2018/04/28

新アッシリア帝国(3)


 アッシリア
 前8世紀から前7世紀、メソポタミアからエジプトまでのオリエント全域をアッシリア帝国が統一しました。

 この国を建設したアッシリア人はセム語系です。前20世紀以前から、ティグリス川上流のアッシュールという都市を中心に交易活動等をしていました。古バビロニア王国やミタンニに服属していたのですが、前14世紀に、一時独立を回復。その後、またしばらくは目立った活動はありません。

 ところが前9世紀頃から、急速に勢力を伸ばしてきました。この時期くらいから、オリエントは鉄器時代に突入します。アッシリアは、これをうまく取り入れると同時に、常備軍を組織しました。そして騎兵隊を導入します。教科書のアッシリア騎兵の浮き彫り写真を見ると、この騎兵は弓をつがえていますね。馬には、まだ鞍もあぶみもついていません。騎兵が鞍がない状態で槍を持って敵を突くと、反動で馬の後ろに飛んでいく。また、あぶみなしで剣を振りおろすと、馬の横に滑り落ちるそうです。だから弓を使っているのです。

 前8世紀末のサルゴン2世の時から飛躍的に領土を拡大して、その後、一時はエジプトも支配下において約100年間、絶頂期です。首都はニネヴェ。

 アッシリアは全国を属州、属国として、多くの民族を支配したのですが、その支配の仕方が酷かった。抵抗した都市の住民の生皮を剥いで城壁に貼りつけたり、串刺しにしたり、とにかく力で押さえつけるものでした。

 その代表が「強制移住政策」というものです。これは抵抗しそうな地方の民族を、ごっそり別の場所に移住させるものです。生活の基盤を奪われて、一から生活を築いていかなければいけないから、これをやられた民族はアッシリアに抵抗するどころではなくなるわけです。「強制移住」なんていう言い方は、まだまだ優しい。難民創出政策ですね。

 こういう強圧的な力による支配は、強そうで実はもろい。うまい支配というのは飴とムチを上手に使い分けるものですが、アッシリアの場合はムチムチだった。100年ほど最盛期が続いたあとは、各地で反乱が頻発し、あっけなく滅んでしまいます。

 北方のスキタイ人の攻撃と支配下のカルデア人、メディア人等の反乱で首都ニネヴェは前612年に陥落し、前609年、アッシリア帝国は滅亡しました。

四国分立時代
 アッシリア滅亡後、オリエントには四つの国ができます。これを四国分立時代(前612~前525)という。

 まずメソポタミアからシリアにかけての、いわゆる「肥沃な三日月地帯」を中心に建国したのが新バビロニア王国。カルデア王国ともいいます。バビロニアの南部に住んでいたカルデア人の建国です。都はバビロン。

 この国の王はネブカドネザル2世。前回もでました。ユダ王国を滅ぼしてバビロン捕囚をおこなった王です。これは、アッシリアの政策を受け継いでいるわけです。アッシリアも、イスラエル王国を滅ぼした時に強制移住をさせていますから、ネブカドネザル2世の時だけが何故バビロン捕囚として、ユダヤ教成立に大影響を与えたか。不思議に思いませんか。大学で歴史を専攻する人は、こういうことを自分で調べて考えるんですよ。

 小アジアに建国したのがリディア王国。この国は最古の鋳造貨幣を造った点で重要。ギリシア方面とシリア、メソポタミアを結ぶ交易路にあったことと関連があるのでしょう。かつて、ほぼ同じ場所にあったヒッタイトで最古の製鉄がおこなわれていることを考えると、この地域は何か特殊な金属加工についての伝統があったのかもしれない。

 イラン高原を中心にできたのが、メディア王国。エジプトは独立を回復してサイス朝ができます。

アッシリア(Assyria:シリアの語源)
 アッシリアはBC2000年頃イラク北部にできた国家で、当初はミタンニ王国に服属していた。その後独立し、鉄製の武器と戦車や騎兵によって勢力をのばし、サルゴン2(BC722705年)の頃、オリエントの大半を統一した。(最初の世界帝国)。最盛期はアッシュールバニパル王の頃で、BC663年にエジプトを征服する。首都をニネヴェに移し、図書館を建設した。この遺跡から、ギルガメッシュ叙事詩が発見された。

 しかし過酷な専制支配をしいたため、BC612年にカルデア・メディア連合軍に滅ばされた。オリエントはエジプト、リディア、新バビロニア(カルデア)、メディアの4王国に分立した。この中で、新バビロニアが優勢だった。

 リディアは世界で初めて鋳造した貨幣を造り、物流に大きな変化をもたらした。貨幣は、ギリシャに広まっていった。
出典 http://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca

2018/04/27

ソクラテスの思想(4) 「アレテー(徳)」

抽象概念の明確化
プラトンが描くソクラテス像に則るならば、ソクラテスの業績・営みの特徴は、人生や社会に関わる抽象概念や曖昧な事柄を明確化しようとしたことにあると言える。ポリスの自由市民達が尊ぶ徳・正義・善・敬虔・節制(分別)・勇気とは一体何なのか、あるいは、それを教えると称するソフィスト達、彼らが駆使する社会操縦術(説得術)である弁論術(レトリケー)等は、一体何であるのか、そういった曖昧なまま放置されている物事を、再度入念に吟味・検証することを彼は要求する。そのためには、一方通行のまま疑問に答えてくれない弁論や書物では役に立たず、しっかりと質疑応答を経て合意を重ねながら対象を深く探求していける問答が必要になる。

話をわかりやすくするために、そういった抽象概念や曖昧な事柄を、具体的・実用的な事柄に置き換えつつ問うのも、彼の特徴の一つだと言える。例えば

「医者は医術を教え、彫刻家は〜、建築家は〜、大工は〜、鍛冶屋は〜、靴屋は〜、ではソフィストは何を教えるのか?」

などが典型である。

また、抽象概念同士の関係性や数、一致性・不一致性、範疇・所属なども執拗に問うていく。こういった飽くなき概念の明晰化の追求、知識・人間の吟味と向上、これが彼の考えた愛知(哲学)の営みだと推察できる。

こういった一見、現実社会に直接役立ちそうもない重箱の隅をつつくような思索[要出典]を、青年期を過ぎてなお延々と続ける「子供じみた」[要出典]営みと断定する人々、特に目の前の社会運営を優先する穏健で「大人な」人々や、弱肉強食な自然観・社会観を持っている「諦念的な」人々を苛立たせる。そして、『ゴルギアス』に登場するカルリクレスや、『国家』に登場するトラシュマコスなどのように、公然とソクラテスを非難する人々も出てくることになる。しかしながら、そうしてソクラテスを非難する人々が拠って立っている考えの曖昧さですら、ソクラテスにとっては明確化の対象であり、そういった人々もまた、格好のカモ[要出典]として、ソクラテスの明確化の渦の中に巻き込まれていくことになる。

こうして、タレースなどミレトス学派(イオニア学派)に始まる自然哲学とは対照的な、人間・社会にまつわる概念を執拗に吟味・探求する哲学がソクラテスによって開始され、後にその弟子であるプラトン、更にその弟子であるアリストテレスが、(ピタゴラス教団やエレア派の影響を受けつつ)形而上学をそこに持ち込むことによって、その両者(「自然」と「人間・社会」)のあり方の説明を、包括的に一つの枠組みに統合・合理化したという見解が、一般的に広く受け入れられている。

アレテー(徳/卓越性/有能性/優秀性)
彼の最も重視した概念は、よい生き方としてのアレテー(αρετη、arete徳)である。「人間としての善=徳」という意味で、人間のアレテ-は魂をより良くすることであり、刑罰もそのために有効だとする[要出典]。また、アレテーを実践する者の人生は幸福であるとも主張した。しかし、これはプラトンの考えという説もある。なぜなら、ソクラテスは著書を残していないからである。

社会契約論
『ソクラテスの弁明』の続編である『クリトン』において、死刑を待ち、拘留されているソクラテスに逃亡を促しに来た弟子のクリトンに対して、彼は「国家」「国法」という架空の対話者を持ち出し

「我々の庇護の下でおまえの父母が結婚し、おまえが生まれ、扶養され、教育された。祖国とは、父母や祖先よりも貴く、畏怖され、神聖なものである。また、この国家(アテナイ) が気に入らなければ、いつでも財産を持って外国や植民地に移住することが認められているのにもかかわらず、おまえは70歳の老人になるまで、ここに留まり、家庭をもうけ、ほとんど外国に行くことすらなかった。したがって、我々とおまえの間には合意と契約が成立しているのにもかかわらず、今さらそれを一方的に破棄して、逃亡を企てようというのか?
そのような不正が許されるのか?」

と彼自身を非難させ、クリトンに逃亡の説得を諦めさせた。

これは、中世・近代に様々に展開していくことになる社会契約論の原型とも言える。彼の弟子であるプラトンや、その弟子であるアリストテレスも、徳の概念と関連させつつ、様々な国家論を論じていくことになる。

自立(自律)
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(201510月)
ソクラテスは、徳(善き生)などについての考えの形成(魂の世話)を、ソフィストのような他者の手に納得しないまま安易に委ねることを嫌った。そして、自身の考え(あるいは、「ダイモニオン」)に従い、おかしいと思うことは相手が誰であろうと忌憚無く問い、正しいと思うことは誰に反対されようとも実践すべきであることを身を以て示した。その結果、彼は自ら死刑を受け入れることになる。

