、この記(古事記)の始めに「天地初発之時」とあるのと同じで、一応ただ大らかに、この世の始めを言ったのだ。 「天地未生之時」とは、少し詳しく述べたのである。「洲壞云々」は、この記の「国稚」に相当し「猶游魚云々」、「状貌難言」、また「猶海上浮雲云々」なども、記の「如2浮脂1」に相当する。 だから伝えが多少異なるように思えたとしても、よく見ればそのありさまはいずれも同じである。】 この漂っていたものは何かと言うと、これは後に天地に成るものであって、天に成るべきものと地に成るべきものがまだ別れず、一つに入り混ざった混沌の状態である。 書紀の一書に「天地混成之時(アメツチむらかれナルトキ)」とあるのがこれだ。【「」とはまだ分かれず、入り混じって一沌(ひとむら)であることで、浮き脂のようなものが初めて生まれ出た状態を混成(マロカレなる)と言う。

ある人の質問で「天に成るべきもの、というのは分からない。天には形がなく、始めから物は存在しないと思うが?」 と言う。私は答えて「天は高天の原であるから、実体があることは言うまでもない。 仰ぎ見ても見えないのは、ただ遠すぎて目に見えないだけだ。 それを天はただ気であるとか、理屈であれこれ言うのは外国のこじつけの説であって、甚だしく古伝の趣旨に違背する」 
また問う。「では、まだ分かれていなかったとき、天になるべき物は何物だったのか?」 答え。「天になるべき物が何物であるとも伝えられていないので、分からない」 
また問う。「地に成るべき物は何物だったのか?」 答え。「海水に泥が混じって濁っているような物であった。というのは、以下に女男の大神が『指2下沼矛1以畫者、鹽許袁呂許袁呂邇(ヌボコをサシおろしてカキたまえば、シオこおろこおろに)云々』とあり、書紀にも『以2天之瓊矛1、指下而探之、是獲滄溟(アメのヌボコをモチテ、さしオロシテかきさぐる。ココニあおウナバラをエき。)』などとあるので分かる。」 詳しいことは、その段で述べる】

2015/01/13

造化三神(御復習い)

 古事記では「最初に現れた神々」として別格的な感じの「造化三神」だが、日本書紀では本文でもない「一書の4」の「異伝」でやっと登場するのみという、極めて大きな差異がある。

天之御中主神
天地開闢で宇宙で最初に現れた神

宇宙が混沌している中で現れ、高天原の主宰神となった。

理屈上では創造神的な位置づけであり、記紀の中では一番最初に登場する神様

そんな中心的な神でありながら、その後はまったく登場して来ないことからイメージが難しいためか、最初に登場した神の割に知名度が甚だ低い。

しかし最初に登場することに加え、その名前からも世界の中心的な存在のはずなのである。

そこで江戸時代に起きた復古神道では、天之御中主神と高御産巣日、神産巣日神を併せた造化三神を最高位の神とし、中でも天之御中主神は特別な究極の神とした。

日本書紀では「第一段一書(四)」で「高天原に生まれた神」として登場するのみで、そもそも最初に生まれる神となっていない点は、古事記と大違いだ。

このようなことから「天之御中主神は、古事記編纂の時に作られた神じゃないか?」という説もある(確かに、名前も出来すぎている気がする)

