2016/04/29

建御雷之男神『古事記傳』

建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)御雷(みかづち)を書紀では甕槌(みかづち)と書いてある。どちらも借字で、「みか」は「いか」に通う。「いか」は「厳矛」【舒明紀に「いかしほこ」と読む、とある。】

「重日」【皇極紀に「いかしび」と読む、とある。】「伊賀志御世(いかしみよ)」【祝詞】、また「いかめし(厳めしい)」、「いかし(厳し)」など【源氏物語葵の巻に「たけくいかきひたぶる心いできて」、また手習の巻に「いかきさまを人に見せむとおもひて」などがある。】の「いか」である。それが「みか」とも通じるというのは、遷却祟神(たたりガミをウツシやる)の祝詞にこの神を「建雷(たけいかづち)の命」と言っているのが一例である。【「みかづち」は「いかづち」と通う例である。】

また「厳(いか)」が「みか」と通じる例としては、書紀の仁徳の巻の歌に「瀰箇始報、破利摩波揶摩智(みかしお、ハリマはやまち)云々」とあるが、この「みかしお」は「速待(はやまち)」の枕詞であって「厳めしい潮の速い」、と意味が連結するのである。【これを「三日潮」とする説があるが、それは間違っている。】

書紀に出る「甕星(みかほし)」も「厳星」の意で【天津甕星は悪神で、天孫降臨の障害となったので、最初に殺されたということから、厳めしい神であったと分かる。】「甕栗(みかくり)」も「厳栗(いかくり)」である。この甕速日以外も、神名や人名に「甕」と言う場合はみな「厳」の意味と考えるべきである。「つち」は既に野椎命のところで述べた。【「雷」の字の意味にとらわれて考えると、思い違いをしてしまう。】

建布津神(たけふつのかみ)、豊布津神(とよふつのかみ)布津(ふつ)については、白檮の宮(神武天皇)の段【伝十八の五十一葉】で述べる。延喜式神名帳には、阿波国阿波郡に建布津神社が掲載されている。

○このくだりは、書紀に異伝がある。一書に「剣の刃から滴った血が天安河辺(あめのやすかわら)の五百箇(いおつ)の石の群になり、これが經津主(ふつぬし)神の先祖である」、また「その甕速日神は武甕槌(たけみかづち)神の先祖である」、また一書には「磐裂神、次に根裂神、その子磐筒男神、磐筒女神、その子經津主神」【神代下巻の本文にも「磐筒男神と磐筒女神が生んだ子、経津主神」】ともあり、下巻【神代】の本文にも甕速日神の子「熯速日(ひはやび)神」、その子武甕槌神、と書いてある。これらの伝承は、大体のところは似ているが、経津主と武甕槌を別神とした点で大きく異なる内容である。後の段で、高天の原からこの御国に天孫を言向け降ろす際にも、書紀では経津主と武甕槌を二柱として書く。【遷却祟神の祝詞も書紀と同じ。】

古事記には、そのところでも建御雷一柱だけで、その他に経津主という神は登場しない。それは、ここで建御雷のまたの名を建布津、豊布津とも言っており、その経津主は建御雷そのものだからである。さらにその証拠を挙げるなら、その【書紀の】神武の巻、高倉下(たかくらじ)の夢のくだりで、天照大神が武甕槌神に神武を援助しに行くよう命じたところ、武甕槌神は「私の剣は韴霊(ふつのみたま)という」云々とある。もし書紀神代巻の通り、武甕槌と経津主が別の神だったら、夢には二柱の神が見えていたはずなのに、そういうわけでもない。また、この剣の名を韴霊(ふつのみたま)と言うからには、経津主の神の剣ということで、その神こそ夢に現れるはずが、そうでなく武甕雷が「わが剣」と言って授けたというのは、武甕雷がすなわち経津主だったということではないのか。【ということは、書紀は神代巻と神武の巻とで言っていることが合わないわけだ。神武の巻の話は、この記と合致する。経津主という名前は、この刀から出た。旧事紀は、この剣の名を「布津主神の魂の刀」と書く。旧事紀は信ずるに足りない書物だが、この名については、他によりどころがあるなら採用できる。】

