2021/04/30

韓非子(3)

出典https://www.taikutsu-breaking.com/

 

人は損得によってのみ動く

韓非はまず、人間を利己的で打算的であり、損得によってのみ動く生き物だと断言します。韓非がそう考えるに至ったのは、当時の現実をつぶさに観察したからであり、韓非子には人間の狡猾さや欺瞞についての生々しいエピソードが収録されています。

 

楚王の妾に鄭袖という女性がいました。ある時、楚王が新しい美人の妾を得ます。鄭袖は、その新しい妾に対し、

 

「王様は女性が手で口を覆う仕草が好きだから、王様に近づく時は手で口を覆うようにしなさい」

 

と教えました。

 

美人の妾は、その話を信じ始めて王とのお目見えする際に、早速その仕草を実行します。事情を知らない王が、その理由を周囲に尋ねると、鄭袖は王にこう告げました。

 

「あの女は王の匂いを嫌って、手で鼻を覆っているのです。」

 

これに無礼だぞと激怒した王は、従者に命令して美人の妾の鼻を削いでしまったのでした。(内儲説下篇)

 

背筋がゾッとするような嫉妬のお話です。ですが、ここまで過激でなくとも、

強力なライバルを蹴落とすため、権力者に嘘を吹き込んで陥れるようなやり口は、現代でもザラにあるのではないでしょうか。

 

また親子の情についても、次のようにバッサリと切り捨てます。

 

人というものは、幼児に父母におろそかにされると成長して親を怨むこととなる。成人となった子供が老いた両親をぞんざいに養うと、親は怒って子供を責める。

 

本来、子と父の仲は、利益を度外視した極めて親密な関係であるはずなのに、相手を非難したり怨んだりするのは、自分に相手が報いてくれるという打算があるからにほかならない。得をすると思えば仲よくなり、損をすると思えば、親子の間にも恨みの気持ちが生じる。(外儲説左上)

 

一般感覚としては、血の繋がり、親子の情というのは絶対的なものだと信じたくなりますが、利益によって繋がっているとする韓非子の理屈も否定しきれないのが恐い所ではあります。

 

人間を損得で動くものだと割り切る韓非。韓非子では、この理論に従って人を治める方法について説いています。

 

他人に期待しない

人が思いやりをもって、こちらのために何かしてくれるということを期待するのは危険だ。確実な事は、こちらのためにせざるをえないようにもっていくことだ。

 

君臣関係は、肉親の関係ほど緊密ではない。まっとうなやり方で身の安全が保障されるならば、臣下はそれなりに力を尽くして主人に仕えるだろうが、そうでなければ私利私欲に走り、上に取り入ろうとする。だから聡明な君主は、何が得で何が損なのかを、はっきり天下に示すのだ。(姦劫弑臣)

 

韓非子で語られるこの考えかたは、現代の経営やリーダーシップの面でも十分に通用する原理だと思います。上に立つ者が損得をはっきりさせる事は、大規模な集団、チームを纏める上では効果的な手段であると言えるでしょう。

 

君主は官爵を売り、臣下はそれに対して己の知力を売る。頼りにできるのは、自分しかない。(外儲説右下)

 

雇用主と被雇用者は、あくまでもギブ&テイクの関係であり、そこに人間的な情など介在しないという、韓非子らしい合理的でドライな考え方です。中小企業に多く見られる助け合い、家族経営の企業理念とは真っ向から対立する思考法ですね。

 

法の目的と役割について

韓非子では国を治める法律についても、興味深い洞察を提示しています。

 

法は威嚇、予防のためにある

 

韓非子では、利己的な人間をコントロールするには、法律で厳しく取り締まらねばならないと強く力説されています。

 

出来の悪い、どうしようもない子がいたとしよう。親や近所の者や先生が、いかに怒って責めて、また教え諭しても変わらず、その脛の毛ほども改めようとしない。ところが巡査が何人かを引き連れて、法律を以て悪人を摘発するという事になると、恐くなって変節し良い子になる。

 

つまり、父母の愛情など十分な教育効果はなく、お上の厳しい刑罰に待たねばならないのだ。それは、民衆は愛情に対しては図に乗ってつけあがり、威嚇にはおとなしく従うからにほかならない。(五蠹)

 

上記の論説に対しては、特に教育と父母の愛情に関して異論が多く出そうではありますが、刑罰による恐怖こそ大衆をコントロールするのに最も効果的だという考えは、無視できない説得力があるように思えます。

 

刑罰とは悪人を裁く為でなく、一般人を教化する為にある韓非子は、刑罰は重ければ重いほど良いとし、それは悪人を罰する為ではなく、犯罪者ではない一般人への見せしめとすることで、未然に犯罪を防止する為なのだと説きます。

 

政治を知らないものは、皆こう言うだろう。

 

「刑罰を重くすると、人民を傷つける。刑罰を軽くしても悪事を予防できるのに、

どうして重くする必要があるのか。」

 

これは、政治をよく分かっていない者の言葉であって、そもそも刑が軽い場合にも悪事から遠ざかるとは限らない。しかし軽い刑で悪事をやめる者は、重い場合には当然悪事には、手を出さない。したがって、お上が重い刑罰を設ければ、それによって悪事は一掃され、それがどうして民衆を傷つけることになろうか。

 

重刑は、悪人にはプラスになるところが小さく、お上が下す罰は大、民はわずかの利益のために大きな罪を犯すことはしない。悪事は必ず抑制することができるということになる。軽い刑は悪人が得る利益は大きく、お上の下す罰は小、民は利益を目当てにその罪を見くびるから、悪事は防ぎようがない。(六反)

 

