2014/11/25

天之御中主神『古事記傳』

※本居宣長訳(一部、編集)
天之御中主神
 御中は「真中」といった意味のようである。

 」と「」は本来通う言葉だったが、やや後には分けて「」は尊んで言う言い方【「御」の字を書くのもこの意である。この字は、漢国では王のことに限って用いるのだが、我が国で「美(み)」というのは天皇のことに限らず、凡人にも何にも用いる。】

 」は美称、甚だしいさま、完全なさまに用いる。 しかし古言の残ったのを見ると、もっと通用して真熊野、三熊野などとも言う例が多く「真」と言うべきところを「御」と言うことも、御空(みそら)、御雪(みゆき)、御路(みち)など例が多い。 御中も、このたぐいだ。 天だけでなく国の御中、里の御中などが万葉集にある。【俗言で「真ん中」と言うのも「真中」である。一般に「」をなお甚だしく言おうとして「まん」とはね、または「まっ」と詰める(「真っ青」など)のは俗言にはよくある。】
また「毛那加(もなか)」も「真中」の転じた言葉で、天武紀に「天中央(ソラのモナカ)」とある。【この言葉で、ここの「御中」の意味を理解すべきである。】

」は「大人(うし)」と同じ言葉で「能宇斯(~の大人)」が縮まった言葉である。

すると、この神は天の真ん中にいて、世の中の「うし」である神という意味の名であろう。【この神を人臣の祖であるとか、国の常立(とこたち)の神の配偶神で皇后であるなどというのは、出まかせの妄説である。大体近頃は、こうした邪説が大変多い。惑わされてはいけない。】

この「あま」は「高天」と続くときは「高」の「か」に「あ」の音があるから、自然と「たかま」に読む。【ある人はこれを疑い「たかま」と読むのなら「云2阿麻1」でなく「云レ麻」とありそうなものなのに「あま」とはっきり指定しているから「たかあまのはら」と読むように言っているのではないかと言ったが、その説は良くない。

高天」と続くときは「たかま」となって「ま」だけを書くべきだが、註は「天」一字の読みを示しており、それは「あま」である。 他にもその例はあり、後の部分で「八咫鏡」の註に「訓レ咫云2阿多1(咫を読みてアタと云う)」とあるが、やはり「八咫」は「やあた」でなく「やた」と言う。 これも「や」に「あ」の音があるから、ここと同じである。】

「高の下の」というのは「天御中主」の神名にも天の字があるから、そういう書き方をしたのである。 「下效レ此」とは、これ以下「高天原」という語が出たら、すべて同様に読めという意味である。

2014/11/21

「日本料理(Japanese culinary art and culture)」の 世界無形文化遺産登録に向けた提案書

出典 https://www.maff.go.jp/index.html

Ⅰ. はじめに

日本料理」は、悠久の歴史と固有の文化、自然などを礎として、多様な季節の食材、器、しつらえ、おもてなしの心などとともに発展してきたものであり、その美術、芸術を細部まで突き詰める精神性と「型」や「間」を重んじる独特の美学を持った日本文化の粋であり、日本の美の象徴である。

 

その季節感や空間の美と併せて料理を五感で味わい、総合的に客をもてなす日本料理は、料理そのものを超えた総合的な技術と文化(Culinary art and culture)の結集として、世界的にも非常に高い評価を得ており、各国の料理にも大きな影響を与え、広く取り(採り)入れられている。

 

このように「日本料理」は世界的に保全する価値を有する文化となっていることから、その発祥の地である日本から保護する活動を早急に行っていくことが求められる。

 

.日本料理の定義と特徴

1 日本料理の定義

日本料理のユネスコ世界無形文化遺産への登録に際しては、油の少ない調理法や出汁、の食材など健康面の価値も含めた料理に止まらず、独自の精神性と美学を根幹に据え、調理から盛り付け、配膳やもてなしの空間まで美しく整えられた料理技術及び作法等の全体を文化として捉えた名称とすべきである。したがって、日本料理の特色と文化的要素(粋:すい)を全て持つ名称として、個人の人生や集団生活における大切な節目において供せられる「儀礼のもてなし料理」の総称「会席(かいせき)料理」が相応しいと考えられる。

