2023/06/26

聖徳太子(2)

略歴

敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母は、いずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母の兄妹婚によって生まれた子供とされている。

 

幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。

 

用明天皇元年(585年)、敏達天皇の死去を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と、排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。

 

用明天皇2年(587年)、用明天皇は死去した。皇位を巡って争いになり、馬子は豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。

 

これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。

 

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位に就けた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。推古天皇元年(593年)、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。皇室史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。

 

同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。

 

推古天皇5年(597年)、吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年)に新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。

 

推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。

 

推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に25千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。

 

この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。また、来目皇子の筑紫派遣後、聖徳太子を中心とする上宮王家及びそれに近い氏族(秦氏や膳氏など)が九州各地に部民を設置して事実上の支配下に置いていったとする説もあり、更に後世の大宰府の元になった筑紫大宰も、元々は上宮王家が任じられていたとする見方もある。書生を選び、来日した観勒に暦を学ばせる。

 

推古天皇11年(603年)125日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。

 

推古天皇12年(604年)43日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。

 

推古天皇13年(605年)、諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。

 

推古天皇15年(607年)、屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。

 

日本書紀によると、裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。

 

推古天皇20年(612年)、百済人の味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。

 

推古天皇21年(613年)、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。

 

推古天皇22年(614年)、犬上御田鍬らを隋へ派遣する(最後の遣隋使となる)。

 

厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに『法華義疏』(伝:推古天皇23年(615年))、『勝鬘経義疏』(伝:推古天皇19年(611年))、『維摩経義疏』(伝:推古天皇21年(613年))を著した。これらを「三経義疏」と総称する。

 

推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。

 

推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が221日に死去し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は死去した(『日本書紀』では、同2925日(621年))。享年49。『大安寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、このとき厩戸皇子が田村皇子に熊凝寺を譲っており、これは嫡流の交替を象徴するものであった。

2023/06/25

キリスト教の発展

http://timeway.vivian.jp/index.html

キリスト教の発展

 イエスの死後、弟子たちの活動によって徐々にキリスト教の信者はローマ帝国内に広がっていきました。はじめの頃の信者は、女性と奴隷が中心だったといわれています。イエスがどんな人々に布教したかを考えれば当然かもしれない。奴隷は当然、虐げられた人々。女性も社会的には抑圧された生活をしていたと考えられるでしょう。

 

 キリスト教が広まりはじめた頃は当然、新興宗教です。何時の時代でも、新興宗教というものは周囲から疑わしい目で見られるものだ。初期のキリスト教も、ローマでは胡散臭いものとして見られたようです。信者であることを知られると迫害されるので、彼らはこっそり集まって信仰を確かめあいました。

 

集まったのがカタコンベ。資料集に写真がありますね。このカタコンベは、地下墓所と訳しています。ローマ人たちは、町の郊外に墓地を作ります。地下にトンネルを掘って、トンネルの壁に棚がたくさん作ってあるでしょ。この棚に死体を置いたんだ。火葬はしません。現在は、こんなふうに空っぽの棚が並んでるだけだけど、当時はここにぎっしり死体があった。当然、気味が悪いところだから、誰も来ない。

 

 迫害を恐れて信者たちは、ここに集まったんです。集まる時間は夜。みんなが寝静まった頃を見計らって、奴隷たちや女たちが家屋敷を抜け出してカタコンベにやってきて集会を開きました。こっそり集まっても、やがて人々に知れますわな。キリスト教の信者たちは、夜な夜な地下墓所に集まって何かよからぬことをやっているんじゃないか、とますます差別が激しくなった。死体を食べてるとか、乱交してるとかね。

 

 まあ、そんな偏見や皇帝による弾圧があったりしながらも、徐々に信者は増えたようです。復習になりますが、ディオクレティアヌス帝の迫害は有名でしたね。ところが313年にはコンスタンティヌス帝のキリスト教公認、392年のテオドシウス帝による国教化と、4世紀にはキリスト教はローマ帝国を支える精神的な柱にまでなったわけです。

 

