2024/01/30

北欧神話(5)

●巫女の予言:世界の起源と終焉

世界の起源と終局は『詩のエッダ』の中の重要な一節『巫女の予言(ヴォルヴァの予言)』に描かれている。

 

これらの詩には、宗教的な全ての歴史についての最も鮮明な創造の記述と、詳述されている最終的な世界の滅亡の描写が含まれている。

 

この『巫女の予言』では、ヴァルハラの主神オーディンが、一度死んだヴォルヴァ(巫女)の魂を呼び出し、過去と未来を明らかにするよう命じる。

 

 巫女は、この命令に気が進まず

 

 「私に、そなたは何を問うのか?

 なぜ私を試すのか?」

 

 と述べる。

 

 彼女はすでに死んでいるため、オーディンに対する畏怖は無く、より多くを知りたいかと続けて嘲った。

 

 しかしオーディンは神々の王としての務めを果たす男ならば、すべての叡智を持たなければならないはずであると主張する。

 

 すると巫女は過去と未来の秘密を明かし、忘却に陥ると口を閉じた。

 

●始まり

 北欧神話においては、生命の始まりは火と氷で、ムスペルヘイムとニヴルヘイムの2つの世界しか存在しなかったという。

 

 ムスペルヘイムの熱い空気がニヴルヘイムの冷たい氷に触れた時、巨人ユミルと氷の雌牛アウズンブラが創り出された。

 

 ユミルの足は息子を産み、脇の下から男と女が1人ずつ現れた。

 

 こうしてユミルは、彼らから産まれたヨトゥン及び巨人達の親となる。

 

 眠っていたユミルは後に目を覚まし、アウズンブラの乳に酔う。

 

 彼が酔っている間、牛のアウズンブラは塩の岩を嘗めた。

 

 この出来事の後、1日目が経って人間の髪がその岩から生え、続いて2日目に頭が、3日目に完全な人間の体が岩から現れた。

 

 彼の名はブーリといい、名の無い巨人と交わりボルを産むと、そこからオーディン、ヴィリ、ヴェーの3人の神が産まれた。

 

 3人の神々は自分たちが十分に強大な力を持っていると感じ、ユミルを殺害する。

 

 ユミルの血は世界に溢れ、2人を除くすべての巨人を溺死させた。

 

 しかし巨人は再び数を増やし続け、すぐにユミルが死ぬ前の人数まで達した。

 

 その後、神々は死んだユミルの屍体で大地を創り、彼の血液で海・川・湖を、骨で石・脳で雲を、そして頭蓋骨で天空をそれぞれ創りだした。

 

 更にムスペルヘイムの火花は、舞い上がり星となった。

 

 ある日、3人の神々は歩いていると2つの木の幹を見つけ、木を人間の形へ変形させた。

 

 オーディンはこれらに生命を、ヴィリは精神を、そしてヴェーは視覚と聞く能力・話す能力を与えた。

 

 神々は、これらをアスクとエムブラと名づけ、彼らのために地上の中心に王国を創り、そこを囲むユミルの睫毛で造られた巨大な塀で、巨人を神々の住む場所から遠ざけた。

 

 巫女は、ユグドラシルや3柱のノルン(運命の女神)の説明に進む。

 

 巫女は、その後アース神族とヴァン神族の戦争と、オーディンの息子でロキ以外の万人に愛されたというバルドルの殺害について特徴を述べる。

 

 この後、巫女は未来への言及に注意を向ける。

 

●終局(終末論信仰)

 古き北欧における未来の展望は、冷たく荒涼としたものであった。

 

 同じく北欧神話においても、世界の終末像は不毛かつ悲観的である。

 

 それは、北欧の神々がユグドラシルの他の枝に住む者に打ち負かされる可能性があるということだけでなく、実際には彼らは敗北する運命にあり、このことを知りながら常に生きていたという点にも表れている。

 

 信じられているところでは、最後に神々の敵側の軍が、神々と人間達の兵士よりも数で上回り、また制覇してしまう。

 

 ロキと彼の巨大な子孫達は、その結束を打ち破る結果となり、ニヴルヘイムからやってくる死者が生きている者たちを襲撃する。

 

 見張りの神であるヘイムダルが、角笛ギャラルホルンを吹くと共に神々が召喚される。

 

 こうして、秩序の神族と混沌の巨人族の最終戦争ラグナロクが起こり、神々はその宿命としてこの戦争に敗北する。

 

 これについて既に気づいている神々は、来たる日に向けて戦死者の魂エインヘリャルを集めるが、巨人族側に負け神々と世界は破滅する。

 

 このように悲観的な中でも、2つの希望があった。

 

 ラグナロクでは、神々や世界の他に巨人族もまたすべて滅びるが、廃墟からより良き新しい世界が出現するのである。

 

 オーディンはフェンリルに飲み込まれ、トールはヨルムンガンドを打ち倒すが、その毒のために斃れることになる。

 

 最後に死ぬのはロキで、ヘイムダルと相討ちになり、スルトによって炎が放たれ「九つの世界」は海中へと沈む。

 

 このように、神々はラグナロクで敗北し殺されてしまうが、ラグナロク後の新世界ではバルドルのように蘇る者もいる。

 

 ただし、ラグナロク後の展開は解釈や資料によって異なり、異版では新たな世界が生まれることなく、世界が滅亡するというものもある。

2024/01/26

唐(9)

会昌の廃仏

武宗

文宗を継いだ弟の武宗は道教を崇拝すること厚く、道教側の要請もあり廃仏(会昌の廃仏)を行った。まず845年から始まった廃仏により、還俗させられた僧尼が26万人余り、廃棄寺院4600、仏具や仏像は鋳潰されて銅銭などになった。寺院は長安・洛陽に4、各州に1とし、それぞれに30から50の僧侶が所属するのみとした。これによって仏教界は大打撃を受けた。後世に、三武一宗の廃仏と言われるうちの3番目である。この廃仏は、単に道教に傾倒した武宗と道教側の策謀によるものだけではない。同時期に祆教・摩尼教・景教(唐代三夷教)も弾圧されているように、唐の国際性が薄れて一種の民族主義的なものが前面に出てきたことにもよる。

846年に武宗が死去し、後を継いだ宣宗により廃仏は終わった。

 

乱の続発

牛李の党争が終わった10年ほどの後の858年、張潜という官僚が藩鎮で行われていた羨余という行為について非難する上奏文を出した。羨余とは、藩鎮が税を徴収した後、藩鎮の費用と上供分を除いて余った分のことを指し、それを倉庫にためた後に進奉といって正規の上供分とは別に中央に送った。この行為を政府は盛んに奨励し、進奉の額が節度使の勤務評価の基準ともなっていた。その出所はといえば民からの苛斂誅求に他ならず、民を大いに苦しめることとなった。これに対しての批判が先に挙げた張潜であるが、増大する経費を賄うには政府は進奉に頼らざるを得なくなっていた。

 

また民を搾り取るだけでは足らず、兵士の人員の削減・給料のピンハネなども行われた。このような節度使に対して兵士たちは不満を抱き、節度使・観察使を追い出す兵乱が続発する。これら兵乱に刺激を受けて起きたのが裘甫の乱である。

 