また出雲国造の神賀詞(かむよごと)には「天夷鳥命爾布都怒志命乎副天、天降遣天(あめヒナトリのミコトにフツヌシのミコトをそえて、アメクダシつかわして)」とあって、建御雷の名が見えないのも、一つの神だからであろう。ところが古語拾遺では、これらの神を書紀と同じように別の神としてあり「經津主神は下総国の香取の神である」と言い「武甕雷神は常陸国の鹿嶋の神だ」と言う。【これは書紀に「斎主神(いわいぬしのかみ)、今在2乎東國楫取之地1也(いまアズマのクニかとりのトコロにイマス)」とあるのに依ったのだろう。ここでは斎主という神が経津主神なのか武甕雷神なのか書かれておらず、どちらとも取れるのに、このように定めたのは何か根拠があるのだろうか。続日本後紀五や、春日祭の祝詞などにも、鹿嶋を建御賀豆智(たけみかづち)神、香取を伊波比主(いわいぬし)神とだけ言って、経津主神が登場しない。もっとも、ここに経津主神が出て来ても、建御雷の別名とするのに支障はない。】

宝亀八年に、この二つの宮に神階を授けたが鹿嶋は正三位、香取は正四位上であった。これは、これらの神が本来一つの神だったが、鹿嶋はその全体を祭り【神号も建御雷と言い伝えて】位も高く、香取は別にその斎主という御魂を祭るので【神号も伊波比主命と言い伝えて】位がやや低いのであろう。これが別の神であったら、書紀の記載によると、まるで経津主神が将軍、建御雷が副将軍のように書かれているので、鹿嶋・香取二社の位の高低と一致しない。

2016/04/27

懐石料理と会席料理(農林水産庁Web)

元々、武士は大饗料理の催した貴族の従者で、その振舞として芋粥に預かったという話が、芥川龍之介の小説『芋粥』で、その原話は平安時代の『今昔物語集』に見える。つまり初期の武士は貴族のいわばボディガードであったが、やがて貴族の権力を凌駕し、平清盛の平氏政権や源頼朝の鎌倉幕府が成立をみて、武家が政治の表舞台へと躍り出ていくこととなる。これに呼応する形で、武家も独自の料理様式を模索したが、その完成にはかなり長い時間を要した。

 

鎌倉時代には、将軍によって垸飯という料理が振る舞われたが、これは貴族の大饗料理の一部を切り取ったに過ぎず、武家の文化は貴族の文化の後追いでしかなかった。なお鎌倉幕府は、初めは関東を中心とした地方政権とも見なすべきもので、南北朝期に後醍醐天皇が一時政権を奪取したが、基本的には南北朝を統一した室町幕府によって、武家が実質的な全国の支配者になったと考えて良い。まさに武家の料理文化も、この室町時代に新たな様式としての本膳料理が登場をみることになる。

 

この本膳料理は、大饗料理の儀式的要素と精進料理の技術的要素とが組み合わされたもので、ここに本格的な料理様式が成立をみた。しかも膳を用いて、七五三という奇数の膳組を基本とするところから、極めて日本的な要素が高いとみなすことができる。すなわち中国では、大饗料理のように卓に料理が盛られて、その皿数は偶数であったが、本膳料理では銘々に膳が用いられ、奇数の料理を据えて箸のみが使われるようになった。膳は朝鮮半島・沖縄で使用されており、椅子を伴わない座居の文化を基礎とする地域に広まった。

 

本膳料理の構成は、酒を中心とした献部と食事を主とする膳部とからなり、膳には汁が伴っている点が注目される。そして儀礼的要素が強い式三献に始まり、初献・二献・三献と続いた献部のあと、七五三の膳という膳部に移り、与()献以後、一七献あるいは二一献という献部が再び続いて全てが終了する。こうした本膳料理が供される御成などの饗宴では、後半の献部ごとに能が演じられ、全体が終わるまでには夜を徹することになる。

 

室町時代以降の非常に盛大な饗宴には、こうした本膳料理が供されたが、これは大饗料理と同様に前々から作りおかれた。従って儀式料理としての性格が強く、膳や皿の一部には金銀での装飾も施され、華々しい雰囲気のなかで食事が楽しまれた。まさに新しい日本料理が出現したことになるが、奇数の膳形式に限らず、料理内容についても日本料理の原型が完成をみた。つまり本膳料理に伴う汁に象徴されるように、その出汁の基本にカツオと昆布が用いられている点に注目する必要がある。こうした出汁の完成は、三陸以北とくに北海道で取れる昆布を前提とするもので、非常に広域な商品の流通網が、この時期に成立していたことを示している。またカツオ節の登場も室町時代のことで、まさに今日の日本料理の基礎が、本膳料理によって確立したことになる。

 