教義をめぐる対立、教父

 信者が増えるにつれて、各地に大きな教会もできてきます。聖職者も多くなる。やがて教義をめぐる教会内の対立が起きます。どんな宗教でも開祖が死んでから何十年もたてば、考え方の違いで対立したり分裂したりするものです。ただ、キリスト教はローマ帝国の公認宗教になりますから、帝国政府としては教会内部が対立するのは好ましくない。そこでローマ政府は公認後、何回か聖職者を集めて宗教会議を開いています。

 

 これは、教会内の対立を皇帝が調停するということと、もう一つは調停を名目として皇帝が教会内部に干渉して権力内部に取り込んでしまう、という意味もあったんです。

 

この宗教会議のことを教科書では公会議と書いています。有名な公会議が3つ。覚えます。

 

325年、ニケーア公会議

431年、エフェソス公会議

451年、カルケドン公会議

 

ニケーアとかエフェソスとか、会議の開かれた場所です。

 

 高校でこんなに詳しくキリスト教神学の勉強をする必要はないと個人的には思っているんですが、教科書は詳しいね。滅茶苦茶大ざっぱに説明しておきますね。

 

 キリスト教会の内部で、繰り返し議論の対象となった問題があります。この3つの公会議も、突き詰めたら一つの問題を繰り返し議論しているのです。それは何かというと、イエスの問題なんです。

 

イエスはなんなんだ?

初期の聖職者たちも、疑問に思ったんだね。彼が救世主であることはいいんです。そう信じる人が、キリスト教徒なんだから。問題はその先、救世主イエスは人間か、神か?

そこで論争が生まれる。

 

人間だったら死刑になったあと、生き返るはずはない。人は死んだら普通、死んだままですからね。だからイエスを人間とすると、やがてそれは復活の否定につながります。

 

 じゃあ、神だったのか。それもおかしいんです。キリスト教も一神教です。神はヤハウェのみ。イエスも神としたら、神が二人になってしまいます。だから彼を神とすることもできない。

 

 この矛盾をどう切り抜けて、首尾一貫した理論を作り上げるかで初期の聖職者、神学者たちは論争したんだ。

 

325年のニケーア公会議では、アリウス派という考えが異端、つまり間違った理論とされます。アリウス派は、イエスを人間だといったんです。正統と認められたのはアタナシウス派という。このアタナシウス派の考えは、あとでまとめます。

 

 431年のエフェソス公会議では、ネストリウスという人が異端とされます。彼はマリアを「神の母」と呼ぶのに反対したんで異端になった。実際には政治闘争だったようですが、あえていえばネストリウスもイエスの人間性を強調したということでしょう。451年カルケドン公会議では、単性論派が異端とされます。このグループは、イエスを人間ではないとする。単純にいえば神だ、というわけだ。

 

  つまりイエスを神とか人間とか、どちらかに言いきる主張は異端とされていったんです。これらの論争を通じて、勝ち残って正統とされたのはアタナシウス派です。この派の理論は「三位一体(さんみいったい)説」という。神とイエスと聖霊の三つは「同質」である、という理論です。注意しなければいけないのは「同質」という言い方。「同じ」とは違うからね。ややこしいね。「同質」というのは「質が同じ」なので「同じ」ではない。

 

 もともと「生き返った人間」イエスを人間でも神でもないものに、別の言い方をすれば、人間でもあり神でもあるものにしようというんだから、分かりやすく理論を作るのは無理だね。そこをなんとかくぐり抜けて完成された理論が「同質」の「三位一体説」です。だから私、実はよく分かっていません。このいきなり登場した「聖霊」は、いったいなんだろうね。辞典を読んでも分かりません。知っている人は、こっそり教えてください。

 

 現在キリスト教は世界中に広がっていますが、カトリックもプロテスタントも伝統的な教会は三位一体説にたっています。みんなそうだから、現在ではあらためてアタナシウス派なんて言わないくらいに一般的です。教会の説教で「父と子と聖霊の御名において~~」というのを聞いたことありませんか。あれが三位一体ですね。アメリカ合衆国生まれの新しい宗派では、三位一体説にたっていないものがあるかも知れませんがね。

