2017/08/29

日本の調味料・香辛料(日本の食文化とは何か/農林水産庁Web)

III 日本の調味料・香辛料

1 味噌と醤油

醤油や味噌は、どちらも発酵で生じた豊富なアミノ酸と核酸のうま味、ならびに熟成によって生じた複雑な風味を持つ。味噌は、蒸煮した大豆に麹と食塩を混ぜて発酵熟成させたペースト状の調味料である。原材料によって、米味噌、麦味噌、豆味噌、等に分類される。また食塩の量によって白味噌、甘味噌、中辛、辛味噌に分けられる。白味噌は米麹の割合を増やし、大豆を減らして着色を避ける。白味噌には独特の甘味や風味があり、塩分濃度も様々なものがある。概して塩分濃度は低いので保存性は高くない。豆味噌は、蒸し大豆に麹を足して味噌玉麹を作り塩を加えて発酵熟成させる。名古屋味噌、八丁味噌などがこれに含まれる。そのほか各地に独自の味噌が作られている。

 

醤油は、蒸煮大豆に小麦を混ぜて作った麹に食塩水を加えたもろみを発酵熟成させた後、搾ったものである。熟成工程で塩分濃度を高めることと搾る前に甘酒を添加し、やや低温で火入れしすることで着色を抑制したものが薄口醤油であり、塩分濃度は濃い口醤油よりも高い。薄い色の煮ものを好む京料理に重用される。

 

味噌も醤油も、原料の大豆や小麦の発酵による複雑なうま味がある。発酵・熟成過程中のアミノカルボニル反応(褐変反応)によってメラノイジンができる過程で、アルデヒド類やアルコール類を中心としたさまざまな風味の化合物が生まれる。それらは醤油の色だけでなく、特有の風味と深い味わいを醸し出す。

 

味噌汁や煮ものでは、基本となるダシに味噌や醤油を足す場合が多い。醤油は刺身や焼き魚、冷たい豆腐、煮もの、炒め物など非常に多くの料理に使われる。味噌もさまざまな料理に使われる。味噌や醤油は煮ものに添加されたときの香りの他に、高温の加熱に生よって生じる特有の焦げ香も日本人に好まれる。

 

東南アジアの魚醤には、アンモニア臭、チーズ臭、腐敗肉臭がするものが多いと言われるが、大豆や麦を原料とする日本の醤油には感じられない。近年、フランス料理などでは、醤油を隠し味として添加することがかなり一般的になってきている。日本の醤油の加熱臭には、グローバルに好まれる部分がある。日本国内のフランス・イタリア料理でも醤油や味噌、ダシなどを使用する料理人が増えてきており、これらの調味料は料理の国境を取り払う方向に向かっている。

 

2 香辛料

日本で大量に使われる香辛料は、非常に限られている。東南アジアの食がさまざまな香辛料を料理に用いるのに対して、日本では山椒、胡椒、トウガラシ、わさび、和からし、ショウガ、しそ、にんにくがよく使われるに過ぎない。

 

使用量は多くはないが、日本独特の伝統的な調味料は少なくない。柚子はその代表であり、日本料理の吸い物には欠かせない。柚子の皮を少量吸い物に入れるだけで、味が引き立ち、締まる。海外の評価も高まってきている。最近、長谷川香料フレーバー研究所は、柚子の香気成分の研究結果より、新規柚子フレーバーYUZUNONを開発した。YUZUNONは((6Z,8E-undeca-6,8,10-trien-3-one)の構造を持ち、柚子に含まれる独特の香気に大きく寄与するフレッシュなピール感の再現に成功している。

 

七味トウガラシは、山椒とトウガラシを中心に香辛料を店によって独自に調合したもので、調合によって味のバリエーションは大きい。一般的には、トウガラシ、山椒の実、ゴマ、青のり、麻の実、陳皮、ケシの実が混合される。伝統的な香辛料の中でも特異な存在と言える

 

3 独自の発展を遂げたウスターソース

ソースといえばウスターソースを指すほど、日本ではウスターソースはポピュラーである。ウスターソースは、英国のウスターシャー州で最初つくられたアンチョビーとタマリンドやエシャロット、にんにくなどを原料とした魚醤とされる。インドのソースを英国風に再現したと言われる。英国の植民地であったインドのソースを真似したものが日本で大きく進化した点では、日本のカレーと共通の部分がある。日本では明治時代に製造が始められたが、日本で製造・販売されてきたウスターソースは、英国の魚醤的なソースとは異なる。日本のソースは果実と野菜、砂糖、食酢、カラメル、スパイス類が主原料であり、日本独自の味わいである。

 

日本のソースには、いわゆる日本産のウスターソースの他に、デンプンなどで粘度を高めたトンカツソースや、さらに粘度や味付けを変えてお好み焼きやソース焼きそば用に改良された濃厚ソースが多数あり、独自の食材のジャンルを形成している。

 