こうした料理発展に伴い、その技術を伝承し磨きをかける料理の家が成立をみた。つまり武家料理流派の誕生で、旧来の公家系のそれを伝えた四条流に加えて、大草流・進士流・山内流など武家の料理流派の家々であった。そこでは故実や作法を含む料理技術が追求され、それを秘事口伝という形で伝えたが、その一部がそれぞれの流派内で料理書として残った。

 

先にも述べたように、本膳料理は儀式用であり作り置きが当然であったため、料理そのものは豪華でも冷めた状態で食べなければならなかった。これは真に美味しい料理を味わうというよりは、儀式の中で、それぞれの身分に応じた料理を食することに意味があった。すなわち本膳料理が供されるような儀式の場では、身分秩序が重要な要素を占め、振る舞われる料理数や座席の位置関係が大きく作用した。身分により料理内容が異なるのは大饗料理ではより著しく、それは自らの社会的位置関係を物語るものであった。

 

こうした堅苦しく延々と続く本膳料理ではなく、その一部の美味しい部分を自由に楽しもうとして発展をみたのが懐石料理である。従って懐石料理は本膳料理の一部を切り取ったようなものであったが、基本的には料理を楽しむということに力点が置かれている。さらに懐石料理は茶の湯の発達に伴うもので、茶会でお茶を最も美味しく楽しもうとする精神から生まれた点が重要であろう。とくに茶の湯は禅院の茶礼と関係が深く、精進料理の系譜にも繋がっており、味覚面のみならず精神面も重視された。

 

元々、茶会では闘茶、すなわち賭け茶が流行するとともに、茶そのものよりも酒が優先される場合も少なくなかった。そこに精神面を重んじた珠光や武野紹鴎らが出て、茶の湯の形が整えられていったが、戦国時代後期に千利休が、茶会の最後に行われる酒宴の場である後段を切り捨てることで完成をみた。一汁三菜程度の料理を基本としたが、茶の湯では一期一会という精神が強調されたことから、その場その場での出会いを大切にするという精神が、料理そのものの内容にも大きな影響を与えた。懐石料理で季節性を重んじて旬の素材に拘るのは、そうした理由からであった。

 

さらに、その茶会の一時を大切にするため、食器にも心を配り盛り付けにも気を使った。こうして季節感のみならず色鮮やかな料理や食器の配置、合理化された作法によるもてなしのほか、料理を味わう空間のしつらえにも最善を尽くした。もちろん暖かいものを暖かいうちに戴けるように、料理を出すタイミングにも充分な計算が施されている。こうして、世界的にも評価の高い懐石料理が生まれたのである。

 

なお懐石の語は、利休の時代には用語としては使われず、むしろ会席の方が一般的であった。ところが近世後期になると、後にみるように大都市には高級料理屋が出現し、そこで会席料理が供されるようになる。しかし、この会席料理は茶の湯とは無関係であった。より正確にいうなら、戦国時代に成立した懐石料理から茶の湯の要素を切り捨てたのが、近世の会席料理とみなしてよい。つまり数人が料理屋に出かけて注文し、会席という形で酒を飲み歓談しながら味わう料理が、会席料理であったということになる。

 

懐石の故事とは、禅の修行僧が温石を懐にして身体を暖め空腹を凌いだという逸話に由来するもので、茶事で供される軽い食事を懐石と称したことに因む。これは江戸も元禄期に入って広く読まれた『南方録』に見える語で、しかも利休が語ったことを記したとされる同書は、現在では偽書であったことが指摘されている。やや紛らわしい話ではあるが、戦国時代に生まれた茶の湯に伴う料理様式を「懐石料理」とし、近世後期に出現した料理屋で供されるものを「会席料理」と呼ぶこととしたい。

2016/04/23

面接(小説ストーカー・第二部part5)


 「失礼。
 申し訳ないですが、ちょっと急用が入ってしまいましてね・・・あまり話が出来ませんでしたが、もしよければうちとしては、是非来ていただきたいと思っています」
 
 「はあ・・・未経験ですが、よろしくお願いします」
 
 「まあ、経験者は滅多にいないですしね。  
 タコ焼きを焼くのに、特別な技術は必要ないですよ。
 要は、やる気さえあれば大丈夫・・・」
 
 というと、マネージャーは再度タバコを咥えて声を潜めた。
 
 「実はですね・・・ここは先月、開店したばかりでね・・・先週まで、ある人物に店長のような立場で任せていたんですがね・・・明るい人物で能力も高かったんだけど、これがとんだ食わせ物でしてね・・・」
 