 

  異端とされた宗派のその後ですが、ローマ帝国内では布教ができません。アリウス派は、北方のゲルマン人に布教活動をします。ネストリウス派は、イランから中央アジアにかけて広がっていきました。単性論派は、エジプトやエチオピアに残ります。

 

初期教会の指導者で教義を整備した人たちのことを教父といいます。二人覚えて下さい。エウセビオス(260~339)は「教会史」を著して有名。アウグスティヌス(354~430)は「告白」「神の国」の著者。アウグスティヌスは、もとマニ教というのを信じているんですがキリスト教に改宗する。そんな半生を書いたのが「告白」です。この人は今でも、キリスト教徒の人たちにはファンが多いみたいです。

2023/06/23

悪神ロキの物語(1)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 ゲルマンの神々の中でも、もっともユニークなのが「ロキ」という神の存在と言えます。「スノッリのエッダ」での彼の紹介は「アース神の中傷者、あらゆる嘘の張本人、神々と人間の恥」となっています。確かに「人間的な神々」であったギリシャの神体系の中にも「殺戮の神アレス」のように「好まれてはいない」神もおりましたけれど、こんな「ロキ」のような言い方はされていません。

 

 そのロキはどんな行動をしていたのかというと、スノッリでは

 

「巨人の息子であり(だから本来ならアース神一族ではないということになる)、容貌は美しいのだが、性格がひねくれていて行動がひどく気まぐれなのだ、悪知恵にかけては誰にもひけをとらず、何事にもずるい手だてを心得ていた。いつも神々を苦境に陥れたが、そのはかりごとで救い出したこともしばしばある」

 

と言われています。そして最終的にはアース神の敵となって、世界最終戦争において攻撃を仕掛けてくることになるのでした。

 

「八本足の馬スレイプニルにまつわる物語」

 ロキはヨーツンヘイムの女巨人と関係を持って「妖怪狼」、世界を取り巻く猛毒を吐く「大蛇」、冥界の女王とされる「ヘル」の三人の子どもを生んでおり、ロキはこんな具合に妖怪を生む神でもありました。そしてオーディンの持ち馬「八本足のスレイプニル」も、ロキが生んでいたのでした。その次第は、次のようなものです。

 

 その昔、神々が世界を作って人間の住む「ミズガルズ」を作り、そして神々がヴァルハラに定住し始めた頃、一人の「鍛冶屋」が神々のところにやってきました。そして彼が言うには

 

「山の巨人や霜の巨人がミズガルズに攻め入ろうとしても、それを防いで安全で信頼のできる砦をたった一年半で作ってさしあげましょう。その報酬としては女神フレイヤと、太陽と月もいただきたい」

 

と申し入れてきました。

 

 そこで神々は集まってどうしようかと相談をし、砦はやはり欲しいと思って、結局「もし、一冬でその砦を作ることができたならば、約束通り望みのものは差し出すことにしよう。だが夏の最初となって、まだ少しでもやり残している部分があったら、この契約は無効となり報酬はやらない。しかも、この仕事で誰かの助けがあっても駄目だ」

 

と言いました。

 

 この申し出を聞いて鍛冶屋は「自分のスヴァジルファリという名前の馬を使うことだけは認めて欲しい」と言ってきました。神々はまた相談したけれど「ロキ」がこの契約を皆に勧めたので、神々はこの契約を認めることにしました。

 

 そこで鍛冶屋は冬となった一日目から、砦の建設へと取りかかることになりました。彼は夜のうちに「馬のスヴァジルファリ」を使って石を運んできました。ところが、その馬の運んでくる石はとてつもなく巨大なものだったので、神々はそれを見て肝をつぶしました。しかも、その馬は鍛冶屋の倍も働くのでした。

 

 こうして冬が過ぎていきましたが、砦の方も着々と工事が進み、今や何人が攻めてきても攻撃できないほどに頑丈に高々と築かれていきました。そして夏の始まる三日前となった時には「砦の門」を残すのみとなっていました。

 

 神々はあわてました。そして集まって相談し

 