続日本紀(797年完成)では、中臣氏の先祖が天之御中主神と書かれている。

ここから当時は藤原氏の勢力が強く、藤原氏の先祖である中臣氏を持ち上げたとも考えられる。

続日本紀の後に書かれた「日本後紀(840年完成)」の直後に出来ている倭漢惣歴帝譜図や宋史(1345年完成)には、天之御中主神が「皇室の祖先」として書かれている。

ムスビかムスヒか「高御産巣日神
当初は、何かを生み出す力として「産巣日」を持つものと見られていたが、現在は「産巣」+「ヒ(日)」で「太陽神」と見る説が強い。

高御産巣日神の別名である「高木神」は高い木、樹霊信仰を表し、それは天に伸び「太陽」へと続くというのが根拠となる。

この「」という思想が「高天原」のイメージを作ったのかもしれない。

天照大御神信仰が成立したのは天智・天武天皇の頃で、それ以前は天照大御神も八百万の神々の1柱でしかなかった、と言われる。

それ以前に伊勢神宮に居た神が、実は高御産巣日神であった。

そのご神体が「心の御柱」と言われる。

高御産巣日神は、事実上の高天原の主宰神として辣腕を振るう。

天の安河に神々を集めて指令を下す時など、常に天照大御神の横に並ぶようにおり、出雲に国譲りを迫る時も高御産巣日神が天照大御神と並んでいた。

時には「天照大御神をもさし措いて」高御産巣日神が単独で様々な指令を下すこともある。

このことから「実は本来高天原の中心神だったのが、後から登場してきた天照大御神に「権力を奪われた」ようにも見える。

天岩戸を境に、すっかり弱弱しくなってしまった天照大御神から「権力を乗っ取った」とされるイメージが強い高御産巣日神だが、実際には逆で天照大御神の登場により主導権を奪われたが、スサノオの乱暴狼藉によってお隠れになった(?)「天岩戸事件」後、すっかり衰えた感のある(二代目に代替わりした説も)天照大御神に代わり、高天原の主宰神として復活したとも言える。

『古事記』では、即位前の神武天皇が熊野から大和に侵攻する場面で夢に登場し、さらに天照大御神より優位に立って天孫降臨を司令している伝も存在することから、この神が本来の皇祖神だとする説もある

神産巣日神
高御産巣日神と、対になる神である。

高御産巣日神、天之御中主神、そして神産巣日神を合わせて「造化三神」と呼ぶ。

宇宙開闢の祖、というよりは宇宙そのもののイメージである。

この造化三神のうち、高御産巣日神を男神、神産巣日神を女神とする(古事記の記載は、どちらも性別のない「独神」だが、実質的には男女として捉えられる)  天之御中主神には、このような性別の属性はない。

出雲地方と特に深く関係し、なぜか大国主神(大己貴神)とは母子のような関係にも見える。

大国主神が兄弟の八十神に殺された時は、キサガイヒメ・ウムガイヒメを派遣して生き返らせた。

大国主神が国造りを行う際に強力なパートナーとなった少彦名神は、神産巣日神の指の隙間からこぼれ落ちた子供とされる(日本書紀では、高御産巣日神の子になっているが)

国譲りの後、大国主神は出雲大社に隠遁するが、その出雲大社の造営のために全国の神々を集め、指揮をとったのが神産巣日神である。

このように高御産巣日神とともに、死んだものを簡単に生き返らせるなど「生成」を司る神と言える。

高御産巣日神とは同時に登場したことはなく、必ずどちらか一方が単独で登場することから「実は同一神では?」とする説もある。

≪参考≫
Wikipedia引用
※ http://kumoi1.web.fc2.com/CCP081.html

大饗(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(9)

大饗(だいきょう)とは、平安時代に内裏または大臣の邸宅で行った大規模な饗宴のことである。大きく分けると「二宮大饗(にぐうのだいきょう)」と「大臣大饗(だいじんのだいきょう)」の2つに分けられ、更に後者は「任大臣大饗」と「正月大饗」に分けられる。記紀においては「大(御)饗」と書いて「おお(み)あえ」と読ませている。これは古来から存在した饗宴儀式を、後世において漢字に当てはめて表記したものと考えられている。

 

二宮大饗は、毎年正月2日に親王・公卿以下近臣などが、中宮(皇后)及び東宮(皇太子)に拝謁して饗宴を受ける儀式である。当日は、参加者はまず両宮それぞれの殿舎の庭中にて拝謁を行い、玄輝門(玄暉門)西廂にて中宮の饗宴を受けて禄を賜り、続いて東廂に移って東宮の饗宴を受けて禄を賜る。

 

古くは群臣が皇后、あるいは皇太子に拝礼を受ける受賀儀礼が存在していたが、後にそれに代わって貴族層(一部、六位官人を含む)に対する饗宴へと変質していった。その時期は、10世紀初頭の延喜年間と推定されている。なお中宮での大饗の主催が皇后ではなく、皇太后・太皇太后の場合もあった。