 ここで言葉を切ると、思い出したようにマネージャーは苦々しく顔を顰め
 
 「売り上げはちょろまかすは、女の子にちょっかい出すわ、挙句には店の金をネコババしてトンズラこきやがってね。
 
 おまけに履歴書に書いてある番号電話から住所から、なにからなにまで全部デタラメでね、要は持ち逃げされちまった次第で・・・」
 
 「それは・・・なんとも、大変な災難でしたね・・・」
 
 「お蔭で、こっちは社長から、こっぴどく叱られました。
 そんなことがあったもので、こんな小さなチェーン店とはいえ、念のため身元の確認をさせていただくのですが、差し障りはないでしょうな?」
 
 「勿論、それは構いませんが・・・」
 
 「どうも最近の若いモンは、倫理観が薄いというか、なにをしでかすかわかりませんな・・・その点、アナタくらいの年輩なら間違いはないと思いますし、ずっと工場に勤めてこられたくらいだから、きっと真面目な方なのでしょうね」
 
 「はあ・・・真面目が取り柄です・・・」
 
 「実を言うと私も学校出た後、すぐにトヨタの工場に勤めておりましてね。
 5年ほど勤めていましたので、工場勤めの人の真面目さはよく知っていますし、転職理由もなんとなく想像できる気がします」
 
 相手の経歴も手伝ってか上手い具合に話が進み、その場でOKが出た。
 
 無論、こっちが勤めていたのはトヨタの工場などとは天地雲泥の差がある個人のクソ工場だったが、ここは折角だから相手の「勘違い」に乗じておこう

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 (こんなに、スムーズに話が運ぶとは)
 
 予想外に貧弱な店構えにはガッカリしたものの、これまでの全滅だった面接とは違い「即決」でのOKだ。
 
 正直、店を見た時こそ
 
 (もうちょっと、気の利いた店や仕事はねーもんか・・・)
 
 という色気をまだ捨てきれない部分はあったものの、マネージャーはよさそうな人物だし、なにより今の心境からして即決でOKしてくれたのが有難かった。
 
 それでなくとも、これまで数々の面接で散々に扱き下ろされたりバカにされて来続けて居ただけに、これ以上無駄な面接を繰り返す勇気も湧いて来なかった
 
 「じゃあ早速、来週から来て下さい」
 
 店のあるxx駅は、最寄駅からはいわゆる「下り線」で名古屋とは反対方向だから、通勤ルートはこれまでの反対である。
 
 (これで彼女にも、もう会えなくなるわけか・・・しかし、店の女の子は、案外かわいかったな・・・)
 
 せめて「冥途の土産」に、今週一杯でもストーカーを続けたい願望はあったが、ここ数か月の失職のため、薄給の中から爪に火をともすように貯めたなけなしの預金は使い果たし、いよいよサラ金に手を出す一歩手前の窮状だったから、無駄な出費は慎まなければならん。
 
 「今の人、来週から来てもらうことになったから」
 
 マネージャーが、フリーターの女店員に声を掛けた。
 
 「そーなんですか?」
 
 「この前のホリウチには、まったくトンデモナイ目に遭ったからな・・・社長からは、早く後釜を決めろと矢の催促をされてるし、オレも辛い立場なんだよ。
 まあ、無口だが実直で真面目そうだし、問題ないだろう。
 上手くやってくれないかな・・・」
 
 エリア内の幾つかの店舗の管理を任され多忙なマネージャーは、実のところ面接で人材を吟味しているだけのゆとりがない
 
 が、セクハラ&持ち逃げの前任者ホリウチの轍に懲りていただけに「若くて口が達者で調子ばかり良い」ホリウチとは全く対照的な「中年、無口、分別臭い」タコオヤジが、実際以上に実直そうな好ましい人物に映っていたのも無理はなかった。
 
 が、バイトの看板娘は、僅か一瞬の初対面の印象から
 
 (前のホリウチは、トンデモな悪いヤツだったとか。
 でもセクハラは別にすれば、面白くてけっこー良い兄ちゃんだったけどな。  
 さっきのオッサンは、なんかネクラでつまんなそーじゃん?)
 
 と「女の直感」で鋭く見抜いていた!