 

したがって、ユネスコ世界無形文化遺産への日本料理の登録名称を「日本の会席文化」と定義し、英語名称については、外国人に正確に理解されるよう「Japanese culinary art and culture」と定義する。

 

2 日本料理の特徴

(1)   総論

他の国々の料理と比べ、日本料理の特徴としては「出汁のうま味を基本にすること」、「季節感を尊重すること」、「地域の素材を大切にすること」、「素材の味を引き出すこと」、「健康に良いこと」などを挙げることができる。

 

(2)   優れた技術と独特の思想

基本である「五味五色五法(ごみごしきごほう)」の定式をはじめ、素材の味を最大限に活かし、繊細な味覚に応えた調理、盛り付けに特徴を持つ。また、容器のサイズや器に対する料理の割合が、科学的に見ても味わうのに最も適したサイズに定められた「寸法」をはじめ、「料理」の字義のとおり土地・場所・季節・相手を「はかり定める」思想があり、根本的に料理に対するベースが諸外国とは異なる。

 

(3)   高い精神性と文化性

日本料理の根底には、8 世紀末に始まる平安時代の貴族の社交儀礼の中で発達した宴会(大饗)料理に端を発し、1200 年にわたって京料理を中心に発展してきた食文化の歴史の中で育まれた日本人の精神性が脈々と流れている。それは自然を敬い、ありのままを受け入れ、五感で味わおうとする姿勢や、作り手が受け手のために最高の努力と奉仕をするもてなしの心「もったいない(mottainai」という言葉に表れており、さらに、「取り合わせの美」や「余白の美」といった美に対する独特の感性や、異なる文化を取り入れながら日本的なものに昇華したり、各地の郷土料理を取り入れたりする包容力にも示されている。

 

このように、日本人の高度な精神性と文化性を食で表現したものこそが「日本の会席文化」ということができる。

 

(4)   口承に基づく伝統及び表現並びに社会的慣習

日本料理の中でも特に「日本の会席文化」は、四季折々の食材を、その日の天候や会食の目的、客の好みを汲み取った上で調理するとともに、同じもてなしの心で室内の生け花や掛け軸などの装飾をしつらえ、花々や古典に着想を得た文様を施したテーブルや椀、皿、箸などの食器を選び供することで、美食を食する満足よりも、この日この時この場所で主と客がともに最上の時間を過ごすことに絶対的な価値を見出す「日本の社会的慣習」である。

 

それは子供の誕生、成人、結婚、還暦といった個人や家族の祝祭をはじめ、正月や節句などの伝統的な年中行事のほか、雪、月、花を最も美しい時節に愛でる鑑賞の時など、個人的若しくは社会的儀礼や祭礼、習慣の中の大きな要素と位置付けられている。また「日本の会席文化」は、長年の経験で培われ口承された栄養学的配慮がなされるとともに、食材そのものの名称や形状、成育過程から想起された、例えば祝いの席での「めでたい(鯛)」、「よろこぶ(昆布)」、「かずのこ(数の子、婚礼の際に多産を願う)」などの「言い習わし」をし、それを共有することで個人の感情や思考に訴え、場の雰囲気をその目的に沿った一層の盛り上げに導くという「口承による表現」が特徴となっている。

 

(5)   伝統文化との関わり

日本料理の歴史を踏まえると、以下の4つの流れに分類することができる。

会席料理は、その目的やケースに応じて「有職料理」、「精進料理」、「懐石料理」の形式を基本としながらも、さらにこれに料理人の創造性と美意識やもてなしを含めて提供される。また、料理だけでなく華道や香道、日本舞踊や伝統音楽なども会席料理の重要な構成要素として提供される。

 

一方「おばんざい」は、これらの料理と日本人の食文化に対する感性を共有するものの、日常食であることから、今回の提案においては儀礼のもてなし料理である会席料理を基本として捉えることとする。