859年にわずか100人を率いて蜂起した裘甫は、浙東藩鎮の海岸部象山県次いで剡県を攻略、近くの海賊や盗賊・無頼の徒を集め、3万という大軍に膨れ上がった。その後浙東を転戦したが、政府は安南討伐に功を挙げた王式を派遣し、ウイグルや吐蕃の精兵も投入し、翌860年に鎮圧した。

 

続けて868年、南詔に対する防衛のために桂州に山東で集められた兵士の部隊が派遣されていたが、いつまでたっても交代の兵は来ず、前述のような給料のピンハネもあり、不満を爆発させて龐勛を指導者として反乱を起こした(龐勛の乱)。龐勛軍は、まず故郷である山東の徐州へと帰還し、失職兵士や没落農民、各種の賊を入れて一気に大勢力となった。さらに、この乱の特徴として貧農ばかりではなく、地主層もこの乱に参加したことが挙げられる。ここにいたって、この乱は当初の兵乱から農民反乱の様相を呈することとなった。しかし雑多な寄せ集めの軍ゆえに内部の統制が取れなくなり、また龐勛の方針も唐に対して節度使の職を求めたりなど一定しなかったので、ますます内部が乱れた。これに対して唐は7万の軍と突厥沙陀族の精兵騎兵3000を投入し、869年にこれを鎮圧した。

 

滅亡

朱全忠

裘甫の乱・龐勛の乱に続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である黄巣の乱である。870年くらいから唐には旱魃・蝗害などの天災が頻発していたが、唐の地方・中央政府はこれに対して無策であった。この時の蝗害は長安周辺にまで及んだが、京兆尹が時の皇帝僖宗に出した被害報告が「イナゴは穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり」というでたらめなものであった。

 

このような状態に対して、874年(あるいは875年)に濮州の塩賊の王仙芝が滑州で挙兵、これに同じく曹州の塩賊の黄巣が呼応したことで「黄巣の乱」が始まった。

 

この反乱集団には、非常に雑多な人種が参加した。没落農民・失業兵士・塩賊・茶賊・大道芸人などなど。これらの軍団を率いて、特定の根拠地は持たず山東・河南・安徽を略奪しては、移動という行動を繰り返した。唐政府は、これに対して王仙芝に禁軍の下級将校のポストを用意して懐柔しようとしたが、黄巣には何ら音沙汰がなかったため黄巣は強く反対。これを機に、黄巣と王仙芝は別行動を取ることになった。

 

878年、王仙芝は唐軍の前に敗死した。黄巣軍は江南・広州に入って唐に対して節度使の職を要求するが、唐はこれを却下した。怒った黄巣は、広州に対して徹底的に略奪と破壊を行った。

 

しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ戻ることにした[166]

 

880年、黄巣軍は洛陽南の汝州に入り、ここで黄巣は自ら天補平均大将軍を名乗る。同年の秋に洛陽を陥落させる。さらに黄巣軍は長安に向かって進軍し、同年冬に長安を占領した。黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を「大斉」とし金統と改元した。しかし長安に入場した黄巣軍には、深刻な食糧問題が生じた。元々、長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていた。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、食人が横行した。

 

882年、黄巣軍の同州防御使であった朱温(後の朱全忠)は黄巣軍に見切りを付け、黄巣を裏切り唐の官軍に投降した。さらに突厥沙陀族出身の李克用が、大軍を率いて黄巣討伐に参加した。

 

883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗した。その後、黄巣は河南へと逃げるが、李克用の追撃を受けて884年に自殺した。こうして、「黄巣の乱」は終結した。

 

黄巣の乱は終結したが、最早この時点で唐政府には全国を統治する能力は失われており、朱全忠・李克用ら藩鎮軍閥勢力は唐より自立。唐は一地方政権へと成りさがってしまった。この割拠状態で唐の宮廷では宦官・官僚らが権力争いを続けていた。

 

しかしそれまでの権力争いと違って、それぞれの後ろには各軍閥勢力がいた。軍閥は皇帝を手中にすることで、その権威を借りて号令する目論見があった。この勢力争いに勝利したのが朱全忠であった。朱全忠はライバル李克用を抑え込むことに成功し、鳳翔節度使李茂貞を滅ぼして皇帝昭宗を自らの根拠地である汴州に近い洛陽へと連れ出した。

 

そして907年。朱全忠は、唐の最後の皇帝哀帝から禅譲を受けて皇帝に即位。国号を「梁」(後世からは後梁と呼ばれる)とした。ここに300年近くに渡った唐王朝の歴史は終わりを告げた。しかし、この時点で後梁の支配地域は河南や山東などごく一部の領域に過ぎず、これから宋が再び統一するまでの約70年間、五代十国時代と呼ばれる分裂時代となる。

2024/01/23

ムハンマド(5)

アーイシャとの婚姻をめぐる議論

ハディースなどの伝承によると、最初の妻ハディージャが没した後、ムハンマドはヒジュラ後のメディナ居住時代に寡婦サウダとアブー・バクルの娘アーイシャと結婚している。ムハンマドの妻たちの多くは結婚経験がある者がほとんどで、ハディースなどの記録による限り結婚時に処女だったのはアーイシャのみであり、特に当時のアラブ社会でも(現在でも、中東や東欧など第三世界でもそうだが)他の地域と同じく、良家の子女にとって婚姻以前の「処女性」は非常に重要視されており、アーイシャの場合も処女で婚儀を結んだことがムスリムの女性の模範のひとつとして重要視されている。

 

ただ、当時の習慣により、このムハンマドの最愛の妻と呼ばれたアーイシャは、結婚時9歳であり、対してムハンマドは50歳代に達していた。そのため反イスラーム主義者の一部は、これを口実に『ムハンマドは9歳の女の子とセックス(性行為)を行ったのではないか?』とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている。

 

これに対して、前近代の人類社会では有力家系の子女が10歳前後で結婚することはありふれており、このこと自体は歴史的事実として確認されている、という反論がある。類例の場合は、結婚が成立してもおおよそ初潮後の適齢になるまでセックスは行わないのが通例であった。ムハンマドのケースにおいても、インドのイスラーム学者マウラナ・ムハンマド・アリーは、アーイシャがムハンマドと初夜を迎えた年齢は15歳であったと主張している。

 

一夫多妻に関しての議論

ムハンマドらが生きて居た当時、一定以上の財産・地位を持つ自由民男性は通常複数の女性と結婚し、当然ながら子孫を得るため彼女らとセックス・性行為を行った。これはムハンマドも同様であった。

 

この事自体は(現代ならばともかく)、その当時の人類社会における富裕層・支配層では極当たり前の習慣であり、前近代の社会においては一般的で過度に強調するべきことではないともいえる。しかしながら、一夫多妻が女性への人権侵害であるという考えも近現代では強く、かつムハンマドの事績は現代でも規範性を有しているため、論争になっている。ただし当然のことだが、この家族形態(一夫多妻)が前近代の社会で一定程度見られたことを事実として認めることと、この家族形態が当時さらには現代社会においても倫理的に正当性を有するとみなし、これを倫理的に是認するか否かと論じることは、また別の問題である。

 

セックスに対する認識

ムスリムの真正集によれば、ムハンマドはある日女性を見て、その足ですぐ家に戻り妻の一人ザイナブのところに行った。その後、教友(サハーバ)達の所に赴き、女性を見て彼女に欲情した時はすぐに妻のところに赴き性交することで情欲を抑えるように説教したとされる。

 