4 カレー風味・カレー粉

ウスターソースと同じく、日本のカレーも植民地インドの料理を宗主国英国が再現した点で、よく似た生い立ちを持っている。インドのカレーは、主に油脂をベースに特定の香辛料を添加して、香辛料の風味をさまざまに楽しむ。一方、日本のカレーは、数十種類の香辛料を調合して出来上がった、ある種の混合物の風味を楽しむものである。インドのカレーと異なり、多種類の香辛料がほぼ一定の割合で調合された狭い範囲の香辛料混合物であるところに、インドなどとは異なる特徴がある。日本では主にカレールーとして食品会社が製造販売している。トウガラシ、胡椒、生姜、芥子、シナモン、キャラウェイ、コリアンダー、ディル、クローブ、ナツメグ、メース、オールスパイス、カルダモン、ウコンなどの基本的な香辛料の調合に、製品ごとに独自の香辛料を足して作り上げ、突出した風味を避けるのが一般的である。ウコンなど、いくつかの香辛料の色によって黄褐色をしている。

 

同様の香辛料を配合した黄褐色の粉末を「カレー粉」として、さまざまな料理の調味に使う場合もある。カレー粉はカレーライスに用いられてきたが、そこからドライカレーや、カレーうどん、スープカレーなどが派生している。日本のカレーの特徴的な風味は、現代日本人が最も好む風味の一つであり、2009年の朝日新聞の読者調査(前出)でも、ラーメンとならぶ代表的な国民食として紹介されている。

古代エジプト(5)

社会
古代エジプトの主食はコムギから作るパンであり、エジプト人は「パン食い人」と呼ばれるほど大量のパンを食べた。

また、サワードウによる発酵パンが誕生したのもエジプトである。

紀元前3800年頃に大麦から作るビールの生産が始まり、紀元前3500年頃にワインの生産が始まった。

ワインブドウは麦と違い外来作物であり、ワインは高貴な酒で一般市民はビールを飲んだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。

ビールはアルコール分が低く、パンと並んで主要な食物とされており、大量に生産・消費された。

ファラオは神権により支配した皇帝で、僅かな例外を除き男性。

継承権は第一皇女にあり、したがって第一皇女の夫がファラオになる。

名前の一部には、神の名前が含まれた。

人口の1%程度の少ない貴族階級が土地を所有し支配していた。

残る99%である、殆どの平民は小作だった。

ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交替したり王朝が変わると土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。

1日を24時間としたのは、エジプトだと言われている

農業
古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスが「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記しているとおり、古代エジプトの主要産業である農業はナイル川の氾濫に多くを負っていた。

ナイル川は6月ごろ、エチオピア高原に降るモンスーンの影響で氾濫を起こす。

この氾濫は水位の上下はあれど、氾濫が起きないことは殆どなかった上、鉄砲水のような急激な水位上昇もほぼなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。

この氾濫は、エチオピア高原から流れてきた肥沃な土壌を氾濫原に蓄積させ、10月ごろに引いていく。

これによりエジプトは肥料の必要もなく、毎年更新される農耕に適した肥沃な土壌が得られた。

浅い水路を掘り、洪水時の水を溜めていたこの方式はベイスン灌漑方式と呼ばれ、19世紀に至るまでエジプトの耕作方法であり続けた。

作物は大麦と小麦が中心で、野菜ではタマネギ、ニンニク、ニラ、ラディッシュ、レタスなどが主に栽培された。

豆類ではソラマメ、ヒヨコ豆、果実ではブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどがあった。

外国から伝わった作物としては、新王国時代にリンゴ、プラム、オリーブ、スイカ、メロン。

プトレマイオス朝時代には、モモ、ナシなどが栽培された。

古王国時代から中央集権の管理下に置かれ、水利監督官は洪水の水位によって収穫量を予測した。

耕地面積や収穫量は記録され、収穫量を元に徴税が行われて国庫に貯蔵され、食料不足の際には再配分された。

農民の大部分は農奴であったが、新王国時代になると報酬によって雇われる農民や、自立農民が増加した。
 
対外関係と交易
エジプト本国はナイル川の領域に限られており、それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた

ナイル川流域でも、エレファンティネ(アスワン)の南にある第一急流によって船の遡上が阻害されるため、それより南は外国とみなされていた。

この南の地域はヌビアと総称され、古王国以降の歴代王朝は度々侵攻し徐々に支配地域を南下させていったものの、動乱期になるとこの地域は再び独立し、統一期になると再びエジプトの支配下に入ることを繰り返した。

この過程で、ヌビア地方はエジプトの強い影響を受け、のちに成立したクシュ王国においても、ピラミッドの建設(ヌビアのピラミッド)を始めとするエジプト文化の影響が各所にみられる。

ヌビア以外の諸外国については、中王国時代までは積極的な侵攻をかけることは殆どなく、交易関係に留まっていたものの、新王国期に入るとヒクソスの地盤であったパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐり、ミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。

また、古王国期から新王国期末までの期間は、アフリカ東部にあったと推定されているプント国と盛んに交易を行い、乳香や没薬、象牙などを輸入していた。

エジプトの主要交易品と言えば金であった。

金は上エジプトのコプトスより東に延びるワディ・ハンママート周辺や、ヌビアのワワトやクシュから産出された。

この豊富な金を背景にエジプトは盛んに交易を行い、国内において乏しい木材・鉱物資源を手に入れるため、銅、鉄、木材(レバノン杉)、瑠璃などをシリア、パレスチナ、エチオピア、イラク、イラン、アナトリア、アフガニスタン等から輸入していた。

