2023/01/20

ヤマト王権(11)

10代:崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇)

「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とも称され、この別名は神武天皇の別名と同訓である。崇神天皇は、三輪氏に大物主大神を祀らせた。日本書紀によれば四道将軍を派遣したとされ、この将軍派遣記事が初の本格的な日本統一運動である。

 

11代:垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)

相撲と埴輪の起原は、垂仁天皇の時代にあるとされる。

 

12代:景行天皇(大足彦忍代別天皇)

景行天皇は九州の征伐に赴き、皇子日本武尊は東国へ遠征を行ったとされる。

 

13代:成務天皇(稚足彦天皇)

父と日本武尊の遠征・平定を受け、この時代に東北から九州までの諸国に国造と県主を設置した。これは4世紀代後半までに東北から九州南部にかけて、古墳(前方後円墳、前方後方墳)が築造されたことに符合する。

 

14代:仲哀天皇(足仲彦天皇)

皇后の神功皇后は仲哀天皇崩御後に熊襲征伐や三韓征伐を行い、その後即位せずに政務をとったとされる。

 

15代:応神天皇(誉田天皇)

 

16代:仁徳天皇(大鷦鷯天皇)

聖帝」と称され、河内平野の開拓にいそしみ、人家の竈から炊煙が立ち上がらないことを知って租税を免除するなど、仁政を施した逸話で知られる。

 

17代:履中天皇(大兄去来穂別天皇)

18代:反正天皇(瑞歯別天皇)

 

19代:允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰天皇)

この時代に、中央豪族や各地の豪族に対して姓を与えたとされる。

 

20代:安康天皇(穴穂天皇)

 

21代:雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)

倭の五王の最後として『宋書』倭国伝に記された「倭王武」であるとされる。また、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)の辛亥年(471年)の紀年銘、および熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘には、雄略天皇の名と一致する人名がみられる。

 

以後、

22代:清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)

23代:顕宗天皇(弘計天皇)

24代:仁賢天皇(億計天皇)

25代:武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯天皇)

と続く。

 

古墳時代

武烈天皇には子がなく、大伴金村らは近江国高島郡で生まれ越前国で育った応神天皇5世孫の男大迹王を推挙し、王は即位した(第26代天皇の継体天皇)。ここに皇統の断絶があったとする見解もある。

 

以後、

27代:安閑天皇(広国押武金日天皇)

28代:宣化天皇(武小広国押盾天皇)

29代:欽明天皇(天国排開広庭天皇)

30代:敏達天皇(渟中倉太珠敷天皇)

31代:用明天皇(橘豊日天皇)

32代:崇峻天皇(泊瀬部天皇)

と続く。

 

崇峻天皇は蘇我馬子の命により暗殺され、初の女帝となる推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)が継いで、第33代天皇となった。

 

神話伝承を根拠とする諸事

皇紀と建国記念の日

神武天皇の橿原宮での即位は「辛酉年」正月であることから、『日本書紀』の編年から遡って紀元前660年に相当し、それを紀元とする紀年法が「皇紀」(神武天皇即位紀元)である。西暦1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、日中戦争の戦時下にあったためもあり、「紀元二千六百年記念行事」が国を挙げて奉祝された。この年に生産が開始された零式艦上戦闘機(いわゆる「ゼロ戦」)は皇紀の下2桁が「00」にあたるところからの命名である。

 

 

また、神武天皇の即位日は『日本書紀』によれば「辛酉年春正月、庚辰朔」であり(中国で665年につくられ、日本で692年から用いられた『儀鳳暦(麟徳暦)』によっている)、これは旧暦の11日ということであるが、明治政府は太陽暦の採用にあたり、1873年(明治6年)の「太政官布告」第344号で新暦211日を即位日として定めた。根拠は、西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日が新暦211日に相当するとされたためであった。

 

この布告にもとづき、戦前は211日が紀元節として祝日とされていた。紀元節は、大日本帝国憲法発布の日(1889年(明治22年)211日)、広田弘毅発案による文化勲章の制定日(1937年(昭和12年)211日)にも選ばれ、昭和天皇即位後は四方拝(11日)、天長節(429日)、明治節(113日、明治天皇誕生日)とならび「四大節」とされる祝祭日であった。

 