「一体、誰が女神フレイヤにヨーツンヘイムに嫁に行けなどと言えるのか。またどうやって太陽と月を奪ってきて、空と天とを破壊してまで鍛冶屋に与えるのか」

 

と話し合いました。もちろん妙案などあるわけもありません。

 

 そこで神々はロキに向かって、こんな悪い事を勧めたのは、いつものことながらお前だ、この取り決めが破棄になるような策を考えなければ、ろくな死に様にさせないぞと脅しました。これは神々の方が悪いですけれど、ロキは神々の剣幕を怖れて何としてもこの契約が破棄になるようにすると誓いました。

 

 その晩、いつものように鍛冶屋は馬のスヴァジルファリを連れて石を運ぼうと出かけていきましたが、その時森の中から一頭の美しい牝馬が現れて、スヴァジルファリの方に駆けてきていななきました。スヴァジルファリは、その牝馬を見てその美しさに目がくらみ、大暴れをして手綱を引きちぎり牝馬の方に駆けていってしまいました。あわてた鍛冶屋は、必死に馬を追いかけ捕まえようとしましたが二頭の馬は一晩中駆け回り、ついに鍛冶屋はその晩の工事ができませんでした。そして翌日も同じような事態になってしまいました。

 

 鍛冶屋は工事が夏の日が来るまでには終わらないということを悟ると「巨人の正体」を表して怒りに燃えました。アース神たちは鍛冶屋が「山の巨人」だと知ると、誓約を破ってトールを呼び出しました。このとき、実はトールは怪物を退治に東へと行っていたのです。そして、この工事の期間中はトールを戻すことはないという誓約をしていたのでした。というのも巨人たちは、トールをもっとも怖れていたからです。

 

 トールは自分を呼ぶ声に、すぐに帰ってきました。そして鍛冶屋に報酬を払うことも許さなかったばかりか、巨人族の領地であるヨーツンヘイムへ帰ることも許さず、槌を振り上げるや巨人の鍛冶屋の頭を粉々に砕いてしまい、冥界の「ニヴルヘル」へと送ってしまったのでした。

 

 さて、あの鍛冶屋の馬スヴァジルファリを色香で惑わした牝馬というのは、実はロキが身を変えたものだったのでした。そのロキである牝馬は、その後もスヴァジルファリのところに通い、しばらくして「子馬」を生んだのです。その馬は八本も足があってどんな馬よりも速く走ることのできる、もっとも優れた名馬となってオーディンの馬となったのでした。

2023/06/18

聖徳太子(1)

聖徳太子は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。

 

「聖徳太子」は、後世の尊称ないし諡号。また、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)など本名は厩戸と言われることも多いが、あくまでも第二次世界大戦後に推定された名が広まったものであり、古代の文献には見られない。

 

叔母の推古天皇の下、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった(太子信仰)。

 

名称

本名

本名については同時代史料には残っておらず、和銅5年(712年)成立の『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされている。また養老4年(720年)成立の『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされているほか、用明天皇紀では「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」という表記も見られる。

 

「聖徳太子」の語は『懐風藻』の序に見えるのが初出であり、「厩戸王」という名は歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく、田村圓澄が1964年発刊の中公新書『聖徳太子斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まった。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』が引く「元興寺露盤銘」には「有麻移刀」、「元興寺縁起」には「馬屋門、馬屋戸」と記載されており、前之園亮一は読みが「ウマヤト」であったことは事実であろうとしている。

 

『日本書紀』推古天皇元年四月条には厩戸前にて出生したという記述があり、『上宮聖徳法王帝説』では厩戸を出たところで生まれたと記述されている。厩戸の名は、これに基づくものとしばしば考えられている。古市晃は舒明天皇期の王宮であった厩坂宮が由来であるとし、渡里恒信は養育を行った額田部湯坐連が馬に深い関係を持っていたことに由来するとしている。また井上薫は厩戸という名の氏族に養育されたのではないかとしているが、同名の氏族が存在したという記録はない。

 