女性捕虜の取り扱い

歴史上、当時の戦争の習慣において当然のことであった女性捕虜の扱いは、前近代においてイスラーム共同体と、非ムスリム世界との戦争によって発生した女性の捕虜に対しても存在した。このことについて、ブハーリーのハディース集「真正集」には、ムハンマド在世中のヤマン遠征において、既にこのような事例が存在したことが記されている。ただしクルアーンによれば、捕虜であっても非ムスリムと婚姻を結んだり、性交におよぶことは禁止されている。

 

ムハンマドと奴隷解放

ムハンマドは当時の有力者と同じく奴隷を所有したが、その取り扱いは当時の基準に照らせばかなり寛容なもので、奴隷解放を勧めていたとされる。クルアーンとハディースでは奴隷の所有それ自体は禁じられていないが、なるべく奴隷を解放することに徳を見出し、奴隷に対しても自分が食べるものを食べさせ、自分が着るものを着せ、無理な仕事をさせず大切に扱うべきだと説かれている。ムハンマドとアブー・バクルにより、粗暴な主人のもとから解放された黒人奴隷ビラールは、初期のムスリムの一人である。

 

ムハンマドと識字

ムハンマドは字が書けず、読むこともできない文盲であった。このことに関する伝承は数多く存在する。しかし、非ムスリムの間で異論を唱える学者もいる。

 

ムハンマドの絵画描写

イスラームにおける偶像崇拝(ここでは、アッラーフ以外のものをあがめること)禁止の教義から、イスラーム世界では絵画や彫刻などの視覚芸術の発達にブレーキがかかった。とりわけ人物画は、偶像崇拝につながりやすいとして回避されてきた。あえて描写する場合は「預言者になる前のムハンマド」などとして、禁忌を回避する傾向が見られる。

 

しかし、これも地域差が非常に大きく、地域・時代によっては人物画を含めた絵画や彫刻が盛んに作られた場合もあり、預言者ムハンマドの肖像画も少なからず描かれた。ムハンマドの肖像画には「顔が隠されているもの」と「隠されていないもの」の両方が存在している。

 

このことは現代の日本でも配慮されていることがある。例えば集英社の学習漫画「世界の歴史」第6巻「マホメットとイスラムの国ぐに」(1986年刊行)では、ムハンマド(マホメットと表記)の顔は黒塗りで隠されたり、逆光や後ろ姿・顔部分をカットする技法を活かして読者が閲覧して不自然にならない描写にしている。欄外には「イスラム教徒の中に、神や預言者の顔を描いてはいけないという教えがあるため、マホメットの顔を描いていない」旨の注記がある。しかし、同じシリーズで先に刊行された「世界の歴史人物辞典」(全1巻、1984年行)では、ムハンマド(マホメット表記)の顔は他の人物と同じように描かれているが、改訂された2002年版では黒塗りで書き直されている。

 

学研の学習漫画「学研まんが 世界の歴史」はシリーズ刊行当初(1992年)、第7巻が「イスラム帝国と預言者マホメット」として、表紙はじめ各所でムハンマドの顔が描かれていたが、1995年になって7巻がそのまま別の主題(「西ヨーロッパの成立とカール大帝」)に差し替えられる形で旧版は絶版となった。他の歴史漫画でも、ムハンマドの顔を描かないように配慮したものもある。

 

ムハンマドを描いた映画

プロジェクト イスラーム

ザ・メッセージ(アラビア語版)(1976年、アメリカ・モロッコ・リビア・サウジアラビア・クウェート合作、ムスタファ・アッカド監督)

預言者ムハンマド(ペルシア語版)(2015年、イラン、マジッド・マジディ監督)

これらの映画についても、偶像崇拝を避けるためムハンマドを映さない演出が取られており、前者はムハンマド自身が見ている風景をスクリーンに映すという手法が取られている。後者はムハンマドその物は登場するものの、顔は映されず役者名も明かされていない。

2024/01/16

唐(8)

後期

律令体制の崩壊

何とか乱を収めた唐であったが、そのダメージは非常に大きかった。防衛体制の緩みをつかれて吐蕃に長安を一時期占領されるという事態が起きている。また反乱軍の将を寝返らせるために、節度使の職を持って勧誘した。これが後に河北三鎮と呼ばれ、中央の意向を無視した半独立勢力となり、歴代政府の懸念事項となった。乱により荒れ果てた華北では多数の流民が生じ、755年に890万戸を数えたのが764年には293万戸までに激減している。

 

逃戸の増大により均田租庸調制・府兵制の両制度は機能しなくなり、周辺民族の活発化により羈縻政策もまた破綻。これらの事態は開元の治以前から進行していたが、安史の乱により、はっきりとこの事態に対する新たな対応策が必要となっていた。これに対するのが、律令には存在しない使職という新たな役職である。最初は地方の観察を後に地方の最高行政官となる観察使・税を司る度支使・漕運を司る転運使・専売制を司る塩鉄使などがあり、いずれも非常に重要な役割を果たした。特に758年に開始された塩の専売は大きな利益を上げて、以後の唐の財政に不可欠のものとなった。ゆえに塩鉄使の地位は非常に重要視され、宰相に準ずる職となった。しかし専売に対して密売の私塩が止まず、塩賊と呼ばれる私塩業者が各地で活動した。

 

前述の節度使も使職の一つであり、安史の乱以後に節度使は観察使を兼職するようになり、それまでの軍事権に加えて行政権も握るようになった。江南では節度使は置かれず、観察使が防禦使・経略使などの軍事職を兼任してこちらも軍事・行政を司るようになった。これらを総称して藩鎮と呼ぶ。首都長安と副都洛陽が所属する京兆府と河南府を除き、全国に40-50ほどの藩鎮が置かれた。京兆府と河南府以外の土地は、全ていずれかの藩鎮の勢力圏となった。先に挙げた河北三鎮のような、中央の意向を無視するような藩鎮を反則藩鎮と呼ぶ(逆に従順な藩鎮を順地という)。これら反則藩鎮は領内において勝手に税を取り立て、さらに中央に納めるべき上供も怠ることが多かった。

 

また逃戸・客戸の増大により租庸調の収入は激減し、それを埋めるために青苗銭・戸税などの税が徴収されるようになる。農民の負担はますます重くなり、農民の没落・逃戸の増大に繋がるという悪循環に陥っていた。これら複雑化した税制を一本化したものが、780年に宰相の楊炎の権限によって実施された両税法である。両税法では夏税(6月納期)としてムギ・秋税(11月納期)にアワ・コメを税として取り立て、それ以外の税を禁止した。藩鎮・地方官が、勝手な名目で税を取り立てることを防ぐ意味もあった。そして均田租庸調が民一人一人を対象とするのに対して、戸を対象とし、その資産を計って税額を決める、銅銭での納税が原則とされた。

 

両税法の実施により、唐は均田制を自ら否定したことになり、それまで規制していた大土地所有を事実上公認したことになる。この後は、荘園が拡大していくことになる。

 

藩鎮との攻防

憲宗

770年ごろになると、安史軍から投降して節度使になった李懐仙・薛嵩・田承嗣らが相次いで死去する。藩鎮側は節度使の世襲を望んだが、唐政府は新任の節度使の赴任と藩鎮の兵力削減を言い渡した。両税法が実施されたことを切っ掛けに、781年に河北三鎮(盧龍・天雄・成徳)を中心に7の藩鎮が唐に対して反乱を起こした。反乱軍により長安を落とされ、時の皇帝徳宗は梁州に避難した。のちに長安は回復するものの藩鎮の罪を問うことはできず、赦免せざるを得なかった。