これは一種の極論にも思えますが、刑罰の恐ろしさが犯罪を防ぐというのは

筋の通った理屈であります。もし、この世から刑罰がなくなって、全てを個人の善意に委ねることになれば、世の中はどうなってしまうのでしょうか。そうなれば、恐くておちおち外も出歩けない世の中になるのではないかと思います。

 

韓非子の七術

最後に、韓非子の内儲説 上に記述されている君主の用いるべき七術をご紹介します。

 

() 臣下の行動と言葉を検証して、言行の不一致がないかを判断する

() 罪には必ず罰を与えて、威厳を示す

() 功績を挙げた臣下には、然るべき褒賞を与える

() 情報は自分の耳で判断し、臣下の伝聞に頼らない

() 不可解な命令をあえて出して、臣下を動揺させそれを試す

() 知らないふりをして質問し、相手の知識や考えを観察する

() 思っていることの逆のことを言って、相手の反応を見る

 

()()までは、ここまで見てきた韓非子の考え方から自然に導き出される考えですが、()()については、より実践的なテクニックの趣が強くなっています。

 

これらのテクニックは、現代の人間関係でも有用であり、ここにも韓非子の持つ普遍性の高さが見受けられます。

 

人の上に立つ者の知恵としては、帝王学にも通じるところがありますね。

2021/04/28

イサク(ヘブライ神話13)

イサク(英語: Isaac アイザック、ヘブライ語: יִצְחָק yits-khawk' イツハク)、古代ギリシア語: Ισαάκ (Isaak)、アラビア語: اسحاق ʾIsāq イスハーク)、「彼は笑う」の意)は、旧約聖書の『創世記』に登場する太祖の一人。父アブラハム、母サラ。 正教会ではイサアクと呼ばれ、聖人とされる。

 

概要

出生・幼少期

アブラハムの妻サラは不妊の女であり、子を産まぬまま年老いていたが、神はサラに子供が出来ると知らせた。アブラハムはひれ伏したものの、九十歳のサラに子供は出来ないだろうと笑う。だが神は出来ると断言し、イサク(彼は笑う)と名づけよと言った。

 

その言葉のとおりサラから子供が生まれ、アブラハムは神が言われたとおりイサクと名づける。それからしばらく後、神はアブラハムの信仰を試そうとして、イサクを焼き尽くすささげものとして供えるよう求めた。

 

アブラハムは、これに従った。イサクも直前になって、自分が犠牲であることを悟ったが抗わなかった。アブラハムが、まさに息子を屠ろうとした時、神はアブラハムの信仰の確かさを知って、これを止めた(イサクの燔祭)。

 

神はアブラハムを祝福して言った。

 

あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。(中略)地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。

『創世記』22:1718

 

子孫・死去

イサクはカナンの女性リベカと結婚し、エサウとヤコブという双子の兄弟をもうけた。ヤコブは弟ながら、エサウの受けるはずだった長子の祝福を横取りし、兄の怒りを恐れて伯父のラバンの元に身を寄せる。

 

やがて、ヤコブはエサウと和解して父イサクと再会した。ヘブロンにいたイサクは、180歳でこの世を去った。

 

イサクとイシュマエル

イサクが生まれる前、出産をあきらめていたサラは、エジプト人奴隷のハガルによってアブラハムにイシュマエルをもうけさせていた。ところが、ハガルは増長して主人のサラを軽視するようになり、サラの腹から生まれたイサクをイシュマエルがからかっている光景をサラが目にしたことから、サラはアブラハムに母子を追い出すよう迫る。アブラハムは、神の「心配せず妻の言う通りにせよ(取意)」とのお告げを受けて、この母子を追い出す。母子は放浪のあげく、泉を見つけて安堵する。この系列はイシュマエル人として、ヘブライ人(ユダヤ人)とは別の民族になったとして、旧約にも登場する(ヨセフをエジプトへ連行したのも、イシュマエル人の隊商である)。のちに、アラブ人はこのイシュマエルを祖とするイシュマエル人の子孫と称し、アラブ人が開いたイスラム教ではイサクよりもイシュマエルが重視される。

 

ヘブライズムを前面に押し出す作曲家の一人であるスティーヴ・ライヒは、この物語の神学的問題をパレスチナ問題と絡ませて「ザ・ケイヴ」というビデオ・オペラにしている。この物語は、しばしば「ユダヤとアラブの宿命の対決」の起点として持ち出されるが、あくまで神話的な伝承に過ぎず、ユダヤ人・ユダヤ教徒とアラブ人・イスラム教徒が常に対立していたわけではないことにも注意すべきである。

出典 Wikipedia

2021/04/22

神功皇后説 ~ 卑弥呼(6)

田油津媛の先々代説

『日本国号考』の中で、新井白石が邪馬台女王国を筑後国山門郡に比定したのを承けて、星野悟は、邪馬台連合国の女王卑弥呼は山門(ヤマト)を本拠とする土蜘蛛(土着の豪族)女王田油津媛の先々代女王にあたるとした。

 

『日本書紀』によると、田油津媛は仲哀天皇・神功皇后による西暦366年頃の九州遠征の際に成敗された。卑弥呼没後、約120年後のことである。福岡県みやま市の老松神社には、田油津媛(たぶらつひめ)を葬ったとされる蜘蛛塚とよばれる古墳が残されている。

 

『日本書紀』では、田油津媛を土蜘蛛だというのみで熊襲とはしておらず、後述の熊襲の女酋説とは区別される。中国史料では、卑弥呼の死去年は西暦247年頃である。これはヤマト王権では、崇神天皇の先代の時期に相当する。

 

甕依姫説(筑紫国造説)

九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君(筑紫国造)の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張している。

 