紀元節は太平洋戦争(大東亜戦争)終結後1948年に廃止された。「建国記念日」を設置する案は度々提出されたが、神武天皇の実在の真偽などから成立には至らず、1966年に妥協案として「の」を入れた「建国記念の日」が成立した。国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定しており、1966年(昭和41年)の祝日法改正では「国民の祝日」に加えられ、今日に至っている。

 

『日本書紀』は雄略紀以降、元嘉暦(中国で443年に作られ、日本で691年まで単独使用された(翌年から697年までは儀鳳暦と併用))で暦日を記しているが、允恭紀以前は『日本書紀』編纂当時の現行暦である儀鳳暦に拠っている。船山の大刀銘が「大王世」と記す一方、稲荷山の鉄剣名が「辛亥年」と記すことから、まさに雄略朝に元嘉暦は始用され、それ以前には、まだ日本では中国暦による暦日は用いられていなかったと考えられている。むろん7世紀につくられた儀鳳暦が用いられていたはずもなく、神武即位日を新暦に換算することは不可能である。

 

神宝と皇室行事

皇室に伝わる神宝は「三種の神器」と呼称され、天孫降臨の際に天照大神から授けられたとする鏡(八咫鏡)、剣(天叢雲剣)、玉(八尺瓊勾玉)を指す。

 

大和時代に起源をもち、今日まで伝わる行事としては上述「四大節」のうちの「四方拝」のほか1017日の「神嘗祭」や1123日の「新嘗祭」がある。「大祓」もまた、大宝令で初めて明文化された古い宮中祭祀である。また、『日本書紀』顕宗紀には顕宗朝に何度か「曲水宴」(めぐりみずのとよあかり)の行事がおこなわれたとの記事がある。

 

なお八咫鏡と大きさが同じ直径46cmで、その図象が「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」の八咫鏡の記述「八頭花崎八葉形」と類似する大型内行花文鏡が福岡県糸島市の平原遺跡から5枚出土しており、三種の神器との関連が考えられている。

 

関連神社

伊勢神宮

皇室の祖先神である天照坐皇大御神を主祭神とする神社。垂仁天皇の第4皇女倭姫命が、天照大神を祭る土地を東に求めて大和、近江、美濃を経て、神託により伊勢に大神が鎮坐する祠を立てたのが、この神宮の起源であるという。

 

大神神社

大和朝廷発祥の地とされる、奈良盆地南東部に所在する神社である。神武東征前の先住支配者であった三輪氏の氏神。主祭神は大物主大神であり、三輪山を神体山とする。大己貴神が自らの幸魂奇魂である大三輪の神を日本国の三諸山(三輪山)に宮をつくって住ませたのが、この神社の起源であるという。今日でも本殿をもたず、拝殿から三輪山を神体として仰ぎみる古神道(原始神道)の形態を残している。また、山を神体としないものの、大神神社と同じく本殿を持たない諏訪大社は、三輪氏と同族であった諏訪氏が奉斎した。

 

熱田社

三種の神器のひとつ草薙神剣(草薙剣、天叢雲剣)を神体とし、熱田大神を主祭神とする。日本武尊は、東国遠征ののち尾張国造の娘・宮簀媛を娶り、能褒野で崩じたという。

 

石上神宮

神武天皇の時代から仕える有力豪族の物部氏の氏神。崇神天皇の時代に創建された。垂仁天皇が五十瓊敷命と大足彦命(のちの景行天皇)の兄弟に対し、それぞれが欲するものを尋ねた際、兄の五十瓊が弓矢、弟が皇位を望んだとされ、五十瓊敷が大刀一千口を作り石上神宮に蔵したのを契機として、守護神として崇敬されるようになった。

2023/01/16

北欧神話(4)

北欧神話(アイスランド語:Norræn goðafræði、ノルウェー語:Norrøn mytologi、スウェーデン語:Nordisk mytologi、デンマーク語:Nordisk mytologi)は、キリスト教化される前のノース人の信仰に基づく神話。スカンディナビア神話とも呼ばれている。ゲルマン神話の一種で、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、アイスランドおよびフェロー諸島に伝わっていたものの総称。普通、フィンランド神話とは別系統のものとされる。

 

