2017/06/29

『古事記傳』15-1 神代十三之巻【御孫命天降の段】(3)

○伊須受能宮(いすずのみや)。これは伊勢の大神宮である。書紀の神功の巻に「五十鈴」と書かれている。これは地名で、五十鈴川、五十鈴原などもある。名の由来は定かでない。【「倭姫命世記」に「猿田彦の子孫、宇治土公(うじのつちぎみ)の祖、大田命がやって来てここで会った。・・・倭姫命は『いい宮処がありませんか』と訊ねると、『佐古久志呂(さこくしろ)宇遲(うじ)の五十鈴川の川上は、大日本国の中でもすぐれて霊異の地であります。中でも翁(私)が八万歳生きてきて、まだ見たことのなかった不思議なものがあり、日月のように照り輝いています。これはぼんやりしたものでないから、きっとその主が出現されるだろう、その時に献ろうと思って、そのところにお祭りしてあります。』と答えた。姫はすぐにそこへ言って見ると、遙か古代に天照大神が天上で誓(うけ)いして、豊葦原の瑞穂の国のうちでも、伊勢風早の国は、いい宮処だと見定めて、天上から投げ降ろした天の逆太刀(さかたち)・逆鉾(さかほこ)の金の鈴などがあった。姫は心に大変喜んで、天皇に申し上げた。」とあるけれども、疑わしい点があり、全部は信じられない。】

 

天照大御神の御霊の鏡は、ここの詔にあるように、代々の皇孫の命が住む大殿で拝祭してきたのだが、水垣の宮(崇神天皇)の代になって、別の所に遷した。そのことは書紀のその巻【崇神】に「六年・・・これ以前に、天照大神と倭大国魂神の二柱の神を天皇の大殿の内に並べて祭っていた。しかしその神の勢いを畏れ、共に住むことが不安になってきた。そこで天照大神を豊鍬入姫に託して、倭の笠縫の邑に祭った。そこに磯堅城(しき)の神籬(ひもろぎ)を建て、云々」とある。

 

それから伊勢に遷った経緯は、書紀垂仁の巻に、「二十五年三月丁亥朔丙申、天照大神を豊耜入姫から離し、倭姫命に託した。これから倭姫命は、大神の鎮座地を求めて、菟田(うだ)の筱幡(ささはた)に行った。次に少し戻って、近江の国に入った。東に回って、美濃から伊勢の国に入ったとき、天照大神が姫に告げて、『この神風の伊勢の国は、常世の重浪(しきなみ)が寄せる国、傍国(かたくに)の美しい国だ。私はこの国に住みたい』と行った。そこで大神の言う通り、伊勢国に祠(ほこら)を立てた。そのため五十鈴川の川上に斎宮を建てた。これを磯宮(いそのみや)と言う。これは天照大神が初めて地上に降りられたところである。」

 

【この文は紛らわしいところが多い。よく考えなければ、誤読する。「その祠を伊勢国に立てた。そのため五十鈴川の川上に齋宮を建てた」とあるが、この斎宮がすなわち伊勢の大神宮となった。これを古語拾遺や倭姫命世記などで文を少し変えて、倭姫命の住む宮のように書いているのは、後世の齋王の宮を齋宮というため、混同のである。齋王の宮とは齋王が住む宮であり、ここでいう齋宮は、天照大御神を齋き祭る宮のことであって、名は同じだが意味が違う。この部分には、天照大御神の宮について書いてあるのに、そのことは「伊勢国に祠を立てた」とおおよそのことを言っただけで、齋王の住むところの方を「五十鈴川の川上」と詳しく書くのは変だ。万葉の人麿呂の長歌(199)に、「渡會(わたらい)の齋宮(いつきのみや)」とあるのも、大御神の宮のこととしか考えられない。

 

さらに、倭姫命の居所を「宮」と言いながら、大御神には「祠」などと言うべきでない。とすると、「立」の字は「定」を誤ったものだろう。神の「やしろ」には、皇国では必ず「社」の字を書き、また「宮」と言う。中でもこの大御神などは、「宮」でなければならないのに、「祠」というのは、文字の意味はともかく、単にその宮のことを言ったのではない。その祭るべき所という意味だ。雄略の巻に「稚足姫(わかたらしひめ)の皇女は、伊勢の大神の祠(いわい)に侍った」というのも、拝祭する意味を含んでいるので、この字を書いている。それで「みや」でも「やしろ」でもなく、「いわい」と読んでいる。とするとここも、祠(まつ)るところを伊勢の国と定めて、その結果五十鈴川の川上にその宮を建てたのである。