 

大臣饗宴には大きく分けて、任大臣大饗と正月大饗がある。前者は大臣に任命された際に就任儀式の一環として行われ、後者は毎年正月の1日を用いて行われる。 古くは左大臣が4日、右大臣が5日に開くとされていたが、後には1月中下旬にずれ込む場合や大臣就任の翌年のみ開く場合もあった。いずれも大臣の私邸で開催されたが、公的要素を含む儀式でもあった。そのため大臣大饗の際には、宮中から甘栗(搗栗)や蘇が贈られた。

 

大臣饗宴は大きく分けて、主催大臣に対する「拝礼」、正式の宴会である「宴座(えんのざ)」、今日の二次会に相当する「穏座(おんのざ)」に分けられる。参加者のうち最も上位にある者を尊者(そんじゃ)と呼び、拝礼の中でも一番の賓客として扱われ、通常は大臣・大納言クラスがこれに当たる。

 

なお、特殊な存在として親王の参加する事例が挙げられる。親王を尊者、あるいはこれに准する存在とみなす説が古くから行われているが、実際には尊者以下の賓客を接待する垣下(えんが)役としての役割しか確認できず、大臣大饗における親王は大臣家の家人に代わって大臣に奉仕する存在であった。

 

このような慣例が成立した背景は不明であるが、天暦2年(948年)に右大臣藤原師輔が大饗で親王(『大日本古記録』は為平親王と解する)を奉仕させたことが村上天皇の怒りを買い、翌々日に内裏で行われた御斎会の内論議の儀式で退出を命じられるという事件が発生している。このことが影響したのか、10世紀後半以降に大饗における親王の参加は見られなくなり、同時期に書かれた『宇津保物語』(国譲〔中〕)には、天皇が親王たちの大饗への参加を禁じたエピソードが登場している。

 

大饗開始に際しては、尊者に対して主催の大臣側から請客使(しょうきゃくし、掌客使)が派遣されて送迎を受ける。尊者が大臣の邸宅に到着するのを待って他の賓客が大臣邸に入り、尊者を先頭に拝礼を受ける。その後、数献にわたる宴座が行われ、途中には舞楽や鷹飼・犬飼の参入が行われる。続いて、場所を移して穏座が開かれて管弦などの芸能が行われ、最後に禄を賜って終了となる。任大臣饗宴の方が臨時の性格を有しており(いつ大臣の補任が行われるか定められていないため)、正月大饗より小規模であった。なお、摂関や近衛大将に任命された時も、大饗が開かれる場合があった。

 

また藤原氏の大饗の場合、内容が一部特殊で、藤氏長者から借りた朱器台盤を用い、また藤原氏の氏院である勧学院の学生が参賀に訪れて禄が支給されていた。なお『大鏡』に藤原良房が大饗を行ったことが記されており、それ以前に大臣による大饗の記録が見られない事から、この時期に成立した可能性がある。

 

本来、拝礼・饗宴・賜禄は天皇のみが主催できることが出来たが、二宮大饗や大臣大饗が成立したとされる9世紀後半から10世紀初頭にかけて、天皇主催の儀式が縮小されて中下級官人は、これらから排除される傾向が強まった。そのため代わりに二宮や大臣が拝礼を受けることを口実として、饗宴を行って接待するようになったと考えられている。

 

また大臣や近衛大将の大饗とは別に、弁官や蔵人所の筆頭・次席クラス(中弁・五位蔵人以上)が就任時に下僚のために饗応する事例が見られる(近衛大将の大饗でも、近衛府の官人が多数招かれている)。このため、平安時代前期に行われていた就任時の焼尾荒鎮の慣習が、大饗の成立に影響を与えたとする説もある。

 

その一方で、『新儀式』に記載された大臣大饗の作法には任大臣儀において天皇より大饗開催の許可を得て開催できることが明記されている以上、記録上初めて天皇の許可が確認できる延喜14年(914年)の藤原忠平の右大臣任命時の大饗以前のものは私的性格なもので、儀式としての大臣大饗に含めるのは正確ではないとする見方もある。