ダイモニオン
ソクラテスは、時折「ダイモニオン」(超自然的・神的な合図・徴(しるし))を受け取ることがあったという。そして、それが彼の考えや行動の重要な指針にもなっている。彼によると、それは幼年時代からあらわれるようになった一種の声(幻聴)であり、常に何事かを諫止・禁止する形であらわれ、何かを薦める形ではあらわれない。なお、こういったことを放言していたことが「国家の信ずる神々を信ぜずして、他の新しき神霊(ダイモニア)を信ずる」といった訴状の内容にも影響を与えたと考えられる。
出典 Wikipedia

2018/04/26

アルテミス(ギリシャ神話34)

アルテミス女神については、オウィディウスなどが『変身物語』において、読み物風の恋愛譚を書き残したことでよく知られる。オーリーオーンとの恋愛の話などが存在する。

カリストー
カリストー(Kallistōはアルカディアのニュムペーであるが、純潔を誓い、アルテミス女神に従っていた。ゼウスは姿を変えてカリストーに近づき、彼女を愛した。こうして二人の間にアルカディアの祖となるアルカスができるが、アルテミスはこれを怒り、彼女を雌熊に変えた(一説では、ヘーラーが、またゼウス自身が、雌熊に変えた)。カリストーはアルテミス女神によって殺されたとも、息子アルカスがそれと知らず熊と思い彼女を殺したともされる。

ゼウスはカリストーを憐れんで天に上げ、おおぐま座にしたとされる。息子アルカスはこぐま座となった(なお、うしかい座もアルカスの姿であるとされる)。しかしこのカリストーは、本来は「アルテミス・カリステー」(Artemis Kallistē, もっとも美しいアルテミス)であり、アルテミス自身のことであったと考えられる。

アクタイオーン
アクタイオーン(Aktaiōnは、アポローンの子アリスタイオスと、カドモスの娘アウトノエーとの間に生まれた子で、猟師であった。彼は、キタイローン山中で50頭の犬を連れて猟をしていたが、たまたまアルテミスが泉で水浴している姿を垣間見、女神の裸身を見た。アルテミスは怒り、アクタイオーンを鹿に変え、その連れていた50頭の犬に襲わせた。犬たちによってアクタイオーンは引き裂かれて死んだ。

オーリーオーン
オーリーオーン(Ōrīōnは、ポセイドーンの息子である。彼は陸でも海でも歩くことができ、そして非常な豪腕の持ち主で、太い棍棒を使って野山の獣を狩る、ギリシア一番の猟師であった。

狩猟の女神であるアルテミスと、ギリシア随一の狩人であるオーリーオーンは次第に仲良くなっていき、神々の間でも二人は、やがて結婚するだろうと噂されるようになっていった。しかし、アルテミスの双子の弟(兄)であるアポローンは、乱暴なオーリーオーンが嫌いだった事と、純潔を司る処女神である彼女に恋愛が許されない事から、二人の関係を快く思わなかった。だが、アルテミスはアポローンの思惑を気にしなかった。

そこでアポローンは、奸計を以てアルテミスを騙す挙に出た。アポローンは、アルテミスの弓の腕をわざと馬鹿にし、海に入って頭部だけ水面に出していたオーリーオーンを指さしして「あれを射ることができるか」と挑発した。オーリーオーンは、アポローンの罠で遠くにいたため、アルテミスはそれがオーリーオーンとは気づかなかった。

アルテミスは矢を放ち、オーリーオーンは矢に射られて死んだ。女神がオーリーオーンの死を知ったのは、翌日にオーリーオーンの遺骸が浜辺に打ち上げられてからだった。アルテミスは、後に神となった医師アスクレーピオスを訪ね、オーリーオーンの復活を依頼したが、冥府の王ハーデースがそれに異を唱えた。

アルテミスは、父であり神々の長であるゼウスに訴えるが、ゼウスも死者の復活を認めることはできず、代わりにオーリーオーンを天にあげ、星座とすることでアルテミスを慰めた。なお、さそり座はアポローンが謀ってオーリーオーンを襲わせ、彼が海に入る原因となったサソリであるとされた。そのため、オリオン座は今もさそり座が昇ってくると、それから逃げて西に沈んでいくという。

その他
    アポローンがヘーリオスと同一視され太陽神とされたように、後期にはセレーネーと混同されて月の女神とされた。また月と関係のあるヘカテーと混同、または同一視されることがある。天では月の女神セレーネー、地では狩猟の女神アルテミス、冥界では夜と魔術の女神ヘカテーとされた