 

だが次に「それを磯の宮と呼ぶ」とあるのは納得できない。この五十鈴の宮を磯の宮と呼んだことは、他の書には出ていない。思うに、皇太神宮儀式帳などで、五十鈴の宮に鎮座する前、磯の宮に鎮座していたことがあると書いてあり、延喜式神名帳に「度會郡磯神社」、和名抄にも同郡に「伊蘇郷」があり、今も礒村という。この地にしばらく鎮座していたのを磯の宮という。ただしそれは度会郡ではない。多気郡の相可(おうか)郷のあたりだという。いずれにせよ、ここはその「伊蘇」というのと、「いすず」というのと、名が似ているので混同した伝えである。だからここを磯の宮としてはいけない。「五十鈴の宮という」とすべきところだ。

 

次に「天照大神が初めて地上に降りられたところである。」というのは、ますます納得できないが、最近気付いたことがある。というのは、古伝の趣旨に関係なく、単に思いつきで言うことならいろいろあり、それはすべて自分勝手な思い込みだから、取るに足りないのだが、私が気付いたことと言うのは、まず初めに猿田彦神が答えて、「私が先だって天孫の道案内をしよう・・・天神の子は筑紫の日向に行かれることになっている。私は伊勢に行く」と言っている。皇孫が日向に降るのに、その道案内をする神が伊勢に降ることは、深いわけがある。豊受宮儀式帳に、天照坐皇大神は、度會の五十鈴の川上に大宮を建てて仕え奉った。

 

ところが大長谷天皇(雄略)の夢に天照大神が現れて「私は高天の原にいて、地上の様子を見て良い地を求め、ここに鎮座することにした」とある。だから、この御霊の鏡をここに鎮座させることは、天照大御神がずっと以前から考え、決めてあったことなのだ。とすると猿田彦神が、道案内をしながらも、最後にこの伊勢に到ったことも、古語拾遺に「初め天上にいて、幽契(ひそかなとりきめ)を結び、衢の神をまず降らせた深い理由がある」とあるように、はじめからこの深い由縁があったため、御霊の鏡を最後に鎮座すべき場所へ導き送るためであった。そのため天降りの時に、皇孫の命に付き添って、この鏡を頂き齋きながら降った五伴の緒の神たちは、その道案内の神の言うままに、自然の成り行きとしてまず伊勢の国に天降ったのだ。

 

「天照大神が初めて地上に降りられた」というのは、この時のことである。そうでなければ、日向へ天降った皇孫の命を案内した神が、伊勢に降ったということには、何の由縁もなく、無駄な話である。上記のように、かの御鏡はまず伊勢に天降ったのだが、日向に天降ってきた皇孫命のところに送っておいて、猿田彦神は、用済み後に伊勢に帰ったのだ。この間のことは、後でもっと詳しく言う。この鏡は、片時といえども皇孫命の側を離れてはいけないはずなのに、伊勢と日向に分かれて天降ったのはどうかと疑う人もあるだろうが、天上から遙かに降ったのだから、日向と伊勢は離れていると言っても、同じ葦原の中つ国であり、やはり一つ所に降り着いたと言えるだろう。だから後でまた伊勢に遷したけれども、初めの大御神の詔に違わなかったのも、同じ皇国の内だったからである。】

 

「あるいはいわく、天皇は倭姫命を御杖代として、天照大神に仕えさせた。そこで倭姫命は、磯城の嚴橿之本(いつかしのもと)に鎮座させて祀った。その後神の教えに従って、丁巳年冬十月の甲子に、伊勢國渡遇(わたらい)の宮に遷した。」とあるのがこれである。

2017/06/28

古代インド社会の変化と新思想


 やがてバラモン文化は東方へ広がり、ガンジス河中流地方に伝わる。

その伝播に伴って、異文化との交流から文化の融合が起こった。

また鉄器の使用が普及するにつれて、農業生産が増大し商工業が盛んになり、社会構造にも変動が起こった。

商業都市が、ガンジス川流域に成立した。

ヴェーダの成立基盤となった王国は没落し、代わってマガダなど十六国が商業都市を核として起こった。

 ヴェーダ祭式の基盤となっていた半農半牧の社会においては「人間対自然の関係」が関心の焦点となっていたが、多様な人間関係が現れる都市においては、「人間対人間の関係」に関心が移った。