また「上宮(かみつみや)」を冠した呼称も見られる。『日本書紀』皇極天皇紀では太子の一族が居住していた斑鳩宮を指して「上宮」と呼称しているほか、子の山背大兄王を「上宮王」、娘を「上宮大娘姫王」とも呼称している。顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている。『日本書紀』では、恵慈が「上宮豊聡耳皇子」の名を使った記述があり、「上宮太子」という記述もある。

 

尊称

『日本書紀』では、名前から「上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎのみこ)」と呼ばれたとしている。「聖徳太子」という名称は、死去の129年後の天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことが、うかがえる。

 

713-717年頃の成立とされる『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と解釈する説もある。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。

 

またこれらを複合したものでは、慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には「上宮太子聖徳皇」、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」では「東宮聖王」、『日本書紀』では上宮厩戸豊聡耳太子のほかに「豊耳聡聖徳(とよみみさとしょうとく)」「豊聡耳法大王」「法主王」「東宮聖徳」といった尊称が記されている。

2023/06/16

12使徒(2)

https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca

バルトロマイ(Bartholomew

 別名ナタナエル(Nathanael)、フィリポのすすめでキリストと出会い、5番目の弟子となった。イエスの死後インドからアルメニアで伝道活動をしていたが、捕らえられて生きながら皮を剥がれて殺された。

 

 生きながら皮を剥がれたバルトロマイは、片手にナイフ(メス)を、もう片方の手には剥がされた皮膚を持っている姿で描かれている。次第に解剖学の象徴となり、多くの医学院で見られるようになった。

 

 1572年のバルトロマイの祝日に、パリで新教徒が虐殺される聖バルテルミーの虐殺:St. Bartholomew's Day Massacre)がおこる。

【バルトロマイ】英:バーソロミュー 、バート

 

トマス(Thomas

 復活したイエスは、トマス以外の弟子が集まったところに現れた。その場にいなかったトマスは、イエスの復活を信じようとせず

「あの方の手の釘の跡に、この指を入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」

と言い張った。8日後イエスはトマスの前に現れ

「あなたの指を私の手とわき腹に入れてみなさい」

と言った。トマスは復活を信じた。

 

 トマスは、イランからインド方面に伝道した。南インドにはトマスが設立した教会がある。西暦68年~75年ごろ、殉教しチェンナイ(旧マドラス)に葬られた。

 

 1522年、ポルトガルはチェンナイを支配し、サン・トメ教会やサン・トメ要塞を建設した。サン・トメとは聖トマスのこと。

【トマス】英:トーマス、トム、トミー、仏:トマ

 

マタイ(Matthaeus

 マタイは町の徴税人で、ユダヤ人社会からのけ者にされていた。徴税人とは、ローマ帝国から徴税業務を請け負った者で、決まった額を当局に納めなければならなかったが、余った分は自分の収入になった。そのため、徴税人は取り立てられるだけ取り立てようとするため、住民からは嫌われていた。

 

 イエスは、収税所にいるマタイに「弟子になるように」と声をかけ、彼は仕事を捨てて従った。

 

 彼が「マタイの福音書」の著者である。キリストの死後、エルサレムの教団内に留まり、その後エチオピアあるいはトルコで殉教したといわれる。

【マタイ】英:マシュー、仏:マテュー

 

シモン(Simon

 シモンはイエスの弟子になる前は、ローマの支配に抵抗する熱心党のメンバーだった。シモンはローマ人を屈服させられる指導者を探しており、その姿をイエスに重ね合わせていたのかもしれない。

 

 キリストの磔刑後エジプトに伝道し、その後ユダ(タダイ)とともにペルシアやアルメニアで活動し、そこで殉教したといわれる。

 

 シモンは、鋸で切断されて処刑されたという。そのため彼を描いた絵画には、鋸が描かれているものが多い。

【シモン】英:サイモン

 

小ヤコブ(Jacobus

 ヤコブはイエスの近親者(兄弟または従兄)で、アルファイの子ヤコブあるいは小ヤコブといわれる。聖霊降臨後に復活したイエスに出会い、エルサレム教会に加わった。教会を代表する人物として活躍し、初代エルサレム司教になった。

 