久米邦武も、また甕依姫に触れてはいないが『住吉社は委奴の祖神』の中で卑弥呼を筑紫国造とした。『先代旧事本紀』国造本紀によれば筑紫国造は成務天皇の時、孝元天皇皇子大彦命の5世孫、田道命が任命されたという。甕依姫は筑紫君の祖とあるものの、逸文の文面上ではすでに筑紫君氏は存在していることになっているので田道命からあまり遡った祖先とは考えられず、甕依姫はどんなに古くても田道命の妻か娘(もしくはせいぜい母親ぐらい)と思われる。

仮に甕依姫を田道命の娘と同世代だとすると、仲哀天皇や神功皇后の時代に相当する。(田道命の妻と同世代だとすると、成務天皇と同時代)

 

神功皇后説

『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している。これを否定する説が井上光貞ほか、一部から指摘されている。日本書紀の神功皇后の百済関係の枕流王の記述の部分が、卑弥呼よりも120年(干支2回り)後の時代のものであるため、そのような主張がなされている。しかし百済の王は古尓王(234 - 286)、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分はほぼ日本書紀の記述どおりであり、子孫の枕流王の部分は切り離して考えるべきだとする説もある。

 

また古事記の神功皇后には、干支を伴った朝鮮関係の記事はなく、子孫の枕流王の部分をもって神功皇后説を否定することはできない。現在でも、倭迹迹日百襲媛命説ほどではないが、それに次いで支持者が多い。

 

また九州説論者でも、神功皇后説を採る論者が何名もいる。またこの説の場合、九州各地に伝説の残る与止姫が神功皇后の妹虚空津比売と同一という伝承もあることから、まれにこの人物を台与に同定する者もいる。その亜流として、古田史学の会の代表の古賀達也は、与止姫を壱与であると主張している。

 

問題点

これまでの諸説では多くの場合、神功皇后の説話を古代日本の女性指導者の姿を描いたものと捉え、「鬼道」の語を手掛かりに卑弥呼を巫女として捉えて卑弥呼が政治的・軍事的指導者であった可能性を否定したり、彼女の言葉を取り次いだという男弟が実際の政務を取ったと解釈したりしてきたが、義江明子はそれを批判して、卑弥呼もまた政治的・軍事的な実権を伴った指導者であったとする。

 

義江の論旨は「卑弥呼は単に祭祀を司掌した巫女だっただけでなく、王としての軍事的な実権、政治的な実権をもっていた。弟が政治を担当していたわけではない」ということであって、必ずしも「卑弥呼=神功皇后説」を主張しているわけではない。

 

ただし「鬼道に事(つか)え」たという卑弥呼が、巫女王としての色合いが強いのに対して、神功皇后は単に神憑りしたシャーマンに留まらず、勇壮な軍事指揮者という別の側面も同等に強く持っているのは義江の主張するとおりであるが、魏志による限り卑弥呼は宮殿に籠って祭祀に専心している様子は窺えるものの、格別に神功皇后のような軍事指揮者としての強い属性があるような記述は、一切みられない。

 

卑弥呼は生涯独身で夫も子もないはずなのに、神功皇后には夫もいたし皇子もいた。死後には、なんの問題もなく応神天皇に引き継がれており、倭人伝がいうような新王への不満や内乱があった様子は無い。また応神天皇、続く仁徳天皇も治世が長めであり、すぐに二人目の女王が擁立されたという倭人伝の記述にも合わない。

 

熊襲の女酋説

本居宣長、鶴峰戊申らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は、卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である。

 

本居宣長は、邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称する、もう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。

 

また、宣長は『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額姫児気長足姫(カヅラキタカヌカヒメコオキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している。

 

那珂通世も、卑弥呼は鹿児島県姫木にいた熊襲の女酋であり、朝廷や神功皇后とは無関係とする。神功皇后の実在を前提とした上で、その名を騙ったのだから、卑弥呼に該当する熊襲の女酋は当然、神功皇后の同時代人として想定されている。

 

女酋・豪族説

橋本増吉や津田左右吉は一女酋だとし、森浩一、岩下徳蔵は豪族だとし、山村正夫は女酋巫女、村山健治は教祖族長だとする。これらの諸説は、とくに熊襲だとは限定していない。

 

問題点

宣長は、日本は古来から独立を保った国という考えに立っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し倭王に封じられたという記述は、到底受け入れられるものではなかった。

 

当時の中国は高度文明を持ち大国同士で真剣に戦っており、卑弥呼の朝貢も呉に対する高度な外交戦の一環であり、また治めがたい韓族への抑止力も期待されていた。そのような情況にある魏は、朝貢国に対し当然に綿密な情報収集と調査を怠らなかったはずであり、弱小な辺陬の酋長が騙しきる等は不可能と思われる。

 

応神天皇と物部氏の一族説

安藤輝国は、その著『邪馬台国と豊王国』の中で卑弥呼は応神天皇の一族であると唱えた。また、鳥越憲三郎は、その著『古事記は偽書か』の中で物部氏の一族であると唱えた。この両説の、両方の条件に該当する者を系譜から探すと

 

八田若郎女(やたのわかいらつめ)

女鳥王(めとりのみこ)

宇遲之若郎女(うぢのわかいらつめ)

3人の候補が見つかる。

 

この3人は、応神天皇の皇女である。また3人の生母は記紀では和邇氏の娘ということになっているが『先代旧事本紀』によると物部氏の娘となっている。

出典 Wikipedia

2021/04/20

韓非子(2)

歴史思想

韓非の歴史思想については「五蠹」編に述べられているところに依拠して説明する。

 

古の時代は今とは異なって未開な状態であり、古の聖人の事跡も当時としては素晴らしかったが、今日から見ると大したことはない。したがって、それが今の世の中の政治に、そのまま適用できると考えている者(具体的には儒者を指す)は、本質を見誤っている。時代は必然的に変遷するのであり、それに合わせて政治も変わるのである。

 

