2006/11/30

京都の紅葉 ゚(ノд`;)゚

 紅葉といえば、何といっても京都である。ここ数年、仕事のタイミングや天気の関係などで、悉くに行くチャンスを逃して来ているだけに、今年は是非行かなければという意気込みで仕事を調整して来たものの、何の因果か密かに狙っていた23-24日周辺だけが雨になってしまった (`Д´)y-~~ちっ

京都旅行の時は、デジカメで撮影する枚数が桁違いに多くなるため、ノートPC持参でモジュラー完備のホテルに宿泊し、当日撮影したものを右から左へとPCに保存して行くのが習慣になっているだけに、雨だけはなんとしても避けたい気持ちが強い。紅葉そのものにしても、雨にしっとりと濡れているのもそれはそれで風情があるが、やはり太陽の光を受けてキラキラと輝いているものこそは、より美しいのだ。

今年は11月の始めまでは異常に暖かかった事もあり、例年より1週間くらいは見頃が遅れるのではないかと予想していたが、意外にも例年と大して変わらぬ進行ぶりとなり、23日の祝日から週末にかけてピークを迎えたのも誤算だった。

となるとやはり、あの雨が恨めしい。一週間ずらすしか手はなく

(今週半ばから週末にかけてまで、何とか持ち堪えてくれよ・・・)

との密かに期待もあえなく裏切られ、週明けの雨で一気にピーク散りが来てしまった様子なのである。遅いところはまだ紅葉が残ってはいるのだろうが、限定された場所以外は盛りを過ぎたキタナイ葉っぱを観なければならないハメになるから、これは面白くない。どうも色付きは遅い進行ながら、早く色褪せてしまうという「ハズレ年」だった気がしてならない。

仕事に見頃に天気・・・紅葉の場合は、この三条件が揃わなければならないから難しいのだが、それゆえに価値があると言う事か。タイミングを逃さないように、調整して来たつもりが不調に終わってしまっただけに、今年は京都に遅れてこれからピークを迎える東京や鎌倉といった、近場でお茶を濁すハメになってしまった (;´д` )トホホ

2006/11/22

高尾山の紅葉

高尾山といえば、東京の紅葉の名所だ。

途中まではケーブルカー、リフトがあるが、初めてということで山頂まで登山を試みた。

 

高尾山は、東京都八王子市にある標高599メートル(m)の山。明治の森高尾国定公園及び東京都立高尾陣場自然公園に位置。東京都心から近く、年間を通じて多くの観光客や登山者が訪れる。古くから修験道の霊山とされた。

 

概要

関東山地(秩父山地)の東縁に位置する山のひとつ。多摩川水系と相模川水系の分水嶺となっている笹尾根の東端にあって、明治の森高尾国定公園に指定されており、キャンプやバーベキュー、植物の採取、鳥類の捕獲などが禁止されている。 2020年に東京都内で初めて「霊気満山 高尾山〜人々の祈りが紡ぐ桑都(そうと)物語〜」として、文化庁が認定する「日本遺産」に認定された。

 

山頂には展望台や高尾ビジターセンターがあり、全長1,697キロメートル(km)に及ぶ東海自然歩道の起点でもある。また、高尾山には古くから天狗が存在しているとの伝説もある[要出典]。山腹には、役行者による大火渡りや滝の修行場で知られる文化財を有する高尾山薬王院がある。


 

山頂から東側は、八王子市や相模原市などを中心とした関東平野の街並や、筑波山、房総半島、江の島まで眺めることができる。また西側は、丹沢山地や富士山を見渡せる。冬至の前後数日間には、富士山の真上に太陽が沈むダイヤモンド富士を見ることができる。関東の富士見百景、「八王子八十八景」、東京都の奥多摩山域の代表的な山の一つで、多摩百山に選ばれている。

 




高尾山の街

東京都心部からの交通の便が良いことに加え、ミシュラン観光ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」での3つ星評価などの影響もあり、高尾山の人気が近年高まるにつれ、東側の山麓にあり高尾山の正面玄関である京王電鉄高尾線・高尾山口駅の周辺で、観光施設の集積が進んでいる。

 