神話は主にキリスト教化以前に存在した現地の宗教と、主にノルウェー人が入植、定住し、北欧神話の文書化された典拠の大多数が収集されるに至ったアイスランドを含むスカンディナヴィア人の伝説と信仰で構成されている。北欧以外のゲルマン人は、早くからキリスト教化されたため、民族独自の神話や思想を示す書物がほとんど残っていない。そのため北欧神話は、年代の古い一般的なゲルマン・ペイガニズムが最も良い状態で保存されており、ゲルマン人の古来の習俗や精神を理解する上で貴重な資料となっている。このゲルマン・ペイガニズムは、アングロ・サクソン神話と極めて密接に関連した内容を含んでいる。なお、ゲルマン神話は初期のインド・ヨーロッパ神話から発展したものである。

 

北欧神話は、北ゲルマン民族によって共有されていた信仰や物語が集約されたもので、神話は詩の形で口承により伝えられ、現存する神話についての知識は主にスノッリ・ストゥルルソンにより書かれた『エッダ』や、キリスト教化中またはその後に書き下ろされた、中世における他の版本に基づいている。北欧神話は基本的に古ノルド語で著わされているが、『デンマーク人の事績』などラテン語で書かれたものもある。

 

北欧神話の中にはスカンディナヴィアの伝承の一部となり、現在まで生き残ったものもある。その他は近年、ゲルマン・ネオペイガニズムとして再考案・構築されている。ステージでの上演劇や映画同様、神話は現在も様々な文学の着想として残されている。

 

原典

北欧神話について現存する記録の大多数は13世紀にまで遡ることができ、少なくとも正式にキリスト教社会となった世界に、2世紀以上も口承の形で保存されていた。13世紀に学者達はこの口伝えに残る神話の記録を始め、特にキリスト教以前の神々が実際の歴史上の人物にまで辿ることができると信じていた学者、スノッリ・ストゥルルソンにより、『エッダ(散文のエッダ、新エッダ)』や『ヘイムスクリングラ』が書き起こされた。このほかには、北欧の神々がより強くエウヘメリズム化(神々は人間が神格化されたものであるという解釈)された、サクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』がある。

 

『エッダ』を13世紀初期に書いたスノッリ・ストゥルルソンという人物は、卓越した詩人・指導者でアイスランドの外交官でもあった。この『エッダ』は本来、その技法の学習を熱望する詩人へ向け、入門書として作られたとされる。この作品には伝統的なケニング(婉曲表現技法)や、詩に詰め込まれた暗喩表現を散文体で解説した内容が含まれている。こうした散文体での語りが、北欧の神々についての様々な物語を体系的かつ首尾一貫したものにしたのである。

 

『詩のエッダ(古エッダ)』は、『散文のエッダ』が書かれたおよそ50年後に執筆されたと言われている。『詩のエッダ』は29の長い詩で構成されており、その内の11の詩はゲルマンの神々を扱ったもので、その他は『ヴォルスンガ・サガ』のシグルズ(中世ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の主人公ジーフリト)のような伝説的英雄について書かれたものである。学者達は、この『エッダ』が他の『エッダ』よりも後の時代に記されたのではないかと考えているが、その物語における言語と詩の形態は、書かれた時代より1世紀も昔に作られたと考えられている。

 

こうした原典のほか、9世紀から14世紀にかけて北欧で編纂された『サガ』や『サットル』、『スカルド詩』などにも北欧の信仰は反映されており、これらから伺い知ることができる神話も存在する。また、その他スカンディナヴィアの伝承などにも残存する言い伝えがあり、その中の一部は、古英語で書かれた『フィンネスブルグ争乱断章』に関連する物語や、『デーオルの嘆き』中に登場する神話的な物語への言及など、時代の古いゲルマン文学に現れる伝説に裏付けられている。数々の部分的な文献や言い伝えが残っている時、学者達は詩の背後にある意味合いや表現を推論することが出来るのである。加えてスカンディナヴィアには、神々にちなんでつけられた地名が数多く存在する。

 

ルーン文字石碑の一つ、レーク石碑

レーク石碑(Rök Runestone)やクヴィネビ・アミュレット(Kvinneby amulet)のように、表面に刻まれているごく少数のルーン文字の碑文にも、神話への言及がなされている。トールの魚釣りの旅や『ヴォルスンガ・サガ』からの場面、オーディンとスレイプニルやフェンリルに飲み込まれるオーディンなど、北欧神話からの場面を描いたルーン文字石碑や絵画石碑もある。現存するフンネシュタット石碑(Hunnestad Monument)の1つには、狼に跨ってバルドルの葬式へ行くヒュロッキンが描かれている。