 

有職料理

平安時代の貴族の社交儀礼の中で発達した大饗料理が、公家風の料理形式として残った物である。膳の数・形式で分限思想を視覚的に表現する本膳料理に発展。 銘々膳及び飯・汁・菜・香の物の 4 点(一汁三菜)からなる日本料理の様式と基本型を備え、包丁の扱い・献立・料理の盛り方、並べ方、食べ方に至るまで包括するルールが整理されている。但し、現在「有職料理」と言われている物は、本膳料理などの影響も受け、平安時代当時そのままの様式ではない。また、本膳料理を有職料理に含める定義もある。

 

精進料理

宗教的なタブーに規制された粗食から、限られた材料で贅を尽くす発展を遂げた野菜海草料理。煮物や出し汁、細やかな舌の感覚や視覚的なあつらえに工夫を凝らし、日本料理に独特な繊細さ・創造性をもたらしている。

 

大饗(だいきょう/おおあえ)料理

長屋王邸出土木簡などから、奈良時代には既に貴族社会で接待料理が成立していたことが伺えるが、その具体的な形式は不詳である。それが発達した物が「延喜式」神祇項目に出てくる「神饌」と思われ、春日大社の神饌や、談山神社の「百味御食」(ひゃくみのおんじき)などに、その形式を残していると考えられている。

 

平安中期になると、貴族の中でも皇族、摂関家、それ以外の貴族の序列は動かしがたい物となり、その接待の形式として「大饗」が定められる。唐文化の影響を受け、「台盤」と呼ばれるテーブルに全料理を載せたり「唐菓子」など渡来の料理も添えられるなどの献立の多さもさることながら、食べる側にも食べ物の種類ごとに細かい作法が要求されたことが『内外抄』や『古事談』の記述から分かり、現代人から見ると大変堅苦しい物だったようである。

 

出汁を取る、下味をつけるなどの調理技術が未発達で、各自が塩や酢などで自ら味付けをしていた。珍しいものを食べる事によって貴族の権威を見せつけ、野菜を「下品な食べ物」とみなして摂取しなかった事や、仏教の影響で味の美味いまずいを口にする事をタブー視していたことから、栄養面から見るとかなり悪い食事であった。

「大饗」には少なくとも「二宮大饗」と「大臣大饗」の2形式が存在していた。

2014/11/11

「尊」と「命」

 「」または「」と称される「みこと」の語源は「御言」と見るべきである。

 「言葉」は、元々は「」と言った。

 漢文学者の白川静によれば「」は「」と「」から成る。

 「」は刺青の針の象形で「鋭い」(先の尖った鋭利な物)という意味がある。  

 「」(刃物、針)+」。

 刃物で切り開いてはっきりという、または「」は神器を表わすため「誓いを破れば針で罰を受けると神に誓うこと」を意味する。

 「言葉」は「(こと)」と「()」の複合語である。

 古く、言語を表す語は「(こと)」が一般的で「ことば」という語は少なかった。

 「」には「」と同じ意味があり「」は「事実にもなり得る重い意味」を持つようになった。

 そこから「」に事実を伴わない口先だけの軽い意味を持たせようとし「()」を加えて「ことば」になった、と考えられる。

 奈良時代の『万葉集』では「言葉」、「言羽」、「辞」の三種類の文字が使われ「言羽」も軽い物言いを表現しているといえる。

 これとは別に「木の葉のように、無数の種類が存在することを意味する」とする解釈もある。

 「」は、名詞に付いて尊敬の意を表す。

 これを要するに「神のような貴い方の発する言」が「御言(みこと)」となる。 
  後代になって、天皇の発するお声を「御言葉」というのも、ここから来ているとみてよい。