ここには、過去から未来へと変化するという直線的な歴史観、さらに古より当今のほうが複雑な社会構成をしているという認識、進歩史的な歴史観を見ることができる。この思想は、荀子の「後王」思想を継承しているもので、古の「先王」の時代と「後王」の時代は異なるものであるから、政治も異なるべきという考えを述べているものを踏襲していると見られる。

 

重農主義

韓非は「五蠹」編において、商工業者を非難している。韓非によれば、農業を保護し商工業者や放浪者は身分的に抑圧すべきである。ところが、韓非の時代においては金で官職が買え、商工業者が金銭によって身分上昇が可能であり、収入も農業より多いので、農民が圧迫されているために国の乱れとなっているという。

 

「勢」の思想

韓非思想にとって「」、「」と並ぶ中心概念が「」である。「勢」の発想自体は、慎子の思想の影響を受けている。ここでは「難勢」編に依拠して説明する。

 

」とは単なる自然の移り変わり、つまり趨勢のことではなく、人為的に形成される権勢のことであるという。韓非は権勢が政治において重要性を持つと主張し、反対論者を批判する。

 

反対論者は

「賢者の『勢』も桀紂のような暴君も『勢』を持っているという点で共通であるから、もし『勢』が政治において重要性を持つのならば、なぜ賢者の時にはよく治まり、桀紂の時にはよく治まらないのか」

と言うが、賢者の「」は自然の意味で権勢ではなく、このような論理は問題にならないという。

 

賢者の治政が優れているのはなるほど道理だが、もし賢愚の区別だけが政治的に意味があるなら、賢人などというのは千代の間に一人いるかいないかであるから、これを待っているだけでは政治がうまくいくとは思われないという。法によって定まった権勢に従えば、政治は賢人の治政ほどではないだろうが、暴君の乱政に備えることはできると説いている。

 

」とは、このような人為的な権勢であり、それは法的に根拠付けられた君主の地位である。これは上下の秩序を生み出す淵源である。もし君主の権勢より臣下の権勢の方が優れていれば、他の臣下は権勢ある臣下を第一に考えるようになり、君主を軽んじるようになって政治の乱れが生じる。したがって韓非の理想とする法秩序において、君主は権勢を手放してはならない。

出典 Wikipedia

 

出典https://www.taikutsu-breaking.com/

人を信ずれば人に制せらる

韓非子といえば、上にある有名な文言に代表されるように、徹底した人間不信の立場に立ち、その上で理想的な法律や統治について説いた書物であり、それゆえに「非情の書」とも呼ばれています。

 

秦の始皇帝は、この書を高く評価して厳しい法律による国家運営を実現し、蜀の軍師諸葛亮孔明は、この書を筆写して劉備の子劉禅に送ろうとしたとも言われています。また、韓非の打ち立てた法家思想は漢、唐、明と時代を下っても国家運営の要として生き続け、現代においても人材管理や企業運営などの場面で、その考えが引用されることも少なくありません。

 

一体なぜ、韓非子は永きにわたって、その影響力を保ち続けてこられたのか。今回は時代背景や儒家思想との比較も含めて、その謎に迫ってみたいと思います。

 

まず初めに、韓非の生きた時代背景について見ていきましょう。韓非が生きていたのは、晋が3つの国家に分裂し多くの国家が覇権を競って争った群雄割拠の戦乱の時代であり、同時に諸子百家と呼ばれる識者たちが活躍した時代でもあります。当時は孔子や孟子を代表とする儒家思想が全盛を極めており、国家運営の面でも盛んに儒教思想が取り入れられていました。

 

儒教思想の功罪

儒教思想と言えば、仁義礼智信を重んじる理想主義的な性善的思想であり、中でも孟子による次の一節が、その本質を良く表しています。

 

人皆有不忍人之心。

(人皆人に忍びざるの心有り。)

人にはみな、生まれ持った善意があるという考えで、これを象徴した「井戸のそばの幼児」という譬え話も有名ですね。

 

「幼児が深い井戸の側を歩いていて、その中に落っこちそうになるのを見れば、誰もが手を伸ばして助けようとする。これは、幼児の親に恩を売ろうとか、他人に褒めてもらいたいとかではなく、純粋に善意から出た行いである。人には無償の善意というものがあるのだ」

 

また、儒教思想は親子の関係についても同様に非常に重視しており、この考え方を政治にも適用して、為政者を父、国民を子に当てはめて、その統治の正当性を強める目的にも利用されてきました。江戸時代の日本も、儒教思想を利用して

幕府の権威の安定化を図っていました。

 

儒教思想の理念は、一見して人に優しく理想的な思想に思えますが、血縁関係の過剰な重視(=汚職の蔓延)や、儒教以外の思想を排斥する専制的な傾向から、時代を経るにつれ現実とのギャップが段々と大きくなっていました。

 

そんな儒教思想に対し、待ったをかけたのが韓非子の師である荀子です。

 

荀子の性悪説

荀子は孟子の唱える性善説を、次のように容赦なく批判しました。

 

孟子は人の性は善だと言うが、わたしに言わせれば、それは間違っている。古今、いずれの世界でも、いわゆる善というのは道理に適い秩序だっている状態、悪というのは偏頗(へんぱ)で筋の通らない乱脈をいう。これが善と悪の区別である。

 

人間の本性は悪である。だからこそ、その昔聖人は、人は性悪ゆえに偏頗であり不正を起こし、乱脈であり無秩序となると危惧し、それに対応するために君主の威勢を打ち立てて政治を行わせ、礼儀を明らかにして教化を行い、法律を作って統治し、刑罰を重くして犯罪を防ぎ、世界中に安寧秩序を齎し、善と合致させたのである。

 