 

デンマークでは巻いた口髭が生え、口を閉じられているロキの絵が描かれたイメージ・ストーンがあるほか、複雑に入り組んだ絵が描かれたイギリスのゴスフォース十字架石碑もある。更に隻眼のオーディンやハンマーを持つトール、直立した男根のフレイなど、神々を描いた小立像も存在する。

 

司教なども、ゲルマン人の信仰に関する記述を残している。サクソ・グラマティクスは『デンマーク人の事績』の中でスカンディナヴィアの神々について触れ、ブレーメンのアダムは『ハンブルク教会史』を著した。また、これら北欧で著されたものの他に、1世紀ごろのローマの歴史家タキトゥスが著した『ゲルマーニア』や、イブン・ファドラーンの『ヴォルガ・ブルガール旅行記』などにも、ゲルマン人の信仰に関する記述が残されていた。

出典 Wikipedia

2023/01/11

ヤマト王権(10)

こうしたなか、6世紀初頭に近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド大王(継体天皇)が現れ、ヤマトに迎えられて王統を統一した。しかし、オホドは奈良盆地に入るのに20年の歳月を要しており、この王権の確立が必ずしもスムーズではなかったことを物語る。オホド大王治世下の527年には、北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携して、ヤマト王権と軍事衝突するにいたった(磐井の乱)。この乱はすぐに鎮圧されたものの、乱を契機として王権による朝鮮半島南部への進出活動が衰え、大伴金村の朝鮮政策も失敗して、朝鮮半島における日本の勢力は急速に揺らいだ。

 

継体天皇の没後、531年から539年にかけては、王権の分裂も考えられ、安閑・宣化の王権と欽明の王権が対立したとする説もある(辛亥の変)。一方、オホド大王の登場以降、東北地方から九州地方南部に及ぶ全域の統合が急速に進み、とくに磐井の乱の後には各地に屯倉とよばれる直轄地が置かれて、国内的には政治統一が進展したとする見方が有力である。なお、540年には、オホド大王を擁立した大伴金村が失脚している。

 

ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半)

6世紀前半は、砂鉄を素材とする製鉄法が開発されて鉄の自給が可能になったこともあって、ヤマト王権は対外的には消極的となった。562年、伽耶諸国は百済、新羅両国の支配下にはいり、ヤマト王権は朝鮮半島における勢力の拠点を失った。その一方、半島からは暦法など中国の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。ヤマト王権の内部では、中央豪族の政権における主導権や、田荘・部民などの獲得を巡って抗争がつづいた。大伴氏失脚後は、蘇我稲目と物部尾輿が崇仏か排仏かを巡って対立し、大臣蘇我馬子と大連物部守屋の代には、ついに武力闘争に至った(丁未の乱)。

 

丁未の乱を制した蘇我馬子は、大王に泊瀬部皇子を据えたが(崇峻天皇)、次第に両者は対立し、ついに馬子は大王を殺害した。続いて姪の額田部皇女を即位させて推古天皇とし、厩戸王(聖徳太子)とともに強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階や十七条憲法の制定など、官僚制を柱とする大王権力の強化・革新を積極的に進めた。

 

6世紀中葉に日本に伝来した仏教は、統治と支配を支えるイデオロギーとして重視され、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂された。これ以降、氏族制度を基軸とした政治形態や諸制度は徐々に解消され、ヤマト国家の段階は終焉を迎え、古代律令制国家が形成されていくこととなる。

 

「日本」へ

7世紀半ばに唐が高句麗を攻め始めるとヤマトも中央集権の必要性が高まり、難波宮で大化の改新が行われた。壬申の乱にて大王位継承権を勝ち取った天武天皇は藤原京の造営を始め、持統天皇の代には飛鳥から遷都した。701年、大宝律令が完成し、この頃からヤマト王権は「日本国」を国号の表記として用い(当初は「日本」と書き「やまと」と訓じた)、大王に代わる新しい君主号を、正式に「天皇」と定めた。

 

史書の記録

前史

『日本書紀』によれば、伊奘諾尊と伊奘冉尊の間に生まれた太陽神である天照大神が皇室の祖だという。その子天忍穂耳尊と栲幡千千姫(高皇産霊尊の娘)の間にうまれた子の瓊瓊杵尊(天孫)は、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原より日向の襲の高千穗峰に降臨した(天孫降臨)。