 

805年に新たに即位した憲宗は、この事態に断固たる態度で臨んだ。両税法の実施により、財政に余裕ができたことで禁軍である神策軍を大幅に強化し、兵力15万を数えるまでになった。この兵力を元に806年から次々と藩鎮を征伐し、819年から821年にかけて河北三鎮を順地化することに成功した。

 

これと並行して、それまで藩鎮内の属州の兵力を全て節度使が指揮していたのものを属州の兵は属州の刺史が統括するものとした。また属州の税収は州県の取り分(留県・留州)を取った後は、節度使の費用を取った(留使)後に中央へと送られていた(上供)ものを県から直接、上供することにした。これらの政策により、節度使の持つ兵力・財力は大幅に削減されることになる。更に節度使には中央から派遣した官僚を就けることとし、その任期も3年ほどと短くした。また節度使の監察を行うために宦官を監軍として付けることにした。

 

このようにして、憲宗は藩鎮の抑圧・中央集権の回復に成功した。これにより、憲宗は中興の英主と讃えられる。

 

朋党の禍・宦官の台頭

この頃になると科挙、特に進士科出身の官僚は官界での勢力を拡大し、旧来の貴族勢力と拮抗するまでになった。また貴族の子弟たちの中でも任子ではなく、科挙受験の道を選ぶ者も増えていた。科挙出身者は、その年の試験の責任者と受験者たちの間で座主門生と称する縦の、同期の合格者同士で横の、それぞれ人間関係を構築していた。この関係性を元に、官界でも派閥が作られるようになる。

 

この延長線上に起きたのが牛李の党争である。牛僧孺・李宗閔ら進士出身の党と李徳裕の貴族層の党が820年から以後、40年に渡って政界で激しく争い、負けた方の派閥の人間は全て失脚して左遷・争いが逆転すると同じことをやり返すという状態になる。このことを文宗(第17代皇帝、穆宗の2代後)は「河北の賊を去るのは難しくないが、朋党の争いを収めるのは難しい」と嘆いた。

 

文宗の頭を悩ませた、もう一つの問題が宦官である。藩鎮討伐に使われた神策軍の司令官は宦官が就くことになっており、宦官はこれにより大きな軍事力を握ることになった。また藩鎮に付けられた監軍は、これも宦官が務めたが、文官の節度使は任期が終わる際に勤務実績を良く報告してもらうために監軍に賄賂を送るようになった。これにより、中央官僚の人事にも権限を持つようになった宦官は、遂には皇帝の廃立すら決めるようになった。第12代穆宗から第19代昭宗までの間で、第13代敬宗を除く7人は全て宦官に擁立されたものである。先述の党争においても、宦官の権力を利用して政敵を排除している。

 

文宗は宦官排除を目論んで計画を立てる。それは宮中に甘露が降ったという嘘を上奏させ、宦官たちが集まったところで一気に誅滅してしまおうという計画であった。しかし、直前で計画が宦官側に露見して失敗。文宗の立場はますます弱いものとなり、「朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆いた(甘露の変)。

2024/01/14

ムハンマド(4)

政治家としてのムハンマド

ムハンマドは、世俗的な意味においても世界史を塗り替えた人物である。アラビア半島を統一してイスラーム帝国の礎を築いた。死後に築かれた巨大な世界帝国には遥か及ばないものの、その初期段階としての国家組織と軍隊を生前に確立しており、世界宗教の創始者としては、これも他に例がない。ムハンマドは生涯26回も自ら信徒を率いて戦い、多くの戦いで先手を取り、ときには策略を用いて、何度も不利な戦闘で勝利するなど、すぐれた軍事的指導者でもあった。また情勢を客観的に分析することができ外交も得意であった。統治者としてのムハンマドは、勇敢で英知ある行動をとることも少なくなかった。[要出典]

 

対異教徒政策

イスラムのアラビア制覇は征服によるものばかりではなく、他部族への宣教、懐柔によるところも大きい。イスラーム教徒はもちろん、多くの非ムスリムもムハンマドを当時としてはたいへん寛容な人物であったとしており、クルアーンの初期の啓示からも、そのことが確認できる。

 

マッカとの交戦時代には、マディーナ憲章で互いの信仰が保証されていたにもかかわらず、アラブのユダヤ教徒との宗教的・政治的対立に悩まされ続けた。特にマディーナへの移住以降、外来の自身とムスリムたちのマディーナでの地位向上を巡って、内外の勢力との対立を深め、ユダヤ教徒であるカイヌカー族(Banu Qaynuqa)などはマッカ側と内通するなどしていた。6244月、ひとりのムスリムとカイヌカー族のある男性との殺人事件をきっかけに武力対立が顕在化し、ついに同族の砦を包囲陥落。かれらはメディナから追放された。これを機に、キブラの方向はエルサレムからマッカに変更された。

 

異教徒に対する態度についていえば、自発的な改宗を期待し、ズィンミーを払うことを条件に他教を認めて寛容であった。アラビア半島からユダヤ教徒が完全に追放されたのはウマル[要曖昧さ回避]の治世である。

 

人種差別の否定

ムハンマドは、最期の説教で「アラブ人は非アラブ人に優越せず、非アラブ人はアラブ人に優越しない。白人は黒人に優越せず、黒人は白人に優越しない。人はただ正しさによってのみ優越する」と言っている。

 

ムハンマドと女性

イスラーム共同体(ウンマ)がヒジュラとマッカ征服によって急速に勢力を拡大すると、抗争をくり返していたアラビア半島のアラブ諸部族は共同体の首長であるムハンマドの政治交渉における誠実さを見込み、彼と同盟関係を結ぶなどした。この過程でムハンマドは共同体内部の有力家系の婦女の他に、征服した勢力や同盟・帰順関係を結んでいたアラブ諸部族などからも妻を迎えることとなった。ムハンマドの女性観、女性関係は、ムハンマドが非ムスリムを中心として批判される原因ともなった。

 

ただし預言者ムハンマドが複数の未亡人を妻として迎え入れたことについて、クルアーンは『戦争により夫を亡くした女性の地位を守るため』と記述している。12人目を迎え入れた際、神からの啓示が下され、迎え入れた女性に対し平等に接するため、妻は4人までと定められたとクルアーンには記されている。

 

ムハンマドに遡る結婚規定について

イスラーム法の法源であるクルアーン、およびハディースでは結婚に関する規定やムハンマドに由来する逸話がいくつか存在する。クルアーンによれば、男性には娶って良い女性と、娶ってはならない女性があることが述べられている。

 

「汝らに娶ってはならぬ相手として、自分の母、娘、姉妹、父方のおばと母方のおば、兄弟の娘と姉妹の娘(ともに姪)、授乳した乳母、同乳の姉妹、妻の母、汝らが肉体的交渉をもった妻が以前に生んで連れて来た養女(継娘)、今汝らが後見している者、未だ肉体的交渉をしていないならば、その連れ子を妻にしても罪はない。および汝らが生んだ息子の妻、また同時に二人の姉妹を娶ること(も禁じられる)。過ぎ去った昔のことは問わないが。アッラーフは寛容にして慈悲深くあられる。」(クルアーン第423節)

 