このような問題について、それまでの婆羅門の祭式思想は無力であった。

また、動物の犠牲を必要とする祭式が都市において経済的に困難になり、実行し難くなった。

このため祭式思想に代わる新しい思想、モラルの追究が起こった。

 この時代に現れた思想が、その後のインドの思想・宗教を特徴づけた。

●業・輪廻の思想
 輪廻(saMsAra サンサーラ)とは、生き物が様々な生存となって生まれ変わることである。

輪廻説はピュータゴラス派など、古代ギリシアにも見られる。

起源については、未だ不明である。

インドでは『チャーンドーギヤ』と『ブリハッドアーラニヤカ』の両ウパニシャッドに現れる、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く輪廻説(五火二道説)が、明確に説かれる最初の例である。

クシャトリヤ階級の王によって説かれるから、輪廻説は婆羅門によるヴェーダの伝統とは異なる思想系統から生まれたものとするのが通説であったが、最近、五火二道説がヴェーダの祭式と深い繋がりがあることが指摘されている。
  
 業(karman)とは行為のことで、行為は行われた後になんらかの効果を及ぼす

努力なしで、目的は達せられない。

目的が達せられるのは、それに向かう行為があるからだ。

しかし、努力はいつも報われるわけではない。

報われないことがあるのはなぜか。

運のせいか?
 
 業の理論は、それを「前世における行為」のせいだとする。

行為の果報を受けるのは次の生で、この世では努力してもうまくいく場合と行かない場合がある。

その処遇の違いは、前世に何を仕方で決定されているとする

行為は行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生において効果を発揮する。

だから、よい行為は後に安楽をもたらし、悪い行為は苦しみをもたらす(善因楽果・悪因苦果)という原理は貫かれる。

こうして、業は輪廻の原因とされた。

生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定されるというのである。

これが業による因果応報の思想である。
 
 業・輪廻の思想は、現代インドにおいてもなお支配的な観念で、カースト制度の残存と深く関わっている。

●タパス(苦行)
 古来インドを訪れる外国人の目を驚かすものに、苦行がある。

苦行の原語は「tapasで「」を意味する。

『リグ・ヴェーダ』では、宇宙創造にかかわる「熱力」という意味で用いられた。

後に断食に代表される肉体を苦しめる修行によって、この神秘的な熱力が獲得されるとみなされ、そのような行も「tapasと呼ばれるようになった。

これを得れば超人的な能力が実現できるとして、様々な苦行、難行が行われるようになった。

ブッダの当時には、都市の近郊に苦行者の集まる苦行林が形成されていた。
 
 『ディーガ・ニカーヤ』(長部経典)「ウドゥンバリカー師子吼経」は、多種多様な苦行者の姿を伝えている。

その中には奇異と思われるものも少なくないが、現代インドにおいてもなお、それらに似た苦行者が見られる。

●ヨーガ(禅定)
 現在では、ヨーガは健康法として体操の一種のようにみなされているが、本来は精神統一である。

 「yoga」という語は「つなぐ」を意味する語根「yuj」から作られている。

この語は古く『リグ・ヴェーダ』では、たとえば祭りに心を「つなぐ」、すなわち「専心する」などというように、積極的な行為を表すものとして用いられた。

 しかし、祭式主義に代わる婆羅門思想としてサーンキヤ思想が起こると、そこでは散乱しようとする心や感覚器官を思惟機能が静めて「繋ぎとめる」というように、精神統一の意味で用いられるようになる。

これが、その後の「ヨーガ」の一般的な用法となった。

静座し精神を統一して瞑想することがヨーガである。

 断食など肉体を苛む行を伴う時、ヨーガと苦行との区別は曖昧になるが、本質的には苦行と異質なもので、より精神的である。

苦行においては神秘的な力、熱力の獲得あるいは発現が目指されるが、瞑想では真理の直観、悟りを得て、苦しみから解放されること(解脱)が目的とされる

 インドにおける瞑想の起源は非常に古く、インダス文明にあるのではないかと考えられている。

インダス文明の遺物の中に、瞑想を思わせる座像が描かれたものがある。

●バクティ(信愛)
 『バガヴァッド・ギーター』において、最も優れた道として説かれるのが「信愛」、すなわち神に対する恋愛感情にも似た熱烈な信仰である。

苦行を行うこと、善行を行うこと、あるいは知を追求し悟りを開くことも重要であるが、最も優れているのは「信愛」で、最高神ヴィシュヌに対し献身的な信仰を捧げて崇拝するなら、誰でも神の恩寵にあずかることができると説く。