荀子にとっては、人の本性は悪であり、人がルールを守り善行をおこなえるのは、産まれた後に学習を行ったからだと説きます。人の本性は善か悪か。これは古今東西問わず、長い間考え続けられてきたテーマであり、現代においても明確な答えは出ていません。

 

荀子以降、様々な思想家が登場し、このテーマについてあれこれ議論を重ねますが、当然説得力ある結論は出ず、不毛な議論が続きます。

 

そんな中、ついに韓非が登場し、荀子の思想を継承、発展させ国家運営の強力な武器に昇華させたのです。

2021/04/12

倭迹迹日百襲媛命説 ~ 卑弥呼(5)

能登比咩説

能登比咩神社の主祭神、能登比咩(のとひめ)を卑弥呼とする説。能登比咩は社伝によると大己貴命、少彦名命と同時期の神である。能坂利雄がその著『北陸古代王朝の謎』で唱えた説。

 

宇那比姫説

『海部氏勘注系図』、『先代旧事本紀』尾張氏系譜に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人物は別名を大倭姫(おおやまとひめ)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海孁姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)ともある。

 

この日女命を卑弥呼と音訳したとする。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする。両系図の伝承を重んずる限り、宇那比姫はほぼ孝安天皇と同世代の人であり、孝安天皇は天足彦国押人命の実弟で、宇那比媛と孝安天皇は義理の姉弟という関係である。このことから魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼の男弟」を孝安天皇のことだと解釈することもできる。

 

問題点

この説は名前や系譜の類似から出た憶測に過ぎず、日女命という名前も「太陽の女子」、「霊力のある女子」といった古代人の女性を表すもので、この人物だけを指す固有名詞ではない。また『海部氏勘注系図』自体に対する疑問もある。

 

また和邇系図では、和邇氏の祖天足彦国押人命の子である押媛命と和爾日子押人命の母をこの宇那比媛命としており、宇那比媛命には配偶者がいたことになる。

 

倭迹迹日百襲媛命説

孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。

 

『日本書紀』により、倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により、古墳時代が開始されたとする向きが多い。

 

この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。

 

『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作(日中は人がつくり、夜は神がつくった)」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。

 

また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。もっとも、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇の親戚にあたるが、姉ではない。そこで、『魏志倭人伝』は崇神天皇と百襲媛命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。

 

さらに魏志倭人伝の「卑彌呼以て死す。(中略)徇葬する者、奴婢百余人。」と、日本書紀の「百襲」という表記の間になんらかの関連性を指摘する向きもある。

 

従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている。

 

日本書紀によれば、倭迹迹日百襲媛命が亡くなった後、崇神天皇は群臣に

「今は反いていた者たちは、ことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが、騒ぎを止めない。四道の将軍たちは、今すぐ出発せよ」

という詔を発し、四道将軍に各地方の敵を平定させており、国中に争いが起きたことは卑弥呼の死後に起こったという戦乱を思わせる。記紀は律令国家時代の編纂なので、初期の天皇も中華式の王朝として描き、天皇より上の権威を認めなかったが、上述のように箸墓古墳を倭迹迹日百襲媛命の墓だと仮定したら、崇神天皇陵より巨大であって、当時は天皇よりも権威をもっていた可能性が高い。

 

現在では畿内説論者でも、卑弥呼を具体的に記紀の登場人物にあてはめようとする説は多くないが、記紀の登場人物にあてはめる場合には、倭迹迹日百襲媛命とされることがもっとも多い。

 

文献的に、この説の有利な点は、『古事記』の崩年干支から崇神天皇崩御の戊寅年については258年とみる説が少なくなく、この場合、卑弥呼は記紀でいう崇神天皇と同時代となるということが挙げられる。

 

問題点

卑弥呼の塚の径百余歩とは魏時代の尺度(短里)では30メートル程度であるとされ、もしこれが正しければ箸墓古墳のサイズにあわない。また長里で計算しても記述と一致せず、これだけ巨大な前方部を無視し、後円部だけの大きさを無視したことは不審である。

 

箸墓古墳の年代論には疑問も多く、推定年代を100150年以上繰り上げしている可能性も指摘されている。また宝賀寿男は、史書と規模や形状が一致しないこと、当時魏の属国であった倭国が、果たして魏皇帝の陵墓よりも巨大な陵墓を造営できたかという疑問、殉葬の跡が見られないこと、周辺から出土した遺物が推定年代よりも後世のものであること、卑弥呼死亡後の内乱時において巨大な墳丘を伴う陵墓を造営する余裕は考えられないことなどから、箸墓を卑弥呼の墓とするには疑問があるとし、規模や形状のほか、墳丘裾部にある集団墓群を殉葬墓ではないかとして、福岡県久留米市の祇園山古墳に比定する説を唱えている。

 

倭迹迹日百襲媛命が皇族の一人ではあっても「女王」と呼べるほどの地位と権威を有していたとは考えにくい。安本美典の批判するところによれば、「「魏志倭人伝」には、卑弥呼が亡くなって国中に争いが起きたと記述があるが、「日本書紀」等我が国の文献では、百襲媛命は天皇の親戚の巫女に過ぎず、亡くなって国中に争いが起きるほどの重要人物だとはとうてい考えられず、両者を同一人物とするには矛盾がある」となる。

 

崇神天皇の陵墓が、行燈山古墳または西殿塚古墳の可能性が高く、両古墳とも考古学的に4世紀前後であることから、崇神天皇は古事記の崩年干支戊寅から318年没で4世紀初頭の人物である可能性が高くなり、その場合には崇神治世まで生きた倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼である可能性はなくなる。

 

熊襲梟帥の先代説

後述の熊襲の女酋説のバリエーション。古田史学の会員の日野智貴は熊襲梟帥(くまそたける)を卑弥呼と壱与の間の「男王」であると主張している。熊襲梟帥が景行天皇の時代だとすると「男王」は在位期間が短かったので、卑弥呼は早くても垂仁天皇、遅くても景行天皇の頃となる。