    銀の光の矢を放つ月の女神として、海を支配するポセイドーンの領国に対し神秘的な力を持っており、海の潮を銀の鎖で自在に操ることができる。

    アルテミスは異母姉妹であるアテーナーを敬愛し、アテーナーにならい永遠に純潔の処女であることを父のゼウスに誓いを立て、また自らの配下であるニュムペーたちにも同樣の誓いを立てるようにと厳命され遵守していた。

    気の強さを表すエピソードの多いアルテミスであるが、トロイア戦争で自らが支援したトロイアが滅亡した際には、父であるゼウスに泣きつくという意外な一面を見せている。

    ギガントマキアーにおいては、ギガンテスの一人グラティオーンを倒している。

    エペソスにおけるアルテミス崇拝は、マルセイユを経てローマに伝わり、女神はローマ神話のディアーナと同一視された。

    薬草アルテミシア(ヨモギ属)の名はアルテミスに由来し、女性の月経や分娩を整えるなど、多くの効能からよく用いられた。

    聖獣は牝熊、鹿、猟犬で、聖樹は糸杉である。

    ヤママユガ科の蛾の一種であるオオミズアオの学名は Actias artemis (アクティアス・アルテミス)。

出典 Wikipedia

2018/04/23

新アッシリア帝国(2)

アッシリア帝国滅亡後のアッシリア人
ニネヴェなど、アッシリアの主要な都市の幾つかは、アッシリア帝国滅亡時に破壊された。ヘロドトスの時代には、そこに住む者はいなかったという。だが、アッシリア人自体はある日突然絶滅するわけも無く、その後も生き続けアッシュール神に対する祭祀も継続されたと考えられる。アッシリア人自身が支配者として君臨することはその後二度となかったが、アッシュールやシャルマヌ、ニヌルタなど、アッシリア人が好んで名前に使った神の名を持つ人名が、その後も役人などの名前として記録されている。アケメネス朝からアルサケス朝時代にかけて、アッシリア人の多くはアッカド語(アッシリア語)ではなくアラム語を使用するようになったと考えられる。その後も、アッシリア人と思われる人名がサーサーン朝時代にまで登場する。

この生き残ったアッシリア人と、アッシリア人の末裔と主張するいわゆる現代アッシリア人の関係は、必ずしも明白ではない。現代アッシリア人に限らず、中近東のキリスト教徒共同体は起源譚として、古代オリエントの民族を持ち出す事が多い。少なくとも「民族」と言うものが、ある古代のある集団から真っ直ぐ繋がるというほど、単純なものではないと思われる。

古代オリエント世界の古典文学の多くが、後代に受け継がれず土に埋もれていく中、アッシリア人の歴史の多くも人々から忘れ去られたが、旧約聖書やギリシア人達の記録によって、僅かに後世に伝えられた。楔形文字の解読によって再びアッシリア人が歴史に大きく取り上げられるようになるのは、19世紀以降のことである。

『旧約聖書』とアッシリア
『旧約聖書』は、アッシリアについて著述された文献のうち、後代まで継続して受け継がれた数少ない文献の一つである。『旧約聖書』の中で、アッシリアは外敵として描かれる。取り分け『列王記』の中の記述では、アッシリアがイスラエルに攻め込んだ様、そしてイスラエル王国やユダ王国がそれにどのように対応したかが、宗教的修飾を伴うものの詳しく叙述されている。

概略は、プル王(ティグラト・ピレセル3世)がイスラエルに侵攻して以来、イスラエルとユダの王が時に貢物を贈って災禍を免れたことや、アッシリア統治下でイスラエル人達が各地に強制移住させられたこと、そして元の土地には入れ替わりにバビロニアなど、各地の人間が入植させられたことが記述されている。

また、『イザヤ書』の中では、主がアッシリアに罰を下すであろうこと、そしてアッシリアを恐れてはならないことが主張される他、『ナホム書』と『ゼファニヤ書』では、将来のアッシリアの滅亡が預言される。これらから、当時の被征服者達の対アッシリア感情の一端を垣間見ることができる。さらに、『ヨナ書』では被征服者から怨嗟の眼差しを投げかけられるアッシリアの都ニネヴェですら、ヤハウェ神の愛が及ぶことを説くことで、イスラエル人部族連合体の神から全世界を統べる唯一神への、ヤハウェ神概念の拡張が表現されている。

『旧約聖書』のアッシリア観は、近現代の研究者達にも多大な影響を与えた。現在、アッシリア学においては、信仰的な理解で『旧約聖書』を扱うことは一般的ではないが、古代の記録としての『旧約聖書』が極めて重要な史料であることに関して、疑いを入れる余地はない。またアッシリア王の名前は『旧約聖書』のヘブライ語表記に基づいたものが広く普及している(例えばセンナケリブは、アッシリア人自身の用いたアッカド語では「シン・アヘ・エリバ」となる)。
※出典 Wikipedia