 神代では「」はなく「御言」、すなわち「みこと」となる。

 古代では、命令のことを「御事(みこと)」と言った。

 いわゆる「神のお告げ」(神勅)である。

 「神からの命令(御事)は、命を賭けても果たすべきもの」である故に「」の字を当てたと思われる。

 「」の字は「」と「」から成る。

 「」は儀礼用の深い帽子を被り、跪いて神のお告げを受ける人の形を表したもの。

 「」は、神への祈りの文である祝詞をいれる「サイ」を表す。

 神に祝詞を唱え、お告げとして与えらえたものを「」といい「神のお告げ、おおせ、いいつけ」の意味となる。

 生命のように「いのち」の意味で用いるのは、人の命は天から与えられたもの、神のおおせであると考えられたからだ。

 金文甲骨文では「」を「」の意味として使っていて、令が命の元の字である。

 別の解釈では「」の上の部分は冠を表す。

 先に記載した通り「」は神への祈りの文である祝詞を入れる「サイ」を表し、右側は「跪く」人の姿である。

 「冠」は神の象形だから、まさに「跪いて神のいいつけ(ご神勅)を賜る姿」である。

 そして命を懸けて、それを実行に移すことから「xxx」となる。

 一方の「」は上部は酒樽を表し、下の「」は両手で捧げ持っている象形と言われる。

 両手で酒樽を頭の上に捧げ尊ぶ姿である。

 大雑把に分類すると、古事記では「」、日本書紀では「」が使われる。

 大和言葉の古事記は日本人が記し、漢文の日本書紀は主に雇われC国人が記したものと言われる。

 古事記が日本人向けに日本人が書いた内輪の書物であったのに対し、日本書紀は主にC国などの外国向けに「日本にもこういう立派な史書があるんだぞ」ということで、日本=先進国家というアピールを諸外国に示したいがために作られた書物だった。

 が、当時の日本人には、C国人が読んでも違和感のないレベルの漢文を書ける人材は、まだ少なかった。

 そこで高い給料を払い、C国から一流の学者を呼んで日本書紀を書かせた。

 日本書紀が「命」ではなく「尊」を使用したのは、おそらくC国人からみると「xxx命」では、先に記したような意味がわからなかったからである。

 だからC国人でも、すぐにその人物の身分の高さがわかるように「」を「」という文字に置き換えて記述したと思われる

 それが後に単純化され、命令をする方の(より尊い)神が「」、命令を受けて命を懸けて実行に移す神が「」というような区分となっていった。

2014/11/10

配膳(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(8)

日常的な食事の構成としては、ご飯(白米やその他の穀物を炊いたもの)、汁物、おかず3品(主菜1品と副菜2品)という組み合わせを取り「一汁三菜」と言う。これらを好みにより交互に食べる。この際、口の中で味を混ぜる事も多く、御新香のような塩気の強いものと、ご飯とを合わせて食べる。その後に味噌汁を啜るなど「口内調味」を行う。こうすることで、それぞれを単独で味わうより美味しい、とされる。

 

一方、懐石料理・会席料理のように改まった席では、一品(あるいは一膳)ずつ順番に料理が供されるのが普通である。西洋料理には「コース」という概念があり、何段階かに分けて異なる種類の料理(前菜、スープ、主菜など)を食べるが、日常の日本料理ではそのような構成をとらないのが一般的である(日常食を提供する食堂・レストランも同様)。また食器や食事室の統一性にも配慮が払われる。

 

盛り付けの作法

盛付けの美しさは、日本料理の大きな特徴である。調理した食材を彩りよく並べるだけでなく、器の質感や絵柄なども吟味し、季節や風情を盛り込むことも調理の一つとされる。

 

箸を右手で扱う右利き向けの配膳が基本となっている。ご飯は左、味噌汁は右。古来より「左が上位」と扱う文化(左大臣は右大臣より上位など)のため、主食のご飯を左に置くのが正しい。

 

尾頭付きの魚の盛り付け方は、頭を左、腹を手前側に向ける(ただしカレイに限っては、頭を左にして腹を上にしたり白い面を表にして、腹を手前にしたりする場合がある)

 