 

倭姫命説

戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南は、垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。この説の支持者には橘良平、坂田隆などがいるが、倭迹迹日百襲媛命説と比べると支持者は極めて少ない。垂仁天皇の皇女なので、世代的には景行天皇の時代の人物ということになる。
出典 Wikipedia

2021/04/10

韓非子(1)

韓非(かん ぴ、拼音:Hán Fēi、紀元前280? - 紀元前233年)は、戦国時代の思想家。『韓非子』の著者。法家の代表的人物。韓非子とも呼ばれる。元来は単に韓子と呼ばれていたが、唐代の詩人韓愈を韓子と呼ぶようになると韓非子と呼ぶことが一般化した。

 

韓非の生涯は司馬遷の『史記』「老子韓非子列伝第三」および「李斯伝」などによって伝えられているが、非常に簡略に記されているに過ぎない。

 

『史記』によれば、出自は韓の公子であり、後に秦の宰相となった李斯とともに荀子に学んだとされ、これが通説となっている。なお、『韓非子』において荀子への言及が極めて少ないこと、一方の『荀子』においても韓非への言及が見られないことから、貝塚茂樹は韓非を荀子の弟子とする『史記』の記述の事実性を疑う見解を示しているが、いずれにしろ、その著作である『韓非子』にも『戦国策』にも生涯に関する記述がほとんどないため、詳しいことはわからない。

 

韓非は生まれつき重度の吃音であり、幼少時代は王安や横陽君成も含む異母兄弟から「吃非」と呼ばれて見下され続けていたが、非常に文才に長け、書を認める事で自分の考えを説明するようになった。この事が、後の『韓非子』の作成に繋がったものと思われる。

 

荀子の元を去った後、故郷の韓に帰り韓王にしばしば建言するも容れられず、鬱々として過ごさねばならなかったようだ。度々の建言は韓が非常な弱小国であったことに起因する。

 

戦国時代末期になると春秋時代の群小の国は淘汰され、七国が生き残る状態となり「戦国七雄」と呼ばれたが、その中でも秦が最も強大であった。特に紀元前260年の長平の戦い以降、その傾向は決定的になっており、チャイナ統一は時間の問題であった。

 

韓非の生国韓は、この秦の隣国であり、かつ「戦国七雄」中、最弱の国であった。「さらに韓は秦に入朝して秦に貢物や労役を献上することは、郡県と全く変わらない(“且夫韓入貢職、与郡県無異也”)」といった状況であった。

 

故郷が秦に併呑されそうな勢いでありながら、用いられない我が身を嘆き、自らの思想を形にして残そうとしたのが、現在『韓非子』といわれる著作である。

 

韓非の生涯で転機となったのは、隣国秦への使者となったことであった。秦で、属国でありながら面従腹背常ならぬ、韓を郡県化すべしという議論が李斯の上奏によって起こり、韓非はその弁明のために韓から派遣されたのである。

 

以前に韓非の文章(おそらく「五蠹」編と「孤憤」編)を読んで敬服するところのあった秦王は、この時、韓非を登用しようと考えたが、李斯は韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れて王に讒言した。このため韓非は牢に繋がれ、獄中、李斯が毒薬を届けて自殺を促し、韓非はこれに従ったという。

 

この背景には当時、既に最強国となっていた秦の動向を探るための各国密偵の暗躍、外国人の立身出世に対する秦国民の反感など、秦国内で外国人に対する警戒心、排斥心が高まり「逐客令(外国人追放令)」が発令されたため、韓非は「外国人の大物」としてスケープゴートにされたという経緯がある。

 

以上が『史記』の伝えるところである。他方、韓非が姚賈という秦の重臣への讒言をしたために誅殺されたという異聞もある。韓非は優れた才能があり、後世に残る著作を記したが、そのために同門の李斯の妬みを買い、事実無根の汚名を着せられ自殺に追い込まれた。

 

司馬遷は『史記』の韓非子伝を「説難篇を著して、君主に説くのがいかに難しいかをいいながら、自分自身は秦王に説きに行って、その難しさから脱却できなかったのを悲しむ」と、結んでいる。

 

韓非の思想は、著作の『韓非子』によって知られる。金谷治によれば、韓非の著作として確実と考えられるのはまず『史記』に言及されている「五蠹」編と「孤憤」編で、さらに「説難」編・「顕学」編である。その中心思想は政治思想で、法実証主義の傾向が見られる。

 

荀子の影響

韓非が、明らかに荀子に影響を受けていると思われるのが、功利的な人間観、「後王」思想、迷信の排撃などであり、荀子の隠括も好んで使う。ただし韓非の思想への荀子の影響については、諸家において見解がやや分かれる。貝塚茂樹は韓非と荀子の間に思想的な繋がりは認められなくはないが、商鞅や申不害らからの継承面の方が大きく、荀子の影響が軸となっているとの見解ではない。金谷治も荀子の弟子という通説を否定はしないが、あまり重視せず、やはり先行する法術思想からの継承面を重視する。

 

それに対し、内山俊彦は荀子の性悪説や天人の分「後王」思想を韓非が受け継いでおり、韓非思想で決定的役割をもっているといい、その思想上の繋がりは明らかだとしている。したがって内山は荀子の弟子であるという説を積極的に支持している。

 

なお「後王」とは「先王」に対応する言葉で、ここでは内山俊彦の解釈に従って「後世の王」という意味であるとする。一般に儒教は周の政治を理想とするから「先王」の道を重んじ、自然と復古主義的な思想傾向になる。これに対し、荀子は「後王」すなわち後世の王も「先王」の政治を継承し尊重すべきであるが、時代の変化とともに政治の形態も変わるということを論じて、ただ「先王」の道を実践するのではなく「後王」には後世にふさわしい政治行動があるという考え方である。