中腹には、高尾山ケーブルカーを運行する高尾登山電鉄の運営によるさる園・野草園、標高500 mの高所にある「高尾山ビアマウント」(ビアガーデンは夏季限定)、高尾山BBQマウント(手ぶらBBQサービスは春秋限定)などの観光施設がある。

 

また明治以降、高尾山薬王院の参拝客に振る舞ったのが起源のとろろ蕎麦が高尾山の名物となっている。行楽客が減少する冬季のイベントとして、京王電鉄により「高尾山の冬そばキャンペーン」が毎年開催されている。

 

1971年より毎年春・秋の行楽シーズンのイベントとして、京王電鉄により「高尾山・陣馬山スタンプハイク」が開催されている。オリエンテーリングのパーマネントコースも整備されており、トレイルランブームも相まって競技に興じる人がよく見られる。

 

2015年、観光案内と高尾山の自然についての啓発などを目的とした博物館「TAKAO 599 MUSEUM」を開設(施設名は山頂の標高599 mより命名。管理者は京王エージェンシー)。また同201510月、京王電鉄は高尾山口駅に隣接した日帰り温泉施設「京王高尾山温泉 極楽湯」を開業した。

 

高尾山の地下

山頂から見て東側の地下には、高尾山ケーブルカーの下をくぐる形で、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の「高尾山トンネル」(下り線(南から北方向)1348 m、上り線(北から南方向)1329 m)が南北に通っており、南側には高尾山インターチェンジがある。

 

圏央道の道路トンネル建設に際しては、自然保護団体や一部の市民から強い反対運動が起こり、建設差し止めを求める「高尾山天狗裁判」が行われた。開通後の現在でも、景観保護や地下水脈の保全などへの懸念を指摘する声がある一方で、圏央道開通により道路交通の便が改善されたとして、八王子市民や周辺地域の住民から歓迎する声もあり[要出典]、賛否両論と言える。

 

高尾山の歴史

高尾山は東京近郊の行楽地として有名であるが、元来は修験道の霊場であり、真言宗智山派大本山高尾山薬王院有喜寺の寺域となっている。高尾山という名から、真言密教の聖地の一つ弘法大師霊場遺迹本山(ゆいせき)・京都の高雄山神護寺に見立てられたこともあり[ 1]、天然の森林が守られてきた。

 

中世には、八王子城(慈護寺城)主北条氏康・北条氏照親子がこの山を保護し、氏照による「本山の竹木の伐採を禁じる」という制札が薬王院に残されている。江戸時代には、幕府直轄領として八王子代官・大久保長安が山林保護政策をとり、その書状が同じく薬王院に残されている。その後も帝室御料林を経て国有林となり、常に森林が保護されてきた。

 

明治以降、牧野富太郎をはじめ多くの研究者により、高尾山を最初の発見地として新しい植物が発表されてきた。暖温帯系の照葉樹林帯(カシなどの常緑広葉樹)と冷温帯系の落葉広葉樹林(ブナ・イヌブナ・ナラ・ホオノキなど)・中間温帯林(モミ・ツガなどの針葉樹林)の境界に位置するため植生が豊かであり、都市部に近いわりには自然が良好に保たれている。

2006/11/11

日本書紀に見る「葛城」の由来


<『日本書紀』では神武天皇が即位以前の己未の年、大和国で恭順に及ばなかった波哆丘岬の新城戸畔(にいきとべ)和珥坂下の居勢祝(こせはふり)臍見長柄丘岬の猪祝(いはふり)という三箇所の土蜘蛛をそれぞれ討ち取らせた。また高尾張邑にいた土蜘蛛を葛(かずら)を編んで作った網を使って討っており、そのことに因んで地名を葛城(かつらぎ)と改めた、と記している。高尾張邑にいた土蜘蛛については、体が侏儒のように小さく手足は長かったと描写されている。
出典Wikipedia

葛城(かつらぎ、かづらき)は、奈良盆地の南西部を指す地域の名称。上代からの地名であるが、明確な範囲や境界を示すことは難しく、北の大和国(奈良市近辺)から西端の和歌山市友ケ島までの範囲に「葛木」という漢字をあてる文献も多数あり、古くからの山岳信仰から生まれた名称の色合いも強い。