特に造船材料として必須である木材は国内で全く産出せず、良材であるレバノン杉を産するフェニキアのビブロスなどからの輸入に頼っていた。

ビブロスは中王国期には、エジプト向けの交易の主要拠点となり、当時エジプト人は海外交易船を総称しビブロス船と呼んだ。

ビブロスからはまた、キプロスから産出される豊富な銅もエジプトに向け出荷されていた。

このほかクレタ島のミノア文明も、エジプトと盛んに交易を行っていた。

下エジプト東端からパレスチナ方面には、ホルスの道と呼ばれる交易路が地中海沿いに伸びており、陸路の交易路の中心となっていた。

紅海沿いには、中王国期以降エジプトの支配する港が存在し、上エジプトのナイル屈曲部から東へ、砂漠の中を延びるルートによって結ばれていた。

この紅海の港を通じ、プントやインド洋沿海諸国との交易が行われた。
※Wikipedia引用

2017/08/28

教祖ピタゴラス(5)



神話」という迷信から開放された人類は、ようやく自分の頭で

「世界とは何か?
万物の根源は何か?」

という問題を考えるようになった。

最初の哲学者タレスは、自然への観察から「万物の基は水だ」と考えた。

だが、多種多様な世界において「水が全てだ」と考えるのは説得力がない。

そこでタレス以後の哲学者たちは、タレスの説を否定し、

万物の根源は、無限定な何かだ」アナクシマンドロス(タレスの弟子)

万物は、空気(気息)が固まってできたのだ」アナクシメネス(タレスの弟子の弟子)

と、色々なことを考え出したのだが、説得力のない点ではタレスと大差なかった。

しかし、B.C.550年頃。

説得力を持って、世界の根源を説明しようとする人物が現れる。

ピタゴラスである。

「万物の根源は、数である」


と、ピタゴラスは高らかに宣言した。

ピタゴラスは、自然現象が一定の法則に支配されていること、その法則が数式により表せることに気がついたのだ。

たとえば楽器の弦を調律する道具を発明したのは、ピタゴラスとされている。

それまでは、演奏者が耳で良い音を探して調律していた時代に、弦の長さの整数比によって和音が奏でられることを発見し、音楽に大きく貢献したのである。

このように、音楽の和音から惑星の軌道に至るまで、あらゆる事柄の背後に「数の秩序」が潜んでいることに気づいたピタゴラスは、その「」の美しさに陶酔してしまい、ついには「」を崇める宗教として、ピタゴラス教団を設立してしまった。

そこでは、大勢の弟子たちが「数を知ることが真理に近づくこと」だと信じ、日夜数学の証明に励んでいた。

その教団に入るためには全財産を寄付し、俗世を断つ必要があった。

その中で生まれた「ピタゴラスの定理」こと「三平方の定理」は「直角三角形の斜辺の2乗は、他の2辺の2乗の和と等しい」という直角三角形の3辺の関係を示したものだ。

この計算方法は古くはチャイナにもあったものだが、それは経験的なものであり、数学的な手法を使って、それが成り立つことをきちんと証明したのはピタゴラス(教団)が初めてだった。

ところでピタゴラス教団が「」と考えていたのは、整数と整数比(分数)のみであった。

整数 ={ 1, 2, 3, 4, 5, ... , n }
分数 ={ 1/2, 1/3, 1/4, 1/5, ..., 2/3, 2/4, 2/5,...., n/m }

「この世界は、整数とその比(分数)によって、秩序をもって成り立っている」と、ピタゴラス教団は教える。

しかし、ちょっと待って欲しい。

ピタゴラスの定理」を用いれば、整数でも分数でもない「無理数」が出てくるときもある。

12 + 12 = Z2
Z = 2 (無理数)

この整数でも分数でもない「無理数」という存在があることを弟子の一人が、こともあろうに「ピタゴラスの定理」を使って証明してしまった。

「あれれ、教祖様? 
X=1、Y=1のとき、Z って『整数でも分数でもない 変な数』になっちゃいませんか?」

これにピタゴラスは、大変なショックを受けた

まさに「開いた口が塞がらなかった」ことだろう。

教団の教えと反する事を、自らの定理で証明してしまったのだから。

そしてピタゴラスは、その弟子を殺害し、教団の教えを否定する無理数の存在を「決して云ってはならない秘密」として隠してしまったのであった。

ちなみに、このピタゴラス教団。

最後は徹底した秘密主義とエリート意識から、市民の反感を買って弟子たちは教団の施設もろとも焼き殺され、ピタゴラス自身は市民からリンチを受けて死んでしまうのであった。

結論として、ピタゴラスが自然現象の背後に数学的な法則が内在していることに気付き、万物の根源として初めて数学という「観念的な存在」を導入したことにより、以後の哲学に大きな影響を与えたことは疑いのない事実と言える。