 

功利的な人間観

韓非の人間観は、原理上は孔子と共通の観点を取っているが、厳密には荀子の性悪説に近い。人が少なかった頃は闘争はなかったという一種の自然状態仮説を提示し、外的環境と物的状況の変化が人間性に影響を与えるという議論を展開する。

 

韓非によれば、物資が多くて人が少なければ人々は平和的で、逆に物資が少なくて人が多いと闘争的になる。韓非が生きた時代のような、人が増えた闘争的な社会では、平和的な環境にあった法や罰は意味が無く、時代に合わせて法も罰も変えなければいけない。ただ罰の軽重だけを見て、罰が少なければ慈愛であるといい、罰が厳しければ残酷だという人がいるが、罰は世間の動向に合わせるものであるから、この批判は当たらないという。

 

実証主義

儒家と墨家の思想が、客観的に真実であるかどうか検証不可能であることを指摘して、政治の基準にはならないと批判している。法律とその適用を厳格にしさえすれば、客観的に政治は安定する。儒家の言葉はあやふやで、その真理として掲げている「」や「」といった道徳的に優れた行為や言葉は誰でも取りうるものではなく、知りうるものでもないという。よって、このような道徳性を臣下に期待するのは的はずれで、君主は法を定め、それに基づいて賞罰を厳正に行えば、臣下はひとりでに君主のために精一杯働くようになるという。

 

政治の基準は万人に明らかであるべきで、それは制定法という形で君主により定められるべきものである。また法の運用・適用に関する一切は君主が取り仕切り、これを臣下に任せてはならない。

出典 Wikipedia

2021/04/08

イサクの燔祭(1)(ヘブライ神話12)

イサクの燔祭(イサクのはんさい)とは、旧約聖書の『創世記』221節から19節にかけて記述されているアブラハムの逸話を指す概念であり、彼の前に立ちはだかった試練の物語である。その試練とは、不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを生贄に捧げるよう、彼が信じる神によって命じられるというものであった。この試練を乗り越えたことにより、アブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにイスラム教徒によって讃えられている。

 

『創世記』での記述

経緯

それはアブラハムが、ゲラルの王アビメレクと契約を交わした後のことであった。奇跡の業によって生まれた息子、何にも増して愛している一人息子のイサクを生贄として捧げよと神が直々に命じたのである。その命令の直後にアブラハムがとった行動は、以下のように記されている。

 

次の朝早く、アブラハムはロバに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

 

『創世記』 22:3、新共同訳

神が命じたモリヤの山を上るさなか、父子の間では燔祭についての短い会話が交わされている。イサクは献げ物の子羊がないことに戸惑うのだが、アブラハムは多くを語らなかった。

 

「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」

 

228

この時点で、イサクはすでに自分が燔祭の子羊として捧げられることを認識していたと思われる。しかし、彼は無抵抗のまま父に縛られ、祭壇の上に載せられるのであった。

 

この間の両者の心理状態については、具体的には何も描写されていない。「わたしのお父さん」と呼びかけるイサクの言葉と「わたしの子よ」と応えるアブラハムの言葉からそれを推し量ることは可能なのだが、それがかえって物語の悲劇性を際立たせているといえよう。

 

結末

神の命令は「あなたの子孫は、イサクによって伝えられる」という2112節の約束と明らかに矛盾していた。にもかかわらず、アブラハムは殆ど盲目的に神の言葉に従ったのである。実際には、イサクの上に刃物を振り上げた瞬間、天から神の御使いが現れてその行為を止めた。アブラハムが周囲を見回したところ、茂みに角を絡ませた雄羊がいたので、彼はそれをイサクの代わりに神に捧げた。

 

動機

神が燔祭を命じた動機については、伝統的に三つの解釈が支持されている。

 

アブラハムの信仰心を試すため。またそれは、このような事態に陥っても動じなかった彼の偉大な精神を公にするためでもあった。

 

燔祭の場所として指示されたモリヤの山が、神聖な地であることを示すため。ユダヤ教の伝承によれば、この出来事は現在、神殿の丘と呼ばれている場所で起きたとされている。

イスラエル民族から、人身御供の習慣を絶つため。この習慣はカナン地方では、モレク崇拝やバアル崇拝などで一般的に行われていたという。

 

イサクの年齢

当時のイサクの年齢については、様々な議論が喚起されている。彼の容貌に関する『創世記』における記述は225節のアブラハムの言葉 "הנער"(この若者)しか確認できない。

 

ハザル、及び一部の注釈家は、当時のイサクの年齢は37歳であったと述べている。つまり、この出来事はサラが死ぬ直前に起きたというのである。

イサクの年齢を5歳と見積もる説があるのだが、祭壇にくべる薪を彼に背負わせる記述があるので、その可能性を考えれば説得力を欠いているといえよう。

 

アブラハム・イブン・エズラは上記の説に反論するに及んで、13歳とする自説を紹介している。これはバル・ミツヴァの年齢であり、イシュマエルが割礼を受けた年齢でもある。

ハザルと同様、イサクがすでに成人であったとする別の説では、神の命令はアブラハムに対してだけでなく、イサクに対しても試練として立ちはだかったとしている。

 

後代への影響

ユダヤ教

ハザルによれば、『エレミヤ書』の731節に記されているモレク神の人身御供を非難する神の言葉との兼ね合いを考えれば、アブラハムに対する命令は神によるものではなく、また神の意思が反映されたものでもないとしている。

 