魚の切り身の盛りつけ方は、魚の種類によって皮を上にする「皮表」とすべき場合と、身を上にする「身表」とすべき場合があるが、殆どの魚は皮表で盛りつける。したがって皮を上側、身を下側にして盛りつける(鮭などで薄い切り身となっている場合には、皮を奥側、身を手前側とする)

 

これに対しウナギ、アナゴ、ハモなどは身表とする。長い食材は、長方形の皿に盛り付ける。大根おろしや刻みねぎなど、付け合せは手前側に置く(「前盛り」と呼ぶ)。日本料理の食事作法は、他文化の食事方法とは大きく異なる点が多い。

 

食器

食器は漆器、陶器、磁器など、多くの種類を併用する。器には多彩な絵付けが施され、盛り付けに工夫が凝らされる。特に陶器は造形の制限が緩やかで、濃い色の皿・角型の皿、花や果実の形を模した器など、伝統的な欧米の料理の食器とは大きく異なる。近隣国で陶磁器生産の歴史がある中国・韓国と比べても、丸皿を多用し伝統的な絵付けの陶磁器を用いる中華料理や、金属製の器や絵付けのない白磁の食器を主とする韓国料理に比べ、異彩を放っている。

 

また、陶磁器の普及までは木椀を使用しており(九州では、陶磁器の普及により木椀を用いる習慣が殆ど失われた一方、東北地方では近代にいたるまで木椀を多用する文化が残っていた。また社会階層により普及の時期は異なる)、漆器の多用はその名残であると言える。家庭では、ご飯茶碗・箸は各人専用のものを用いる習慣がある(「属人器」と言う)

出典 Wikipedia

2014/11/02

行ったぜ、東北。(鄙びた温泉編)

この日の宿は、北上に近い郊外である。最寄駅の金ヶ崎までは平泉から電車で25分程度だから、まだ宿に向かうには早い。観光案内で聞いた日帰り温泉へ寄ろうとしたが、次の電車までの待ち時間が50分ほどという中途半端なタイミングだった。

 


 

温泉まで歩いて1520分ほどというから往復3040分とすると、ゆっくり入っているには時間が足りない。とはいえ、その次の電車となると例によって1時間も先になってしまい、それではゆっくり温泉に入ったとしても時間が余りすぎてしまう。そこで、温泉は翌日の帰る前にゆっくり寄ることにして、次の電車に乗車した。

 

(これじゃ、宿に早く着き過ぎるな・・・)

 

と思ったとしても無理はなく、計算上は6時ころには到着する予定だった。ところが、ここでまたしても大きなミスが発生した!

なんと愚かなことに、ようやく来たと思って飛び乗った電車が、反対方向の一ノ関の方に戻ってしまったのである。普通なら、なんてことのないミスと言えたが、なにせこのような土地ではこうしたミスは「致命的」である。反対方向となる金ヶ崎へいく路線は、タイミング悪く入れ違いで出てしまったばかりで、次の電車は1時間以上も先ではないか。

 

(ちくしょう!

こんなことなら、あの温泉に余裕で入れたじゃないか!)

 

などと地団太踏んだところで、全てはアフターカーニバル。そして、今度はようやく間違えずに乗った電車で金ヶ崎に到着した時は、すでに7時を過ぎていた。

 

車窓の外は真っ暗な田舎町で

 

(果たして、駅にタクシーなんているんかいな?)

 

と不安が頭を擡げてきたが、案の定タクシーなどは影もなかった。旅館までは「車で15分」とあるから、とても歩いて行ける距離ではなく、タクシーがないことには行きようがないではないのである。

 

(こりゃ、参った!)