ハディースが伝えるところによると、ムハンマドの妻のひとりでアブー・スフヤーンの娘ウンム・ハビーバからの伝承として、彼女が自分の妹もムハンマドの妻として迎えて欲しいと願い出たが、妻の姉妹とは結婚出来ないので「私には許されない」と答えて断った。そこで彼女は、アブー・サラマの娘ドッラをムハンマドが妻として欲しているという噂を聞いたので、ドッラとも結婚してはどうかと尋ねたが、ムハンマドはアブー・サラマとは彼の母スワイバの乳でともに育った自分の乳兄弟であり、その娘を娶る事は乳兄弟の娘を娶る事になり、これも自分には許されないと反論して断り、「ともかく、あなた方の娘や姉妹たちを私に勧めてはいけない」と諭したとい。

 

同様の例が他にもあり、ムハンマドの叔父ハムザ・ブン・アブド・アル=ムッタリブの娘と結婚しないのかと人から尋ねられた時、ムハンマドは「彼女は私の乳兄弟の娘だから」と言ってこれを否定している。

 

また、本人の許諾無しに強制的に女性が親族たちよって結婚させられることは無効とされた伝承もある。例えばハンサーウ・ビント・ヒザームという女性は離婚したものの、彼女の父親によって無理矢理再婚させられ、これをムハンマドに訴え出た時、ムハンマドはこの結婚を無効としたという(ただし、実際に歴史上でこれらの子女が望まない結婚を強制された場合、どれだけ無効と出来たかは裁判記録などの精査を要する)。

 

ザイナブ・ビント・ジャフシュとの結婚に関して

ムハンマドの養子であったザイド・イブン・ハーリサの妻ザイナブ・ビント・ジャフシュは、ムハンマドの従姉妹にあたり、ごく初期に改宗したひとりである。ヒジュラに同行してマディーナへ移住したが、ザイドとザイナブはこの時、結婚生活が上手くいっていなかったようで、ザイドの家に訪れた時に何度もムハンマドに離婚したいとの相談をした。しかし、ムハンマドは夫婦の仲を取りもち離婚を許さず、「アッラーフを畏れ、妻をあなたの許に留めなさい」とたしなめて離婚を抑えるようにしたが、ザイドは高貴な一族の出身であるザイナブが、もともと奴隷の身分であった自分を夫として認めることが難しいことに悩み、夫婦仲は難しくなるばかりだった。

 

修復不可能な夫婦関係を解消するために、ザイドはザイナブとの離婚手続きを済ませた。しかし自分との離婚後、身分の高いザイナブの処遇が心配された。当時の慣習では、養子であっても息子の妻を父が娶ることを禁止されていたが、イスラームにおいては、養子が実子を名乗ることは禁止され、血がつながっていない養子の妻は離婚後であれば、父親が娶ることは問題がないとしたクルアーンの見解を、預言者自らが実際に実現し、慣習を払拭するために、クルアーン第3337節の啓示により、「養子は本当の親子と同じものではない」、「養子の妻は養子が彼女を離婚した後は、自分の妻としても問題はない」クルアーン第3337節「アッラーフの恩恵を授かり、またあなたが親切を尽くした者に、こう言った時を思え。『妻をあなたの許に留め、アッラーフを畏れなさい。』

 

だがあなたは、アッラーフが暴露しようとされた、自分の胸の中に隠していたことを恐れていた。寧ろ(むしろ)あなたは、アッラーフを畏れるのが本当であった。それでザイドが、かの女に就いて必要なことを済ませ(離別し)たので、われはあなたをかの女と結婚させた。(これからは)信者が、必要な離婚手続きを完了した時は、自分の養子の妻でも、(結婚にも)差し支えないことにした。アッラーフの命令は完遂しなければならない。」と明示された。

 

高貴なザイナブは離婚後、その身を案ずることなく、ムハンマドの妻という最高の処遇を与えられ、627年に妻となった。ちなみに、このザイナブ・ビント・ジャフシュは結婚の後、預言者ムハンマドの寵愛を巡ってアーイシャと競った事で有名だが、上記の啓示の事を引き合いにして結婚式の当日「あなた方を嫁がせたのはあなた方の親達ですけれど、わたしをめあわせたのは七つの天の彼方にいますアッラーフに他なりません」と言ってムハンマドの他の妻達に誇ったと伝えられる。ブハーリーの『真正集』「神の唯一性の書」第223項および4項など。

2024/01/12

北欧神話(4)

キリスト教化が行われた期間は、例としてローヴェン島やベルゲンを中心に描かれている。スウェーデンの島、ローヴェン島における墓の考古学的研究では、キリスト教化が150から200年かかったとされ、場所も王侯貴族が住んでいた所に近かった。同様に騒々しく貿易が行われた町ベルゲンでは、ブリッゲン碑文の中に、13世紀のものと思われるルーン文字の碑文が見つかっている。その中にはトールに受け入れられますように、オーディンに認められますように等と書かれたものがあり、キリスト教化が進んでいる世界で、古ノルド語の魔術ガルドル(セイズ (Seid) とも)も描かれている。記述の中には、ワルキューレのスケグルに関するものもあった。

 

14世紀から18世紀にかけての記述はほとんどないものの、オラウス・マグヌス(1555年)のような聖職者は、古くから根づく信仰を絶滅させることの難しさを書いた。この物語はハグバルドとシグニューの恋愛物語のように、快活に描かれた『スリュムの歌』にも関連しており、どちらも17世紀と19世紀終わりごろに記録されたと考えられている。

 

19世紀と20世紀に、スウェーデンの民族学者達は一般の人々が信じ、北欧神話における神々の残存する伝承を記録したが、その当時伝承は結集されたスノッリによる記述の体系からはかけ離れたものであったという。トールは数々の伝説に登場し、フレイヤは何度か言及されたが、バルドルは地名に関する伝承しか残っていなかったそうである。

 

特にスカンディナヴィアの伝承における霊的な存在のように、認知されてはいないが北欧神話の別の要素も残されている。その上、北欧の運命の考え方は現代まで不変のものであった。クリスマスに豚を殺すスウェーデンのしきたり(クリスマス・ハム)など、ユール伝承の原理も多くが信じ続けられた。これは、もともとフレイへの生贄の一部であった。

 

現代への影響

曜日:起源

ü  月曜日:Monday、月の日:Moon's day

ü  火曜日:Tuesday、ティウの日:Tiw's day (北欧神話のテュール(Tyr)に相当)

ü  水曜日:Wednesday、ウォウドゥンの日:Woden's day (北欧神話のオーディン(Odin)に相当)

ü  木曜日 Thursday:雷()の日、Thunder's day (北欧神話のトール(Thor)と同一語源)

ü  金曜日 Friday:フリッグまたはフレイヤの日、Frigg's / Freyja's day

ü  土曜日 Saturday:ローマ神話のサターンより。アングロ・サクソンの神が由来ではない

ü  日曜日:Sunday、太陽の日:Sun's day (北欧神話のソール(Sól)に相当)

 

ゲルマンの神々は現代において、ゲルマン語派が話されている多くの国々における生活や語彙に数々の足跡を残している。一例として、曜日の名称が挙げられる。ラテン語における曜日の名称(Sun, Moon, Mars, Mercury, Jupiter, Venus, Saturn)を基にして作られた火曜日から金曜日までの名称は、それぞれのローマ神話の神々に相等する北欧の神々に取って代わった。英語の土曜日(Saturday)はサターンが起源とローマの神に由来するが、ドイツ語では土曜日のザムスターク(Samstag)はSabbath から付けられたもので、スカンディナヴィア地方では「洗濯日」と呼ばれている。