 新約聖書「ヤコブの手紙」の著者ともいわれている。エルサレムの神殿の屋根から突き落とされ、こん棒でたたかれて殉教したといわれている。彼を描いた絵画には、こん棒が多く描かれている。

 

【ヤコブの手紙】 「行いの伴わない信仰は、死んだものである」という表現で有名。

 

ユダ(タダイ)(Judas

 ユダ(タダイ)に関する伝承は定かではないが、小ヤコブの兄弟あるいはイエスの親族だったといわれる。イスカリオテのユダと区別するため「ヤコブの子ユダ」または、「イスカリオテでないユダ」と呼ばれている。ユダという名前が嫌われて「忘れられた聖人」と呼ばれた。

 

 タダイはバルトロマイとともに、エデッサ(現ウルファ、トルコ南東部)やアルメニアに宣教したといわれる。アルメニア使徒教会は、彼らによって建てられた教会と伝えられている。

 

イスカリオテのユダ(Judas)(Iscariot

 イエスはユダを愛し、信頼してお金を任せた(財務担当)。しかしユダは、貪欲に走って歴史上の裏切り者となった。イエスは、彼の裏切り行為を知って「私を裏切る人は生まれなければよかった」と、きびしく戒めている。最後にイエスはゲッセマネで「友よ、しようとしていることを、するがよい」とユダに告げた。イエスは彼を友と語りかけて赦している。

 

 イエスを銀貨30枚で売り渡したユダは、イエスに死刑判決が下ったことを知って後悔した。「私は罪のない人を売り渡し、罪を犯しました」と言って銀貨を返そうとしたが、ユダヤ教の祭司たちは拒絶した。ユダは銀貨を神殿に投げ込んで自殺した。イエスの死の前のことである。

 

 【ビートルズのヘイ・ジュード】

Hey Jude, don't make it bad!  ユダ そんなに落ち込むなよ」

【ユダ】英:ジュード

 

マティア(Matthias

 イスカリオテのユダの後任として、くじ引きで12使徒に選ばれた。彼は、トルコやカスピ海地方、また遠くエチオピアまで布教したようである。

2023/06/09

遣隋使

遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代、倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使の事を言う。600年(推古8年) - 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。

 

大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海を筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出る。

 

倭の五王による南朝への奉献以来、約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での新羅との関係を有利にするという影響力維持の意図もあった。

 

ただし、倭の五王時代とは異なり、冊封を受けない(したがって臣下ではない)外交原則とした。これは次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。

 

第一回(600年)

この派遣第一回 開皇20年(600年)は『日本書紀』に記載はないが、東アジア諸国では末尾の遣使だった。『隋書』「東夷傳俀國傳」は、高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。

 

「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

 

開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥(おおきみ)と号(ごう)し、使いを遣わして闕(みかど)に詣(まい)らしむ。上、所司(しょし)をして、その風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時に、出でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて、我が弟に委(ゆだ)ぬと云う。高祖曰く、此れ太(はなはだ)義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。

 

開皇二十年に、大王(おおきみ)と号する倭王アメノタラシヒコは、使者を遣わして帝に詣らせた。高祖が役人を通じて倭国の風俗を尋ねさせたところ、使者は「倭王は、天が兄であり、日が弟です。まだ天が明けない時に出て、跏趺して坐りながら、政(まつりごと)を聴きます。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます。」と答えた。高祖は「それは甚だ不合理(あるいは不義理)であるから改めるよう」訓令した。

 

俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、大王とされる。『新唐書』では、用明天皇(在位585-587年)が多利思比孤であるとしているが合わない。開皇20年は、推古天皇8年にあたる。この大王が誰かについては、推古天皇、厩戸王、蘇我馬子など意見が分かれている。

 

この時派遣された使者に対し、高祖は所司(役人)を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。使者は俀王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」で「天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前に出て跏趺して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」と述べている。ところが、高祖からみると、俀國の政治のあり方が道理に外れたものだと納得できず、改めるよう訓令したというのである。

 