ラシはこの見解を発展させ、神の命令は人身御供を指示していたのではなく、イサクを聖別する儀式の執行を指示していたのであり、実際、アブラハムはイサクを祭壇に乗せて神に捧げた後、命令に従って彼をそこから下ろしたと述べている。

 

ミドラーシュ・アガダーでは、アブラハムはその生涯においてサタンによる手の込んだ様々な介入を受けながらも不屈の意思で跳ね除けてきたとし、アブラハムをモリヤの山に差し向けたのも、実はサタンの誘惑であったと述べている。さらには、その誘惑さえもが失敗したのを見届けると、サタンはサラのもとに赴き、アブラハムがイサクを屠ったと言って彼女を誑かしたと続ける。すなわち、そのショックが祟ってサラは死んだと結論付けているのである。 別のアガダーでは、モリヤの山に到着すると、イサクは屠殺される際に暴れて父を傷つけないよう、自ら縛られることを願い出たとしている。

 

『ゾハル』では、『創世記』26章の逸話について、イサクは穢れなき生贄として選ばれたことにより、たとえ飢饉の時であってもカナン地方から出ることを許されなくなったと論じている。

 出典 Wikipedia

2021/04/02

天照大神説 ~ 卑弥呼(4)

人物比定

卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証もなく、別の王朝だった可能性もある。また一方、北史(隋書)における「倭國」についての記述で、“居(都)於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也”「都は邪靡堆にあるが、魏志に則れば、いわゆる邪馬臺者である。」とあり、基本的には連続性のあるヤマト王権の誰かであるだろうとして『日本書紀』の編纂時から推定がなされている。

 

卑弥呼の死去年は、中国史料から西暦247年頃と推定されているので、卑弥呼の倭国統治時期は3世紀前半であった。この時期は、近畿のヤマト王権では崇神天皇の12代前の王者が統治していた。

 

天照大神説

中華の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはずで、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる。卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神の説もある。しかし『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している(実際は誤り)。

 

また百済の王は古尓王(234 - 286)、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分は、ほぼ日本書紀の記述どおりである。また卑弥呼が魏の国に対して軍の派遣を要請した行為は国家反逆罪に問われるものであり、そのために日本書紀では詳細が記述されなかったと考える説も存在する。

 

アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。

 

卑弥呼の没したとされる近辺に、247324日と24895日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが、北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては、近年異論も提出されている。

 

安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方、スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。

 

ただし、安本の計算する平均在位年数は生物学的に無理があるほど短く、計算にあたって引用した数値の選択にも疑問があり、また多くの古代氏族に伝わる系図の世代数を無視したものとの指摘がある。

 

魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)は、アマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後、男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは、後のヤマト王権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみに、ヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。

 

安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが『記紀』の神武東征であるとしている。

 

また、卑弥呼と天照大御神の登場の境遇が類似しているという説もある。卑弥呼は倭国大乱という激しい争いの後、共立されて女王となったが、一方で、天照大御神も国産みをしたイザナギ・イザナミの激しい争いの後、イザナギの「禊払え」により、高天原の支配者として登場する。

 

日本書記の一説では、イザナギ・イザナミの協力によって日の神「大日孁貴」が誕生している。 魏志では、邪馬台国の支配地域は、『女王國以北』・『周旋可五千餘里』と記述されており、短里説で換算した場合、概ね、九州北部地域が支配地域と考えられる。そのため、「熊襲・出雲国」は支配地域外と考えられ、卑弥呼の時代背景としては天岩戸以前の時代背景となり、卑弥呼は天照大御神と人間関係が類似する(弟がおり、嫁がず)。新唐書や宋史においても、天照大御神は筑紫城(九州)に居ると記述されている。

 

問題点

現代の神話学によると、天岩戸神話は中国西南部の少数民族や東南アジアの日食神話(太陽と月と悪い弟が3兄弟だとする)と同系のバリエーションである。この説には、以下のような難点がある。

 

第一に、天照大神の神話を歴史とみる以上、天照大神と大和朝廷をつなぐ神話をも歴史とみざるをえなくなるため、神武東征伝承を邪馬台国の九州から大和への東遷を伝えたものだとする論者が必然的に多くなる。しかし九州にあった邪馬台国が東遷して畿内に到着したとは限定できず、また国家規模での東遷が果たして可能であったのか、何故東遷する必要があったのかという疑問もある。加えて『記紀』の系譜を信じる限り、一世代を2530年として計算すると神武天皇は卑弥呼よりも遥かに古代の人物となり、系譜として繋がらない。

 

第二に「皇祖神たる太陽女神」なる観念そのものが、さして古いとはいえない説があり、事実、『隋書』にあり『日本書紀』に記述がない第一回目の遣隋使(名前の記述なし)の記事には、倭国の倭王が天を(倭王の)兄、日を(倭王)の弟としており(「俀王以天爲兄 以日爲弟」)、倭王は日の出前に政治をして日の出になると「弟に委ねる」として退出していたとあり、もしこれが事実なら、太陽神を天皇の祖先とする記紀の伝承とまったく噛み合わないことになる。天照大神という神格は、天武天皇の時代に始まるとする説もある。

 

第三に、天照大神は本来は男性の神とする説が鎌倉時代からあり、近代になっても複数の神話学者や歴史学者らが男神説を唱えた。また、「ヒルメ」を「日の女」であるから巫女である、とする説は他に「〜ノメ」を巫女とする用例がなく、根拠に乏しい(津田左右吉によれば、ヒルメのメはツキヨミの「ミ」やワタツミの「ミ」と同じく神霊をあらわす言葉であって、女性の意味ではない。ミヅハノメやイワツツノメなどは巫女とされた例もない)。「大日孁貴」の孁字が説文解字において巫女、妻の意があるとする説は、説文解字に「女字也」とのみあることから、これも誤りである。

 出典 Wikipedia