 

瓊瓊杵尊は、大山祇神の娘である木花之開耶姫を娶り、火闌降命(海幸彦。隼人の祖。)・火折尊(山幸彦。皇室の祖。)・火明命(尾張氏の祖)を産んだ。山幸彦と海幸彦に関する神話としては「山幸彦と海幸彦」がある。

 

火折尊は海神の娘である豊玉姫を娶り、二人の間には彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊が生まれた。鸕鶿草葺不合尊は、その母の妹である玉依姫を娶り、五瀬命・稲飯命・三毛入野命・磐余彦尊が生まれた。瓊瓊杵尊より鸕鶿草葺不合尊までの3代を「日向三代」と呼ぶことがある。

 

神武東征と建国

磐余彦尊は日向国にあったが、甲寅年、45歳の時に饒速日(物部氏の遠祖)が東方の美しい国に天下った話を聞いた。磐余彦尊は、自らの兄や子に東へ遷ろうとすすめて、その地(奈良盆地)へ東征(神武東征)を開始した。速吸の門では、国神である珍彦(倭国造の祖)に出会い、彼に椎根津彦という名を与えて道案内にした。筑紫国菟狭の一柱騰宮、同国崗水門を経て、安芸国の埃宮、吉備国の高島宮に着いた。磐余彦は大和の指導者長髄彦と戦い、饒速日命はその主君であった長髄彦を殺して帰順した。辛酉年、磐余彦尊は橿原宮で初めて天皇位につき(神武天皇)、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。

 

伝承の時代

初代天皇の神武天皇(神日本磐余彦天皇)の後は、

2代:綏靖天皇(神渟名川耳天皇)

3代:安寧天皇(磯城津彦玉手看天皇)

4代:懿徳天皇(大日本彦耜友天皇)

5代:孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇)

6代:孝安天皇(日本足彦国押人天皇)

7代:孝霊天皇(大日本根子彦太瓊天皇)

8代:孝元天皇(大日本根子彦国牽天皇)

妹と伝わる倭迹迹日百襲姫命は、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳の被葬者と伝わる。この古墳の築造を期に、各地で前方後円墳が築造され始める。

 

9代:開化天皇(稚日本根子彦大日日天皇)

以上の8代は記紀において事績の記載がほとんどないため、欠史八代と称されることがある。

2023/01/10

第101回高校サッカー選手権決勝

101回の高校サッカー選手権は、岡山学芸館高校が初優勝

 

戦前に優勝候補に挙げられていたのは青森山田、前橋育英(群馬)、昌平(埼玉)、履正社(大阪)、大津(熊本)、神村学園(鹿児島)、さらには尚志(福島)、日大藤沢(神奈川)、浜松開誠館(静岡)、米子北(鳥取)などの有力校が軒並み潰し合う激戦を展開。3回戦8試合のうちの4試合、準々決勝4試合のうち2試合と半分の試合が、PK決着となる接戦が続いた。

 

さらに準決勝は、2試合ともPK決着となった末、岡山学芸館と東山(京都)が、それぞれ神村学園、大津という優勝候補を破り、ともに初の決勝進出となった末、最後は岡山学芸館が戦国大会を制した。

 

各地区のプレミアリーグ、プリンスリーグで揉まれてきた学校も多いだけに、実力が拮抗してきているのが今大会の特徴で、どこが勝ってもおかしくない戦国時代の様相だ。

 

それにしても、サッカーで恨めしいのは「PK決着」だろう。この前のワールドカップもそうだったが、折角好ゲームを展開しながら最後にPKで勝敗を決めるというのが、どうにもやりきれない。確かにあれだけの過密日程で延長戦というわけにはいかないし、時間内で何とか決着を付けなければならないとあっては仕方がないのかもしれないが、なんとも残酷で観ていられないのだが、実は見る分には面白かったりするから実に厄介だ。

2023/01/02

ヤマト王権(9)

ワカタケルの政権(古墳時代中期後半)

475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、蓋鹵王はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の熊津へ遷した。こうした半島情勢により「今来漢人(いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。5世紀後半から6世紀にかけての雄略天皇の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。雄略天皇は、上述した倭の五王のうちの武であると比定される。

 

『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権(倭王武の先祖)が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。

 

この時代のものと考えられる埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には辛亥年(471年)の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、上述の「倭王武の上表文」の征服事業の記載と整合的である。