 

ゲルマン・ネオペイガニズム

最近では、ヨーロッパとアメリカ合衆国の2つの地域において「ゲルマン・ネオペイガニズム」(ゲルマン復興異教主義)として、古きゲルマン宗教を復興しようとする試みが行われている。これらはアサトル、オーディニズム、ヴォータニズム、フォーン・セド(Forn Sed)またはヒーゼンリィという名の元に存在している。アイスランドでは、アサトルが1973年に国家公認による宗教として認められ、結婚や子供の名づけ方、その他の儀式において、この宗教の介入が合法化された。アサトルはかなり新しい宗教ではあるものの、北欧諸国で公認または合法の宗教として認知されている。

 

現代の大衆文化

北欧神話は、リヒャルト・ワーグナーの作品『ニーベルングの指環』を構成する4つのオペラの題名に使用され、同じく北欧神話をモチーフにした他の作品への基盤となった。

 

その後に製作された、JRR・トールキンの『指輪物語』も、キリスト教化以前の北方ヨーロッパにおける固有の信仰に、非常に影響を受けた作品と言える。この作品が人気を呼ぶにつれ、そのファンタジー要素は人々の感性や他のファンタジーのジャンルを絶えず揺り動かしている。近代的なファンタジー小説にはエルフやドワーフ、氷の巨人など、北欧の怪物達が多く登場する。のちの時代になって北欧神話は、大衆文化や文学・フィクションにおいて、多くの影響を残しているのである。

2024/01/09

唐(7)

開元の治

玄宗

8世紀前半の唐

712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年に太平公主を処刑して実権を掌握した。

 

親政を始めた玄宗は、前述の姚崇を抜擢して宰相とした。これに答えて姚崇は「宦官を政治に介入させないこと」、「皇帝に親しい臣が不正を行うのをとりしまること」、「外戚に政治介入させないこと」などを提言し、玄宗もこれを受け入れて政治に取り組んだ。姚崇のあとを受けた宋璟も、姚崇の方針を受け継いで政治改革を進めていった。姚崇と宋璟は、貞観の房(玄齢)・杜(如晦)に対して姚・宋と称される。

 

この治世により、太宗の時に戸数が300万に満たなかったのが、726年(開元十四年)には戸数は760万あまりとなり、人口も4千万を超えた。穀物価格も低価で、兵士は武器を扱うことがなく、道に物が落ちていても拾う者はいなかったという。この時代を開元の治とよび、唐の極盛期とされる。文化的にも杜甫・李白の漢詩を代表する詩人たちが登場し、最盛期を迎えた。

 

ただし、その裏では唐の根本である律令体制の崩壊が始まっていた。律令体制では民を本籍地で登録し、それを元に租庸調・役(労役・兵役)を課すことになっていた。しかし負担に耐えかねて、本籍地から逃亡する民が増えた。これを逃戸と呼ぶ。この現象は武則天時代から問題になっていたが、その後も増え続けていた。これに対しての政策が、宇文融によって出された括戸政策である。全国的に逃戸を調査し、逃戸を逃亡先の戸籍に新たに登録し(これを客戸という)、再び国家の支配下に組み入れようとしたものである。721年から724年にかけて行われた結果、80万余りの戸が新たに登録された。

 

また、もう一つの変化が節度使の設置である。上述の理由により、兵制である府兵制もまた破綻しており、国防のために睿宗時代の710年に亀茲に安西節度使を設置したのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれていた。

 

さて宇文融は北周帝室に祖を持つ貴族であり、恩蔭(官僚が自分の子を官僚にする権利)の出身者である。姚崇・宋璟の後、科挙出身者である張説・張九齢らが宰相となったが、次第に政界では貴族出身者が権力を握るようになる。宇文融の他に裴耀卿は大運河の運用を改善して漕運改革を行い、首都長安の食糧事情を大きく改善する功績を挙げた。これらは実務に長けた貴族出身官僚であり、この流れを受けて李林甫が登場する。

 

李林甫は高祖の祖父の李虎の末裔で、734年から752年に没するまでの19年間宰相の地位にあった。李林甫の政策として、租庸などの運搬の際の煩雑な書類を簡素にしたというものがある。実務には長けていたが、「口に蜜あり、腹に剣あり」と呼ばれた性格で、玄宗やその寵妃たち・側近の高力士らに上手く取り入る一方で、自分に対抗する政敵を策謀を持って排除し、自らの地位保全に熱心であった。

 

この姿勢の一環として行われたのが、節度使に異民族を採用するという政策である。節度使のうち、長城の内側の節度使はそれまでは高級文官が就任するのが常であったが、李林甫はこれに異民族出身の蕃将を任命するようにした。節度使が宰相への出世コースになっていたのを潰す意図があったとされる。このことが後の安禄山台頭に繋がったといえる。

 

楊貴妃

玄宗は太子時代の妃であった王氏を皇后としていたが、子が無く寵愛が離れた。代わって武則天の一族である武恵妃を寵愛し、その子である第十八子の寿王李瑁を太子に立てたいと思っていたが、武氏の一族であることから群臣の反対にあい、最終的に高力士の勧めに従って忠王李璵(後の粛宗)を太子に立てていた。この寿王李瑁の妃の一人であったのが楊貴妃である。

 

一旦道士になった後に、745年に改めて後宮に入った楊貴妃を玄宗は溺愛した。その様は白居易の『長恨歌』に歌われている。その中に「此れ従り君主は早く朝せられず」とあるように玄宗は政治に倦み、李林甫らに任せきりになっていた。

 

安史の乱

楊貴妃を愛する玄宗は、その一族も引き立てた。その中の一人が楊貴妃の又従兄弟の楊国忠である。元は酒と博打で身を持ち崩した一族の鼻つまみものであったが、楊貴妃のおかげで官界に入った後は財務関係の実務で功績を挙げて出世を続け、750年には御史大夫兼京兆尹に、更に752年に李林甫が死去すると遂に宰相となった。

 

楊国忠と権力を争ったのが安禄山である。安禄山はソグド人の父と突厥の母の間に生まれた雑胡(混血の異民族)であった。范陽節度使の張守珪に史思明と共に登用されて、その仮子[注釈 2]となって戦功を挙げて、742年に平盧節度使に任じられた。更に744年に范陽節度使・751年に河東節度使を兼任して、その総兵力は18万を超える膨大なものとなった。このような大出世を遂げた要因の一つが、玄宗・楊貴妃に取り入ったことにある。安禄山は、玄宗からその大きな腹の中には何が詰まっているのかと問われた時に「ただ赤心(忠誠)のみが詰まっています」と答えた、あるいは自ら願って楊貴妃の養児となって錦繍の産着を着て、玄宗と楊貴妃を喜ばせたなどというエピソードが残る。

 

安禄山

楊国忠と安禄山は対立し、互いに相手を追い落とさんとするが、常に玄宗のそばにいる楊国忠が、この争いでは有利であった。危機感を感じた安禄山は「君側の奸楊国忠を除く」という名分を立てて遂に挙兵した。この反乱は安禄山と、その部下史思明の名を取って安史の乱と呼ばれる。

 