 

室町時代には、大饗の様式が変化して本膳料理が成立する。本膳料理は大饗と同様に酒礼・饗膳・酒宴の三部から構成される儀礼的な食事であるが、酒と式三献と饗膳・酒宴が座を移して明確に区別された。また大饗の酒肴が台盤と呼ばれる卓上に菜類が並べられた共同膳であるのに対し、本膳料理では一人分の料理を客に配膳した銘々膳に変化する。

出典Wikipedia

2015/01/06

三柱『古事記傳』


神代一之巻【天地初發の段】本居宣長訳(一部、編集)
三柱(みはしら) 一般にいにしえには、神も人も数えるのに「幾柱」と言った。 神は当然だが、皇子たちも「」と言うのが記では普通だ。 少し後には「三代実録」【十一】、清和天皇の大命に「太政大臣一柱」とあり「うつほの物語」【藤原の君の巻】に大将という人の娘たちのことを言うところで「今一柱は」と言っている。みな貴人のことである。【書紀に「仏像一躯、二躯」とあるのも「ひとはしら、ふたはしら」と読む。「おちくぼの物語」にも「仏一はしら、仏九はしら」などとある。 また「本朝文粋」前中書王の文に、白檀の観世音菩薩一柱とある。 漢文には珍しい。ところが称徳紀の宣命には「二所の天皇」とあり、中昔の歌物語にも貴人をみな「幾所」と書いてある。今の世の俗言で「御一方、御二方」と言うようなものである。】
なぜ「」と言うのかは定かでないが、上代には天皇の住む宮を造るのに「底津石根(そこついわね)に宮柱布刀斯理(みやばしらフトシリ)」と言い「柱は高く太く」とも言い、大殿祭りの詞にも柱を旨(むね)と言い、書紀の意祁御子(仁賢天皇)の室壽(むろほぎ)の詞にも「築立柱者、此家長御心之鎮也(ツキたつるハシラハ、このイエキミノみこころのシズマリなり)」とあり、その他にも神代の初めに女男(めお)の大神が天之御柱(あめのみはしら)を行き巡ったことなど柱を言う話が多く、後世には伊勢の皇太神宮に「心の御柱」というのもある。 すると、その柱は普通数多く立てるものであるから、皇子が数多くいることを愛でて幾柱と言ったのではないだろうか。

獨神(ひとりがみ)とは、次に続く女男(めお)の偶神と違って、ただ一柱ずつ生まれ配偶神が無かったことを言う。 兄弟のない子を「独子(ひとりご)」と言うのと同じである。【神の下に「と」と「てにをは」を添えて読むのは良くない。】

隱身也(みみをかくしたまいき)は、身を隠して顕れないことを言う。 【「形がないことを言う」というのは、後世の半解である。少名毘古那神のことを、神産巣日神が「私の手の俣(指の間)から漏れた子だ」と言ったことを考えよ。形がないのに手があるわけはない。この「手の俣」のことを世人はどう思っているのだろうか。 およそ神代の古い出来事を、単なるたとえ話のように見るのは例の漢意の癖であって、甚だしく古伝の意に背くものである。】

上記の三柱の神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)は、どんな産霊によって生まれたか伝えられていないので分からない。それは非常に非常に奇(くす)しく霊妙な理由によって生まれたのである。しかし、そのことはもう心も言葉も及ばないはずのことだから、伝えがないのももっともだ。【いにしえの伝えがない事柄に自分の考えで理屈を付け、こじつけて解釈しようとするのは外国の風習であって、みだりがわしいことである。】この神たちは天地に先だって生まれたのだから【天地の生成はこの後にあるので、この神々の誕生がそれよりも前のことなのは明らかだ。】ただの虚空に生まれたのに【書紀の一書に「天地初判、一物在於虚中(アメツチのハジメのトキ、オオゾラにモノひとつナレリ)」、また一書に「天地初判、有物若葦牙生於空中(アメツチのハジメのトキ、アシカビのゴトクナルもの、オオゾラにナレリ)」などとあるのに準じて考えよ。 まだ天地が生まれる前は、どこまでも果てしない虚空だけがあった。