この思想は、その後のヒンドゥー教の信仰のあり方に大きな影響を及ぼした。
※ http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch1 引用

2017/06/27

飛鳥

https://marisuke.com/

 

「飛鳥(アスカ)」ということばとの出会い

 「飛鳥(アスカ)」ということばに最初に出会ったのは小学五年生の時である。教室後方の壁に横長の日本史の絵入り年表が貼ってあり、年表の上部に西暦年と時代名称が書かれていた。書かれていた時代名称の最も古いのが飛鳥(アスカ)時代であった。

 

 中学・高校へと進み和歌にも触れ、地名「明日香(アスカ)」の枕詞が「飛ぶ鳥の」であると学んだ。しかし、「飛ぶ鳥の」が「明日香(アスカ)」に付く枕詞であると機械的に覚えるだけでその理由を考えることはなかった。

 

何故「明日香(アスカ)」に付く枕詞が「飛ぶ鳥の」なのか

「日本語の語源」(角川小辞典)の説明

 角川書店の小辞典シリーズ、「日本語の語源」辞典(田井伸之著)は40年ほど前に購入したものである。購入時、青森の「ねぶた祭」についての記述を見たところ次のようなことが書かれていた。

 「ねぶた」の語源は「七夕(タナバタ)」であり、「タナバタ」が青森に伝わるまでに、頭の「タ」の文字が抜けて「ナバタ」に変化し、更にそれが変化した「ネブタ」になったとの説明がしてあった。

 

 

 学生時代北海道旅行の途中青森で下車したとき、偶然ねぶたの準備が青森市内のいたるところでされているところに出くわした。そして、「ネブタ」ということばは何から来たのであろうと思っていたのであるが、同説明を見てなるほどと納得したことを覚えている。

 

 それからしばらくして同辞典で「アスカ」の説明を見たところ、「アスカ」の枕詞「飛ぶ鳥の」は「富たる(トミタル)」が音便変化したものであるとあり、当時明日香地方は豊かな土地であったのがその理由であるといった説明がなされていた。そしてこちらも深く考えることなく、最近までそうなんだと思っていた。

 

 しかし、青森ねぶた祭実行委員会事務局 公益社団法人 青森観光コンベンション協会によれば、ねぶたの祭り自体はタナバタの精霊流しの変形であるとしているが、その名称については以下のように記載している。

 

「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民俗語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられています。

 

 この説明は上記辞典の説明と違っており、「飛ぶ鳥の」の説明も正しいのかと疑念を持つようになった。それでアスカの枕詞「飛ぶ鳥の」をWeblio古語辞典で調べたところ、次のような記載がされていた。

 

Weblio古語辞典の説明

 天武(てんむ)天皇の時代、赤い鳥を献上した者があったので、明日香にあった宮殿の「浄御原宮(きよみはらのみや)」に「とぶとりの」を冠して、「飛鳥浄御原宮(とぶとりのきよみはらのみや)」と改めたことにより、地名「明日香」の枕詞(まくらことば)となり、さらに「明日香」も「飛鳥」と書かれるようになった。 ( Weblio古語辞典 )

 

上記二つの説、および他の説の検討

 地名「アスカ」の枕詞が「飛ぶ鳥の」となった理由についての上記二つの説に説得性があるかどうかを以下のように検討した。

 

「日本語の語源」の説明

 「アスカ」の枕詞「飛ぶ鳥の」は「富たる(トミタル)」が変化したものであるとの説

 この説が成立するには、「富たる」ということばが飛鳥時代以前に使われていなければならず、古語辞典を調べてみた。三省堂の古語辞典によれば、

 

「富(とみ)」:名詞、源氏物語(1008~)の使用例では、「金持ち」「財産」「豊かになること」という意味で使われている。

 

 

「たり」:体言に付く断定の助動詞。蜻蛉日記(974~)、平家物語(1219~)、徒然草(1330~)などで使用されている。活用は次に示す。

 

未然形・・・「たら」

連用形・・・「たり」、または「と」

終止形・・・「たり」

連体形・・・「たる」

已然形・・・「たれ」

命令形・・・「たれ」

 

 以上から、「富みたる」ということばは、名詞の「富(とみ)」+断定の助動詞「たり」の連体形「たる」で成立する。そして、蜻蛉日記や源氏物語が書かれた時代以前から「富」も「たり」ということばも存在し、「富たる」ということばも使われていたと想像できる。しかし、飛鳥時代(6世紀末から7世紀中)に使われていたかどうかは確認できなかった。この点については、Weblio古語辞典を調べても確認できなかった。