これが国辱的な出来事だとして、日本書紀から隋使の事実そのものが、除外されたという。だが、その後603年(推古11年)冠位十二階や、604年十七条憲法の制定など隋風の政治改革が行われ、603年小墾田宮も外交使節の歓待を意識して新造されて、次の遣隋使派遣がされる。

 

第二回(607年)

第二回は『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。

 

日本の王から煬帝に宛てた国書が『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々)と書き出されていた。これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼有らば、復た以て聞する勿かれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。

 

なお、煬帝が立腹したのは天子は中華思想では1人で、それなのに辺境の地の首長が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出処」「日没処」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。冒頭に、「海の西の菩薩天子が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」と国書を提出していて、仏教を崇拝し菩薩戒を受けた文帝への仏教重視での対等の扱いを目指した表現で、譲位された煬帝相手のものではなかった。

 

小野妹子(中国名:蘇因高)は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の勅使として裴世清が派遣されるという厚遇で一緒に帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったので、これを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。

 

裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある。

 

「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」

 

「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』

 

これは皇帝が蕃夷の首長に対し下す形式の国書であった。しかし、なぜか倭皇となっており、「倭皇」を後の日本書記編纂での改竄とする見解がある。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しは「東の天皇が敬(つつし)みて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とあり、前回とは違う身分が上の貴人に差し出すへりくだった形式となっていて外交姿勢を改めたことになる。「東天皇」は後の編纂時に改定されたもので「大王」か「天王」だったという説と、そのまま天皇号の始まりとする両説がある。

 

なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される。

 

だが、姿勢に変化はあるものの、冊封は受けないとする倭国側の姿勢は貫かれ、隋は高句麗との緊張関係の中、冊封を巡る朝鮮三国への厳しい態度と違い、高句麗の背後に位置する倭国を重視して、冊封なき朝貢を受忍したと思われる。

 

第三回(608年)以降

裴世清を送って、小野妹子が再度派遣された。この時は多くの留学生を引き連れ、その中に、高向玄理、南淵請安、僧旻、倭漢福因、恵隠らがいて、彼らは隋の滅亡と唐建国を体験し、帰国後に7世紀後半の倭国の改革に貢献する。614年、最後の遣隋使が派遣される。

 

612年から614年にかけて隋は高句麗に出兵するが1回目で大敗し、戦費兵役負担から次の2回にわたる遠征の最中に隋国内で反乱が起こり、618年に煬帝は殺害され隋は滅亡し唐が成立した。

2023/06/07

12使徒(1)

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最後の晩餐

 イエスが処刑される前の晩に、12使徒とともに最後の晩餐(Last Supper)をとった。この席で使徒の一人がイエスを裏切り、他の使徒達も逃げてしまうと予告した。イエスは神に感謝する祈りを唱え、パンを「自分の体」、葡萄酒を「自分の血」として弟子たちに与えた。

 

 最後の晩餐の場面は非常に多くの作品が残されているが、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci )の絵画が有名である。裏切り者がいることを指摘するイエスに、12人の使徒の複雑な心理描写を描いている。

 

ペトロ(Petrus

 ペトロは漁師でヘブライ名はシモン・ペテロ・ケファともいわれる。12使徒の最長老でリーダー的存在。ガリラヤ湖で弟アンデレと漁をしている時にイエスに声をかけられ、最初の弟子になった。イエスは岩を意味するペトロというあだ名をつけた。

 

 イエスが逮捕された時、他の弟子達は官憲の追跡から逃げた。ペトロは官憲に捕まりイエスのことを3度訊ねられたが、私は知らないと言い通した。彼は初代教会の指導者となった。彼はローマで布教していたが、AD67年、皇帝ネロの迫害により逆さ十字架にかけられて殉教した。彼はローマのサンピエトロ大聖堂に埋葬されている。初代ローマ教皇。

 

Quo vadis?(クオ・ヴァディス:主よ、どこに行き給うか?)