 

途方に暮れてタバコをふかしている間にも、雨はいよいよ本降りになってきた。思いついて公衆電話のところに行くと、ようやくタクシー会社の看板が目に付いたのは幸いだったが、旅館は遠く3400円もかかってしまった (▼д▼)y─┛~~゚゚゚

 


2014/11/01

行ったぜ、東北。(鳴子~平泉編)

初の東北旅行だ。

地元の愛知在住時は、東北とか北海道は遥か遠方の地だったが、東京に来てからはうんと近くなった。こうして、いよいよ「東北旅行」が現実味を帯びた。ところが、現実は長野や山梨の方にばかり足が向いてしまい、東北にはなんとなく行きそびれたまま、遂に10年が経過した。実のところ、この旅行も早くから予定していたものではない。最初は千畳敷カールを予定していたのが、諸般の事情で行きそびれてしまったことから、瓢箪から駒の如くに急遽決定した東北旅行だった。

 

東北で紅葉の名所で思いつくのは鳴子峡、猊鼻渓、厳美渓など。そして紅葉はさて置いても、世界遺産の平泉も必見である。このようなスケジュールを元に、初日は中山平温泉駅で下車して鳴子峡の紅葉の絶景を堪能し、お目当ての鳴子温泉へと移動する。

 


 

ホテルの広い大浴場、露天風呂とも誰もいない貸切状態で、鳴子温泉のツルツルとした湯が気持ち良い。本来は鳴子温泉に泊まりたいところだったが、次の目的地の岩手までの移動時間を考え、観光に影響のない夜の間に目的地に近い一ノ関に移動した。鳴子温泉で有名な「滝の湯」に寄りたいところだったが、電車の時間が微妙で一つずらすと1時間以上も先になってしまう。これだと逆に時間が余ってしまうが、温泉街とはいえ一杯飲み屋のような店も見当たらないことで、残念だがここは諦めた。

 

この日は、どこも食事付きの旅館が満室だったため、一関駅に近いホテルを予約していた。ホテルのレストランで刺身の三点盛り、前沢牛タンステーキ、十割そばなどのセットと地酒を堪能し、蔵を改造したバーで飲み直して眠りに就く。

 

2日目は猊鼻渓に行く予定だったが、ここで大きなミスが発覚した。一ノ関駅から猊鼻渓行の電車は「9:25」発のハズで、それに合わせてホテルの朝食バイキングで腹ごしらえをし、駅に向かったのである。ところが駅の電光案内版を見ると、猊鼻渓行は「10:40」と1時間以上も先にしか来ないではないか!

 

(なんじゃ、こりゃ!)

 

検索した「Yahoo!」の乗換案内の画面を見せながら

 

「ここに出ている925分発の電車は?」

 

と駅員に詰め寄ると

 

「これは・・・夜の925分ですけど・・・」

 

確かに、よく見ると「21:25」となっているではないか!

 

何度も繰り返し見ていながら、なぜこんなアホな勘違いに気付かなかったのかと大いに悔やまれる。が、いかに悔やんだところで、1時間以上先にしか電車は来ない事実が変わるわけはないから、予定を見直すしかない。バスの案内所へ行くと、猊鼻渓に行くにしろ平泉に行くにしろ、いずれにせよバスは10時発になるらしい。それでも、何も娯楽のない田舎で1040分まで電車を待ってはいられないから、10時のバスで平泉を回るコースに変更した。それというのも、ここへ来て天気予報が外れて雨がぱらついてきたことがあって、見上げる空は黒い雲に覆われていた。こんな不穏な天候で船下りを楽しめるとは思えないし、なにより苦労して猊鼻渓まで行ったはいいが、雨でお目当ての船下りが中止にでもなったら目も当てられぬ。そこから、また1時間も電車で待たされた利した挙句、下手をすれば1日丸潰れなんてことにもなりかねないのである。

 

こうして厳美渓行のバスに乗車し、厳美渓~達谷窟毘沙門堂~そして毛越寺と立て続けに見学。毛越寺浄土庭園の紅葉はまさに見頃で、時折晴れ間も覗き始めた天候も味方し素晴らしい景観が楽しめた。

 


 

メインの中尊寺へ行く前に、門前にあるレストランで前沢牛ステーキ、十割そばなどの名物盛りだくさんの「岩手黄金ランチ」と地酒を堪能し、中尊寺へ足を踏み入れる。

 


 

長い登り坂を上がりきったところで、ようやくにして奥州藤原氏三代の栄華の象徴とも言うべき「金色堂」を拝むことができた。