 

Weblio古語辞典の説

天武天皇の時代、赤い鳥を献上した者があったので、明日香にあった宮殿の「浄御原宮」に「とぶとりの」を冠して、「飛鳥浄御原宮」と改めたことにより、地名「明日香」の枕詞(まくらことば)となったとの説

 この説は、複数の辞書に掲載されている。

 

 「飛ぶ鳥の」は地名「明日香 (あすか) 」にかかる枕詞。天武天皇の時に、赤い雉の献上を吉兆として朱鳥と改元、明日香にあった大宮を飛鳥 (とぶとり) の浄御原 (きよみはら) の宮と名づけたところから。(goo辞書)

 

 地名「明日香あすか」にかかる枕詞。天武天皇の時に、赤い雉の献上を吉兆として朱鳥と改元、明日香にあった大宮を飛鳥(とぶとり)の浄御原きよみはらの宮と名づけたところからという。 (デジタル大辞典)

 

この二つの辞典の記述の元となったのが日本書紀の次の記述と思われる。

 

『日本書紀』天武天皇元年(672年)是歳の条に、「宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ」とある。また、朱鳥元年720日の条に「元を改めて朱鳥(あかみとり)元年と曰ふ。仍(よ)りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)と曰(い)ふ」とある。これを信じれば、「飛鳥浄御原宮」という宮号は朱鳥元年(686年)に名づけられたことになり、672年冬~6867月までは、この宮の名がなかったことになる。 (奈良・記紀・万葉https://kikimanyo.info/jinshin/map/asuka/ より引用)

 

 以上から、上記2つの説の比較では、日本書紀の記述が元となっているWeblio古語辞典の説の方が信憑性が高いように思われる。

2017/06/25

メソポタミア文明(2)

●シュメール人(Sumerian)
 メソポタミア文明は、ティグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアに生まれた世界最古の文明で、大河を利用した灌漑農業を行っていた。

BC3500年頃から人口が急激に増え、楔形文字が使われ、青銅器が普及した。

BC3000年頃から、シュメール人の都市国家が形成された。

ウルウルク(Urukなどが代表的な都市である。

メソポタミアでは大洪水が何度も起き、都市の中心にはジッグラト(Ziggurat)と呼ばれる人口の丘が造られた。

洪水の話はノアの箱舟の物語に、ジッグラトはバベルの塔の伝説になったと考えられている
 
都市国家では、王を中心とした神権政治が行われ、人民や奴隷を支配する階級社会ができた。

王のもとには莫大な富が集まり、大規模な治水や灌漑、あるいは壮大な神殿や宮殿が作られた。

ギルガメシュ叙事詩に登場するギルガメシュ(Gilgameshは、BC2600年頃のシュメール人の王である。

●古バビロニア王国(Babylonia)
 シュメール人の都市国家は絶え間ない戦争のため衰え、BC2350年、アッカド人のサルゴン1(Sargon)が都市国家を征服し、シリアからエラム(イラン南西部)に至るアッカド帝国(Akkad)を建国した。
 