 ペトロは迫害が激しいローマを逃げ出してアッピア街道を歩いていると、反対側から来たイエスに出会った。「主よ、どこへ行かれるのですか?」と聞くと、「もう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。彼はそれを聞いて恥じ、死を覚悟してローマへ戻った。1896年、ポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキエヴィチがキリスト教迫害を描いた小説クオ・ヴァディスを書いた。また、ハリウッドでも同名の映画が作成された。

【ペトロ】英:ピーター、仏:ピエール、露:ピョートル、伊:ピエトロ

 

アンデレ(Andreas

 アンデレはペトロの弟で、元は洗礼者ヨハネの弟子だった。彼は、黒海沿岸で伝道を行い、ギリシアのパトラ(Patras)X字型の十字架で処刑された。アンデレが処刑されたX字型の十字架は「アンデレの十字架(セント・アンドリュー・クロス:St.Andrew's Cross)」と呼ばれ、スコットランドの国旗(青地に白)やロシア海軍の軍艦旗(白地に青)になっている。彼は漁師の保護者であり、スコットランドの保護者である。また、東方教会(ギリシア正教)の初代総主教とされている。

【アンデレ】英:アンドルー、仏:アンドレ、独:アンドレアス、

 

大ヤコブ(Jacobus

 ヨハネの兄でゼベダイの子ヤコブ、あるいは大ヤコブと呼ばれる。イエスが捕らわれる直前、オリーブ山のゲッセマネに向かった時に、ヨハネ、ペテロと同行した。しかし、イエスの苦悩の祈りをよそに眠り込んでしまった。

 

 キリストの死後、6年間スペインに行き布教活動を行った。エルサレムに戻るとキリスト教徒への迫害はすざましく、すぐに捕らえられ斬首刑になった。使徒の中で最初の殉教者である。彼の弟子達はパレスチナを離れ、遺骸をスペインのコンポステラ(campus stellae:星の野原)に運んだ。その後スペインはアラブ人が押し寄せて異教徒の世界となり、その墓は忘れ去られた。

 

【サンティアゴ・デ・コンポステラ:Santiago de Compostela

 レコンキスタの最中の9世紀にヤコブの遺体が発見され、イスラム勢力と闘うキリスト教徒を守護するシンボルとして崇められた。 法皇レオン3世がこの地を聖地に指定すると、10世紀にはローマ、エルサレムと並ぶ大巡礼地になった。ヤコブはスペインの守護聖人である。

【ヤコブ】英:ジェームス、仏:ジャック、独:ヤーコブ、西:サンティアゴ

 

ヨハネ(Johannes

 大ヤコブの弟、ガリラヤの漁師の子。イエスを洗礼した洗礼者ヨハネの弟子。ヤコブ、ペテロと共にイエスの一番弟子であり、常にイエスと行動を共にした。気性が荒いことでヤコブと共にイエスから「雷の子」というあだ名を付けられた。

 

 使徒の中で唯一殉教せず、エーゲ海のパトモス島で晩年を過ごし、福音書や黙示録を記した。

 

【ヨハネの黙示録】迫害されているキリスト教徒を慰め、激励するために書かれた書簡。キリストの再来、神の国の到来、地上王国の滅亡などが記述されている。これはヨハネが神からの啓示を受けて書いたものといわれ、人類の終末が近づいてくる様子を描写している。

【ヨハネ】英:ジョン、仏:ジャン、伊:ジョヴァンニ、西:ファン、独:ヨハン、ハンス 露:イワン

【女性形】ヨハンナ、ジョアンナ、ジョアナ、ジョアンヌ、ジャンヌ、ジャネット

 

フィリポ(Philippe

 フィリポは、イエスが「私についてきなさい」と、はっきり命じた最初の弟子でる。彼はエチオピアの女王に仕える宦官に福音を伝えた。その宦官がエチオピアに戻り教会を設立した。エチオピアや北アフリカには、かなり早い時期にキリスト教が普及している。

 

その後、フィリポはトルコ西部で宣教を行った。ヒエラポリスの神殿に住みついていた大蛇を退治し、蛇にかまれた大勢の人々の命を助けた。町の支配者や異教の神官はこれに反発し、彼を逆十字に縛って処刑した。

 

彼はヒエラポリスに埋葬された。

【フィリポ】英:フィリップ、西:フェリペ