神武天皇が、葛で編んだ網で土蜘蛛を捕らえたためと伝えられる

古墳時代でも有数の豪族であった葛城氏の勢力圏であったと考えられている。飛鳥時代の前半あたりには葛城県が、その後は葛城国が置かれたようである。

『延喜式神名帳』には、大和国忍海郡に葛木坐火雷神社二座と、これに合祀された為志神社を載せていることから、大和国が置かれた際の葛上郡・葛下郡・忍海郡のあたりが元の葛城国(葛城県)の範囲と推定できる。現在の行政区分に照らし合わせると御所市・大和高田市・香芝市・葛城市・北葛城郡の一部もしくは、和歌山市友ケ島までの和泉葛城山脈全域が想定される。江戸時代の初め頃までは、この地が高天原であるとも考えられていた
出典Wikipedia

<葛城山にまつわる歴史は古く『日本書記』には「葛城」の名前の由来まで書かれています。神武天皇の頃、高尾張邑に土蜘蛛がいて、天皇軍はそれを捕らえるために葛のツタを使った、そのためその邑を葛城という>

しかし実際の調査や遺跡によると、葛城全体が未踏の地ではありませんでした。当時、奈良県北部(奈良盆地)の1/4を占める勢力として、葛城氏がいました。ご存知『白鳥異伝』の宮戸彦、加解姫のモデルとなったのがこの氏族。   『白鳥異伝』ではあまり書かれていませんでしたが、近年の調査により大変広大な勢力を持つ氏族だった事がわかっています。巨大な古墳、祭祀跡、住居跡、工房跡・・・西暦3世紀から6世紀頃まで、葛城氏がこの葛城山の麓で生活していた痕跡は、到るところで見つかっています>

 <葛城山山頂から見た奈良盆地からは、大和の国が一望できる。中央に大和三山(香具山、畝傍山、耳成山)、奥に三輪山。『白鳥異伝』の頃の「まほろば」があるのは、左端の山の麓付近。大阪と奈良の県境にまたがる葛城山の麓で暮らす葛城氏の勢力下には、奈良盆地から大阪湾へと繋がっている大和川も含まれていました。

渡来系の工人(アクセサリーや工芸品などを作ったりする人々)を従え、葛城氏は次第に勢力を増していきます。まだまだ、大和朝廷(まほろば・大王サイド)が確固たる勢力を確立していなかった時代、お隣の氏族が持つ水運と広大な土地は脅威だったのでしょう。それゆえ次第に勢力を殺がれ、葛城氏は衰退していきます。しかし葛城氏が滅亡した後も、大和朝廷内にはその血が受け継がれました>

ポリネシア語による解釈
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
葛上(かつらぎのかみ)郡・忍海(おしのみ)郡・葛下(かつらぎのしも)郡。この三郡は大和川の南、金剛山地の北、葛城山脈の東麓の地帯で、葛下郡はおおむね現北葛城郡王寺町、上牧町、當麻町、香芝市、大和高田市の地域、忍海郡は現北葛城郡新庄町の中心の辺り(近鉄御所線の忍海(おしみ)駅があり、忍海の地名が残っています)

葛上郡は、おおむね御所市の地域で三郡の北は大和川、東は広瀬郡、高市郡、吉野郡、南は宇智郡、西は河内国に接しています。『和名抄』は「加豆良支乃加美」、「於之乃美」、「加豆良支乃之毛」と訓じています。

『日本書紀』神武即位前紀己未年2月条に、高尾張邑の土蜘蛛を「皇軍、葛の網を結(す)きて、掩襲(おそ)い殺しつ。因りて改めて其の邑を號けて葛城(かづらき)と曰ふ」とあります。

この「かづらき」は
(1)
「葛の生えたところ」の意
(2)
「カヅ(カテ、カツラ。崖地、急傾斜地)・ラ、キ(場所を示す接尾語)」の意
とする説があります。

この「かづらき」は、マオリ語の「カツア・ラ(ン)ギ」、KATUA-RANGI(katua=stockade,main portion of anything;rangi=sky,heaven,tower or elevated platform used for purposes of attack or defence of a stockade)、「空にそびえる砦(のような地域。そこにある山)」の転訛と解します。