 BC2230年頃、シュメール人が勢力を回復してアッカド帝国を滅ぼし、ウル第三王朝が作られた。

しかしこの王朝も長続きせず、BC1900年頃、アムル人がバビロンに古バビロニア王国を建国した。
 
 この王朝はBC1700年頃、第6代のハンムラビ(Hammurabiの時に最盛期を迎える。

ハムラビ王は、BC1750年に「目には目を、歯には歯を」で有名なハムラビ法典を発布する。

旧約聖書の創世記14章に登場するシナルの王アムラフェルは、ハムラビ王のことではないかという説がある。

オリエント
オリエントとは「太陽の昇るところ」を意味し、ヨーロッパから見た東方、現在の中東をさす。

エジプトの太陽暦、バビロニアの60進法(現在も時計に使われている)、フェニキアの表音文字(アルファベット)がヨーロッパに伝わった。

キリスト教も、オリエントで産まれたものである。

●ヒッタイト王国(Hittites)
 BC17世紀半ば頃、鉄製の武器を使ったヒッタイトは、小アジアに強力な帝国を建設し、古バビロニア王国を滅ぼした。

BC1285年頃、ヒッタイト王ムワタリは、シリアに進出してきたラムセス2世率いるエジプト軍と戦った(カデシュの戦い)。

ヒッタイト軍は、先頭のエジプト軍を壊滅させるなど戦闘を有利に進めたが、その後エジプト軍が巻き返し、膠着状態となった。

ムワタリは停戦を申し入れ、ラムセス2世も受諾し両軍とも兵を退いた。

平和条約は成文化され、粘土板に刻まれた。

この粘土板は1905年にトルコのボアズカレで発見され、そこがヒッタイトの都であることが分かった。

またエジプトには、この粘土板と同じ内容がカルナック神殿の壁に刻まれている。
 
 この時代にはヒッタイトやエジプト以外に、フルリ人のミタンニ王国やカッシート人のバビロン第3王朝(カッシート王国)が栄えていた

【アマルナ文書】
オリエントの王から新王国時代のエジプトに送られた外交文書で、382枚の粘土板に楔形文字で書かれている。

1885年、エジプトのアマルナで発見された。

●ヒッタイトの滅亡
 ヒッタイトはBC1190年ころ、謎の民族である海の民によって滅ぼされた。

海の民は自分達の国家を作らず、歴史から消えてしまった。

メソポタミアを支配してきたエジプトやヒッタイトが衰退すると、アラム人、フェニキア人、ヘブライ人が活躍した。

●アラム人(Aramaeans
BC1200年からダマスカスを中心に都市国家を建設し、ラクダを使った隊商貿易で栄えた。

交易網が拡大するとともに、アラム語がオリエント世界の国際語となった。

また、彼らが使ったアラム文字はヘブライ文字、アラビア文字、シリア文字、突厥文字、モンゴル文字などに派生していった。

●フェニキア人(Phoenicia
海洋商業民族。

シドンやティルスなどの都市国家を作って地中海貿易を独占し、カルタゴなど多くの植民都市を建設した。

フェニキア文字を使用し、これがギリシアに伝わってアルファベットとなった

アルファベットとは、ギリシア文字の最初の2文字アルファ、ベータに由来する。

●ヘブライ人(Hebrew
遊牧民であったがBC1500年頃パレスティナに定住し、一部はエジプトに移住した。

エジプトのヘブライ人は、BC13世紀にモーゼに率いられてエジプトを脱出し、 パレスティナにイスラエル王国を建国した

ダヴィデと、その子ソロモンの頃に栄えた。

ユダヤ人のこと。

●アッシリア(Assyria:シリアの語源)
 アッシリアBC2000年頃にイラク北部にできた国家で、当初はミタンニ王国に服属していた。

その後独立し、鉄製の武器と戦車や騎兵によって勢力をのばし、サルゴン2(BC722705年)の頃、オリエントの大半を統一した(最初の世界帝国)

最盛期はアッシュールバニパル王の頃で、BC663年にエジプトを征服する。

首都をニネヴェに移し、図書館を建設した。

この遺跡からギルガメッシュ叙事詩が発見された。

 しかし過酷な専制支配をしいたため、BC612年にカルデア・メディア連合軍に滅ばされた。

オリエントはエジプト、リディア、新バビロニア(カルデア)、メディアの4王国に分立した

この中で、新バビロニアが優勢だった。

 リディアは世界で初めて鋳造した貨幣を造り、物流に大きな変化をもたらした。貨幣はギリシャに広まっていった。

●新バビロニア
 新バビロニアのネブカドネザル2世(BC604562年、Nebuchadnezzarの頃が最盛期で、メソポタミア、シリア、パレスティナを支配し、バベルの塔やイシュタル門などを建築した。

また、またユダ王国を2度の遠征で滅ぼし、ユダヤ人の大量移送、バビロン捕囚(Babylonian captivity)を行った。

 新バビロニアは、BC539年にアケメネス朝ペルシアに滅ぼされ、バビロン捕囚で連行されたユダヤ人は解放された。

【イシュタル(Ishtar)
アッカドの女神で、ローマのヴィーナスのこと

イシュタルは、アッカドが滅亡しても多くの民族で崇拝された。

ネブカドネザル2世は、バビロンに入る8番目の門としてイシュタルを描いたイシュタル門を建設した。

ベルリンのペルガモン博物館には、この門を復元して展示している。

【ナブッコ】
バビロンの捕囚を題材としたヴェルディ作曲のオペラで、ナブッコとはネブカドネザル2世のことである。

3幕での合唱「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」は、イタリアでは第2の国歌となっている。
※ http://www.vivonet.co.jp/rekisi/ 引用