755年の11月に根拠地の幽州(范陽郡)から、兵力15万と8千騎を持って出陣した安禄山軍は破竹の勢いで勝ち進み、同年12月には洛陽を陥落させ、翌年の11日に皇帝に即位、国号を大燕と称した。更に同年6月には首都長安の東・関中の入り口に当たる潼関を陥落させる。この報に狼狽した唐政府は、蜀への避難を決める。

 

避難の途中の馬嵬において、この事態に怒った兵士たちにより楊国忠が殺され、楊貴妃も自殺させられている。皇太子李亨(李璵から改名している)は途中で玄宗と別行動を取って、朔方節度使郭子儀の元に向かい、兵士を鼓舞するために玄宗の許可無く、皇帝に即位した(粛宗)。

 

安禄山は757年に子の安慶緒に殺され、その後を継いだ史思明も761年にこれも子の史朝義に殺される。郭子儀率いる軍は、回紇の支援を得て757年に長安、762年に洛陽を奪還。翌763年に史朝義が部下に殺され、ここに安史の乱は終結した。

2024/01/07

ムハンマド(3)

諸宗教におけるムハンマドの評価

イスラームにおけるムハンマド

イスラム教の公式教義におけるムハンマド

イスラム教の教義においては、ムハンマドは唯一神(アッラーフ)からイスラム共同体に対して遣わされた「神の使徒」とされ、最後にして最大の預言者と位置づけられている。「ムハンマドは神の使徒である」という宣誓は、シャハーダ(信仰告白)として、信徒の義務に位置付けられる。

 

ムハンマド自身は、自らを「預言者の封印」と称したが、それがどのような文脈で語られているかは、たびたび見逃されている。特にイスラム教徒は、その意味内容を拡大解釈する傾向がある。クルアーン「部族連合」(クルアーン33:40)において、この「預言者の封印」という言葉が登場するが、この箇所は、一般信者と預言者ムハンマドとを区別することがその主旨であり、他の預言者たちよりムハンマドが優れているということは一切言われていない。

 

このように「最後の預言者」は、もともと「最大の預言者」とは全く別の概念であった。これが現在のように「最後にして最大」と一体化するには、歴史の中ではかなりの変遷がみられる。クルアーン「砂丘」(クルアーン46:8(9))では、大天使ガブリエルが、「古今未曾有の使徒」であることをムハンマドに否定させている。さらに第二聖典ハディースにおいても、「旧約の預言者であるモーセやヨナよりも、私のことを優れた預言者であると言ってはならない」というムハンマド自身による戒めが何箇所かある。形式的には、これは現在のイスラムの信仰告白にも残されている。イスラム教徒へ改宗する際の信仰告白は「ムハンマドは預言者」であり、ムハンマドの預言者としてのスケールは告白しない。

 

第二聖典ハディースでは、ムハンマドの権威と偉大さを強調する文章が少なくない。 「預言者ムハンマドは完全であり、最大の預言者である」との考えがされるようになっていった。

 

スンナ派では、彼に使わされた啓示を集成したクルアーンによってのみ、人々は正しい神の教えを知ることができると考える。最良の預言者であるムハンマドの言行(スンナ)には神の意志が反映されているから、その伝承の記録(ハディース)も神の意思を窺い知る手がかりとして用いることができるとされる。

 

ムスリムの民間信仰におけるムハンマド

ムスリムの民衆にもムハンマドは非常に敬愛され、一種の聖者と見られている。ヒジュラ暦でムハンマドの誕生日とされるラビー・アル=アウワル月の12日は、預言者生誕祭として大々的に祝われる。

 

ムスリムの聖者崇拝においては、聖者を神の特別の恩寵を与えられた者と考え、聖者に近づくことで神の恩寵の余燼をこうむることが期待されるが、なかでもムハンマドは神に対して必ず聞き届けられる特別な請願をする権利を与えられていると考えられており、人々は宗教的な罪の許しをムハンマドに請えば、終末の日における神の裁きでも、ムハンマドのとりなしを受けることができると信じられている。かつてはマッカ、マディーナなどのムハンマドの生涯にゆかりの場所は、最高の聖者としてのムハンマドに近づくための聖地のようになっていたが、聖者崇拝のような民間信仰をイスラームの教えから逸脱した行為とみる厳格なワッハーブ派を奉じるサウジアラビアが当地を支配する現在では、聖者崇拝的要素は廃されている。

 

イスラーム神秘主義におけるムハンマド

内面を重んじるイスラーム神秘主義(スーフィズム)の流れにおいては、ムハンマドは「ムハンマドの光(ヌール・ムハンマディー)」と呼ばれる、神によって人類が創造される以前から存在した「光」として、神にまず最初に創造された被造物を受け継いで人間として生まれ出でたのだ、と観念された。

 

このようなムハンマド観は、イブン=アラビーの系統を引く神秘主義思想によって、ムハンマドという存在は、人間としてこの世に生まれた普通の「人間としてのムハンマド」と、それ以前から存在していた「『真理』あるいは『宇宙の潜在原理』としてのムハンマド」、すなわち「ムハンマドの本質(ハキーカ・ムハンマディーヤ、ムハンマド的真実在)」とに分かれていたのだと見なされるようになった。このようなムハンマド観には、仏教における仏身論との類似が指摘できる。

 

また、スーフィズムでは神との合一(ファナー)を成し遂げたスーフィーの聖人たちは、師資相承されてきたムハンマドの本質性、精神を継承する者として捉えられる。この点でイスラーム神秘主義におけるムハンマドは、禅における釈迦如来の位置付けに似ている。

 

キリスト教圏におけるムハンマド

カトリック、プロテスタント、英国国教会、正教会の違いこそあれ、キリスト教圏では、ムハンマドは「新たな契約を結んだイエスの後に、余計なものを付け加えた者」と映ることが多かった。そのため、古来よりイスラム教に対して敵愾心を持つことも多々あった。その最も端的な例が、ビザンツ帝国への初期イスラームの侵攻による征服以後、イスラム教徒の支配下にあった、聖地エルサレムをキリスト教支配下に再征服する目的で編成された十字軍といえる。

 

イスラームについての正確な知識が乏しかった中世ヨーロッパにおいては、ムハンマドはサラセン人の信仰する神々のうちの一柱であるとも考えられていた。たとえばフランスの武勲詩『ローランの歌』において、マフム(Mahum, Mahumet)はテルヴァガン(Tervagan、語義未詳)およびアポリン(Apollin、アポロンが語源)とともに、サラセン人多神教の主要三神であると歌われている。また、南ドイツの伝説的英雄ディートリヒ・フォン・ベルンは悪霊マフメット(Machmet)の子供であるという伝説も流布していた。フランソワ・ラブレーの『パンタグリュエル』では、マホン(Mahon)が悪魔のうちの一人として現れている。

 

またムハンマドは、反キリストであるという説もあった。9世紀アンダルスのアルヴァルスは、ダニエル書723節から25節の『第四の獣は地上の第四の王国であろう。これはすべての国よりも大きく、全世界を併合し、これを踏みつけ、かつ打ち砕く。十の角は、この国から起こる十人の王である。その後に又一人の王が起こる。彼は先のものよりも強大であり、かつ三人の王を倒す。彼は、いと高きものに敵して言葉を出し、かつ、いと高きものの聖徒を押しつぶす。彼は又時と律法とを変えることが出来ると考え、聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手に渡されるであろう。』というくだりに出てくる『十一番目の王』をムハンマドと解釈した。