2016/04/14

京たこ(小説ストーカー・第二部part4)



 その後、職工以外の職を探して町を彷徨い、何度か面接に行ったものの、結果はどれもが捗々しくなかった。
 
 面接では、どれも30半ばという年齢と、資格やスキルがなにもないことがネックとなった。
 
 「あと10歳若ければねー」
 
 とか
 
 「その年でスキルがないと、なかなか厳しいねー」
 
 などと繰り返された。
 
 考えてみれば、こうして繰り返される指摘は、最初にあの職安のイヤミ職員に言われた内容に、見事に集約されていた
 
 中には、遠慮のない面接官も居て
 
 「せめて明るさがあればまだしも、イメージ暗いし・・・」
 
 とまで言われる始末だ。
 
 そうしたプー生活が1か月を過ぎると、家にいる時には両親からイヤミを言われ雰囲気は益々暗くなって、どこにも居場所がないような具合になっていた。
 
 あんな家は飛び出したいのはヤマヤマだが、なにせ金がないから独立などは夢のまた夢だ。
 
 このように、何ひとつ良いことのないオレにとって、今や彼女と同じ電車の車両に乗ることのみが唯一の楽しみとなり、そのため実際以上に益々彼女が魅力的に見えて来た
 
 そうした、ある日のことだ。
 
 最寄り駅から家路へと向かう道端で、京たこの店員募集のチラシを見たのは、全くの偶然だった。
 
 場所は、最寄駅から3つ目の大きな駅で駅前に
 
 「新装オープンxx店 店長候補募集」
 
 と書いてある。
 
 転職活動当初のオレなら「タコ焼き屋なんて・・・」と言いたいところだったが、ここまでの面接が全く話にならないような全滅ぶりだったから、現実を鑑みればこの際、贅沢は言ってられん。
 
 「京たこ」の名前は、なんとなく聞いたことがあったから「タコ焼き屋」といっても、それなりに大きな構えの店を予想していたし「新装オープン」だから、それなりに綺麗な店を想像していた。
 
 ところが面接に行った「京たこ」は、予想外に小さい貧弱な店構えであり、また「新装」とは思えないような薄汚れた物件だ。
 
 後で聞いた話では、つい数日前までタバコ屋だったらしい。
 
 店頭では、若くてかわいい女が、一心にたこ焼きを焼いている。
 
 「あのー」
 
 若い女店員は、たこ焼きを焼くために俯いていた目を上げた。
 
 「?」
 
 「求人広告を見たんですがね・・・」
 
 「あ・・・ちょっと、お待ちください」
 
 と、いかにも世慣れない調子で言い
 
 「マネージャー!」
 
 と呼ぶと、奥から30半ばくらいの男が出て来た。
 
 「応募の方ですか?」
 
 マネージャーと呼ばれたその男は、30半ばくらいでオレとほぼ同年輩のようだったが、いかにも如才がなさそうで愛想も良かった。
 
 奥(と言っても、店頭からは目と鼻の先で、衝立で外から見えなくしているだけ)の、薄汚れた狭い場所に通された。
 
 「汚くて狭いとこですが、こちらへどうぞ・・・」
 
 と、安っぽい丸椅子を引くと
 
 「えーっと・・・応募の方ですね。
 履歴書などは、お持ちですか」
 
 と言われ、用意してきた履歴書を差し出すと
 
 「ちょっと失礼・・・」
 
 と、タバコを取り出し火を点けたマネージャーは、煙に目を細めてしばらく履歴書を眺めていた。
 
 「ほー。
 ずーっと職工さんだったのですか・・・これまで店員などの経験は、ない?」
 
 「はあ・・・ずっと工場勤めだったので・・・」
 
 「なるほどね・・・そうすると、今度はなぜまた、うちに?」
 
 「実はですね・・・工場で、ちょっとしたミスをしてしまいまして・・・まあ、大したことではなかったですが、責任を取って辞めました・・・今まで工場勤め一筋だったけど、これを機になにか新しいことにもチャレンジしてみようかと・・・」
 
 「ふむ・・・新しいことにチャレンジするのは、良いことですね。
 ところで、工場での『ミス』というのは、差し障りなければ・・・」
 
 と、痛いところを突かれた。
 
 ところが、用意してきた説明をしようとしたところ、まことに絶妙のタイミングでマネージャーの携帯電話が鳴った。
 
 「はい・・・」
 
 (ちょっと失礼・・・)
 
 というように手を挙げたマネージャーは、向こうむきになって携帯で話し始めたが、話が長引きそうなのか、ほどなく店の外へと出て行く。
 
 電話は案外と長引いて、手持無沙汰に待っている間にも、ポツポツと客がたこ焼きを買いに来ているようだった。
 
 小さい店とはいえ、さすがに「駅前銀座商店街」の入り口という好立地だけに、駅から吐き出されてくる客が帰宅前に気軽に買いに求める需要は思った以上にあるらしく、大学生のような女店員はてんてこ舞の様子だ。
 
 10分ほど待たされた末、ようやくマネージャーが戻ってきた。