 

また、稲荷山古墳出土鉄剣銘には、東国の豪族が「大王」の宮に親衛隊長(「杖刀人首」)として、江田船山古墳出土鉄刀銘には西国の豪族が大王側近の文官(「典曹人」)として仕え、王権の一翼を担っていたことが知られている。職制と「人」とを結んで「厨人」「川瀬舎人」などのように表記する事例は、『日本書紀』雄略紀にもみられ、この時期の在地勢力とヤマト王権の仕奉関係は「人制」とよばれる。

 

さらに、銘文には「治天下…大王」(江田船山)、「天下を治むるを左(たす)く」(稲荷山)の文言もあり、宋の皇帝を中心とする天下とはまた別に、倭の大王を中心とする「天下」の観念が芽生えている。これは、大王のもとに中国の権威からある程度独立した秩序が形成されつつあったことを物語る。

 

上述した「今来漢人」は、陶作部、錦織部、鞍作部、画部などの技術者集団(品部)に組織され、東漢氏に管理を任せた。また、漢字を用いてヤマト王権のさまざまな記録や財物の出納、外交文書の作成にあたったのも、その多くは史部とよばれる渡来人であった。こうした渡来人の組織化を契機に、管理者である伴造やその配下におかれた部などからなる官僚組織が次第につくられていったものと考えられる。

 

一方、5世紀後半(古墳時代中期後半)の古墳の分布を検討すると、この時代には、中期前半に大古墳のつくられた筑紫、吉備、毛野、日向、丹後などの各地で大規模な前方後円墳の造営がみられなくなり、ヤマト政権の王だけが墳丘長200メートルを超える大前方後円墳の造営を続けている。この時期に、ヤマト政権の王である大王の権威が著しく伸張し、ヤマト政権の性格が大きく変質したことは、考古資料の面からも指摘できる。

 

なお、平野邦雄は「王権を中心に一定の臣僚集団による政治組織が形成された段階」としての「朝廷」概念を提唱し、ワカタケルの時期をもって「ヤマト朝廷」が成立したとの見解を表明している。

 

王権の動揺と変質

継体・欽明朝の成立(古墳時代後期前半)

ワカタケルの没後、5世紀後半から末葉にかけての時期には、巨大な前方後円墳の築造も衰退しはじめ、一般に小型化していく一方、小規模な円墳などが群集して営まれる群集墳の造営例が現れ、一部には横穴式石室の採用もみられる。こうした動きは、巨大古墳を築造してきた地域の大首長の権威が相対的に低下し、中小首長層が台頭してきたことを意味している。これについては、ワカタケル大王の王権強化策は成功したものの、その一方で旧来の勢力からの反発を招き、その結果として王権が一時的に弱体化したという考えがある。

 

5世紀後半以降の地方の首長層とヤマトの王権との関係は、稲荷山鉄剣や江田船山大刀に刻された銘文とその考古学的解釈により、地方首長が直接ヤマトの大王と結びついていたのではなく、地方首長とヤマト王権を構成する大伴、物部、阿部などの畿内氏族とが強い結びつきを持つようになったものと想定される。王は「大王」として専制的な権力を保有するようになったとともに、その一方では大王と各地の首長層との結びつきはむしろ稀薄化したものと考えられる。また、大王の地位自体が次第に畿内豪族連合の機関へと変質していく。

 

5世紀末葉から6世紀初頭にかけて、『日本書紀』では短期間のあいだに清寧、顕宗、仁賢、武烈の4人の大王が次々に現れたと記し、このことは、王統自体も激しく動揺したことを示唆している。また、こののちのオホド王(継体天皇)即位については、王統の断絶ないし王朝の交替とみなすという説(王朝交替説)がある。

 

こうした王権の動揺を背景として、この時期、中国王朝との通交も途絶している。ヤマト王権はまた、従来百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済的・政治的基盤を築いてきたが、百済勢力の後退によりヤマト王権の半島での地位も相対的に低下した。このことにより、鉄資源の輸入も減少し、倭国内の農業開発が停滞したため、王権と傘下の豪族達の政治的・経済的求心力が低下したとの見方も示されている。6世紀に入ると、半島では高句麗に圧迫されていた百済と新羅がともに政治体制を整えて勢力を盛り返し、伽耶地方への進出をはかるようになった。