 

文学の世界でも、1980年代末にイギリスの作家サルマン・ラシュディが、ムハンマドをスキャンダラスに描写した『悪魔の詩』を発表して、イランの最高指導者アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーのファトワーにより死刑宣告を受け、世界に衝撃を与えたことがあった。

 

ユダヤ教におけるムハンマド

ユダヤ教では、イエス同様ユダヤ教の内容を歪曲した新宗教を作り上げた人間とされている。

 

バハイ教におけるムハンマド

バハイ教ではムハンマドを預言者の一人として崇敬している。しかし彼らが従うのは、バーブおよびバハーウッラーの教えである。

 

シーク教におけるムハンマド

シーク教においてもムハンマドは預言者、聖者として高い尊敬を受けている。

2024/01/01

唐(6)

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高宗が死ぬと、則天武后が実権を握りました。彼女と高宗とのあいだに二人の息子がいる。まず中宗が即位しますが、かれの政治は則天武后の気に入らない。中宗を退位させて、もう一人の息子、睿(えい)宗を即位させます。則天武后は、この睿宗も気に入らないんですね。とうとうかれも退位させて、自分で即位してしまった(位695~705)。63歳位のときです。

 

 こうして、中国史上唯一の女性皇帝が誕生しました。武照(ぶしょう)というのが彼女の本名です。皇帝家が李家から武家へ変わったので、国号も周と変更しました。若い男を寝室に引っ張り込んだりといったスキャンダルがあって、昔から彼女の歴史的な評価はあまり良くなかったんですが、女だからという理由で必要以上に貶められているところがあります。

 

 則天武后という呼び名にしても、これは高宗の皇后としての呼び方であって皇帝としての名前ではないのです。女だから皇帝名で呼んでやらないという伝統的な女性蔑視を引きずっている。一応、教科書にしたがって説明していますが、武則天(ぶそくてん)といった方がいいのです。

 

  則天武后が政治をおこなうときに北周、隋、唐とつづいてきた支配者集団は当然非協力的です。則天武后は鮮卑系の武人集団でも南朝以来の伝統的貴族階級出身でもない。個人的な美貌と才覚だけでのしあがった人ですからね。皇帝としては、自分の手足となって動いてくれる忠実な官僚がたくさん欲しい。そこで彼女は中央だけで実施していた官僚登用試験を全国に広げます。試験で採用された官僚たちは門閥がありませんから、則天武后に忠節を尽くすことで出世するしかない。女だからいうことをきかない、とはいかないのです。

 

 というわけで、則天武后の時代に新官僚層が政界に進出して、南北朝以来の旧勢力と対抗する力をつけてきます。言い換えれば貴族ではない官僚層が政権中枢部に登場してきた、ということです。則天武后は皇帝ですから実力行使もします。この時代に殺された貴族と、その家族は千人は下らない。ともかく新しい人材を登用していったことが彼女の政治上の功績です。

 

則天武后は最晩年には、息子の中宗が再び即位して国号も唐に戻されました。やがて則天武后は死ぬんですが、中宗の皇后がまた問題でした。韋后(いこう)というのですが、彼女ずっと則天武后のやり方をみているのね。自分もあんなふうに、と考えた。則天武后は夫の高宗が死んでから皇帝になったのですが、韋后は中宗が死ぬのを待ちきれない。とうとう娘と共謀して毒殺してしまった。さすがに、これはやりすぎだった。中宗の甥で睿宗の息子の李隆基(りりゅうき)が兵士をひきいて宮中に乗り込んで、韋后らの一派を排除しました。則天武后から韋后までのゴタゴタを「武韋の禍(ぶいのか)」といいます。ただ、これはあくまで唐の宮廷内での事件で、一般民衆の生活とはあまり関係はない話です。

 

  唐の宮廷を正常化した李隆基は、やがて第六代皇帝となります。これが唐の中期の繁栄をもたらした玄宗(位712756)です。即位したのが28歳です。能力もやる気もあって、ばりばり働く。かれを補佐した有能な大臣たちはみな、則天武后の時代に頭角をあらわしてきた人たちなので、玄宗の成功はある意味では彼女のおかげかもしれません。玄宗時代の繁栄を「開元の治(かいげんのち)」と呼びならわしています。太宗の「貞観の治」とセットで覚えておいてください。

 

皇帝の仕事というのは、まじめにやれば非常にしんどい。宮廷での政務というのは早朝、それも夜明け前に始まる。皇帝は午前三時頃にはもう起きて、威儀を正して宮廷にお出ましになる。そして、次から次へと官僚たちが持ってくる書類を決裁していくのです。正午になる頃にようやく仕事に一段落をつけて、それから以降がプライベートタイムです。こういう日常の仕事をきちんとこなしていくのは大変で、皇帝は一番偉いのですから手を抜こうと思えば抜ける。だけれど、そうすると宦官や外戚などの実力者が勝手な振る舞いをするようになるんですね。

 

 玄宗はまじめに仕事をつづるのですが、この人は長生きをした。皇帝に定年制度はありませんから、死ぬまで働きつづけなければならない。即位30年を越え、年齢が60近くになってくると、さすがの玄宗も仕事に飽きてきた。政治に熱意を失ってきます。

 

 こういうときに、かれが出会ったのが楊貴妃です。楊貴妃は、もともとかれの息子の妃の一人だったのですが、何かのきっかけで玄宗は彼女をみそめてしまう。息子の後宮からもらい受けて、自分の後宮に入れてしまった。簡単にいえば息子から嫁さんを奪ったのね。滅茶苦茶ですね。楊貴妃は、どういう気持だったか。皇帝になれるかどうかわからない皇子の後宮にいるよりも、現皇帝に愛された方がいいです。多分。そして彼女はこのチャンスをしっかりつかんで、玄宗の愛を独占するのに成功しました。 玄宗と楊貴妃の世紀の愛の始まりです。

 

 ロマンチックに語られることの多い二人の恋愛ですが、出会ったときの玄宗の年齢が61、楊貴妃は27歳です。年齢を知ってしまうと、ちょっと引いてしまいますね。玄宗は、夜が明けても宮廷に出てこない。正午近くまで楊貴妃の寝室でたわむれている。そういう日々がつづくようになりました。

 

これは玄宗と楊貴妃を描いた絵、後世の想像図ですがね。椅子に座っているのが玄宗。その前で舞を踊っているのが楊貴妃です。玄宗は音楽が趣味で、笛の演奏が得意だった。かれの兄弟も音楽好きで、よく三兄弟でアンザンブルを楽しんだらしい。それに合わせて、楊貴妃は舞ったり歌ったりしたのでしょう。これは華清池(かせいち)という長安近郊の温泉地です。二人は、よくここに遊びに来た。現在も有名な観光地です。中国旅行で、ここも行きましたよ。ガイドがここが楊貴妃が入った湯船だ、なんていっていましたが、ありゃ嘘だね。コンクリートにタイル張りのきれいな湯船でしたよ。

 

玄宗の政治は当然、公正さを失っていきました。出世したければ楊貴妃に取り入ればよい、そういう風潮がはっきりしてきます。政府の中核が腐敗してきます。ついに玄宗の晩年に唐帝国を大きく揺るがす大反乱が勃発するのですが、それは次回のお話。